法友通信 「罪悪観」と「機の深信」
のページに2人の会員の手紙の要約が書かれていました。
Aさんの手紙の一文
このたび、罪悪観は自力であり、目的である信心決定(二種深信)に近づけるための方便であるから、大変大事ではあるけれども、「罪悪観」をどれだけ深めても「機の深信」にはならないと聞かせていただきました。
Bさんの手紙の一文
「罪悪観」は自力・方便であり、もっと大切なのが「機の深信」が立っているかいないかの信心の沙汰である。自力からしか他力へは入れないが、幾ら罪悪観を深めても、機の深信にはならない、と教えていただきました。
声が出ませんでした。
何ですかね、これは。
「罪悪観」をどれだけ深めても「機の深信」にはならない
というのはいいですよ。
問題はその前の文。
2人とも同じことを書いていますので、これが親鸞会で教えられていることなのでしょう。
本当にびっくり仰天です。
恥ずかしいから、こういうのを書くのをやめてもらいたいです。
注:
本願寺の学者・布教使が「罪悪観は自力である」と書いたり言ったりする場合の罪悪観は、信罪福心のことをさしています。信罪福心は自力心の異名です。
上の2通の手紙の中の「罪悪観」はそういう意味では書かれていません。
百歩譲って、上の手紙の罪悪観を信罪福心と解釈した場合でも、信罪福心は方便とは言わないですね。
やはりおかしいです。
救われるまでは無益ではなくて(有益で)、救われる時には無益になるなどとは言われていません。
次の御一代記聞書の文を読めば明らかです。
一 順誓申しあげられ候ふ。一念発起のところにて、罪みな消滅して正定聚不退の位に定まると、御文にあそばされたり。しかるに罪はいのちのあるあ ひだ、罪もあるべしと仰せ候ふ。御文と別にきこえまうし候ふやと、申しあげ候ふとき、仰せに、一念のところにて罪みな消えてとあるは、一念の信力にて往生定まるときは、罪はさはりともならず、されば無き分なり。命の娑婆にあらんかぎりは、罪は尽きざるなり。順誓は、はや悟りて罪はなきかや。聖教には「一念のところにて罪消えて」とあるなりと仰せられ候ふ。罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし。罪消えて御たすけあらんとも、罪消えずして御たすけあるべしとも、弥陀の御はからひなり、われとしてはからふべからず。ただ信心肝要なりと、くれぐれ仰せられ候ふなり。
(御一代記聞書 註釈版聖典1244頁)
一 仰せに、一念発起の義、往生は決定なり。罪消して助けたまはんとも、罪消さずしてたすけたまはんとも、弥陀如来の御はからひなり。罪の沙汰無益なり。たのむ衆生を本とたすけたまふことなりと仰せられ候ふなり。
(御一代記聞書 註釈版聖典1245頁)