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罪悪

2009/12/01(火)
『名號不思議の信心』(加茂仰順師)より

 ときたま耳にすることですが、自分の罪悪がよく知られなければ、お救いは分からんということがときたまあるのです。理屈からすればなるほどと思えないこともありませんが、これは知った世界以外のものではないのです。「知った世界」と「聞かされた世界」はまったく違うものです。真宗は「聞かされた世界」のものです。知った世界は罪悪感を前提とするものですが、この知った世界をどれほど延長しても聞かされた世界には入られません。聞かされた世界は、知った世界の罪悪感に対して信機のすがたをとります。そしてこの信機は信法と二種一具となって、まことの信心のすがたをあらわすのです。

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タグ : 加茂仰順 罪悪

2009/11/30(月)
顕正新聞(平成21年11月15日号)を読みました。
法友通信 「罪悪観」と「機の深信
のページに2人の会員の手紙の要約が書かれていました。

Aさんの手紙の一文
このたび、罪悪観は自力であり、目的である信心決定(二種深信)に近づけるための方便であるから、大変大事ではあるけれども、「罪悪観」をどれだけ深めても「機の深信」にはならないと聞かせていただきました。

Bさんの手紙の一文
罪悪観」は自力・方便であり、もっと大切なのが「機の深信」が立っているかいないかの信心の沙汰である。自力からしか他力へは入れないが、幾ら罪悪観を深めても、機の深信にはならない、と教えていただきました。

声が出ませんでした。
何ですかね、これは。
罪悪観」をどれだけ深めても「機の深信」にはならない
というのはいいですよ。
問題はその前の文。
2人とも同じことを書いていますので、これが親鸞会で教えられていることなのでしょう。
本当にびっくり仰天です。
恥ずかしいから、こういうのを書くのをやめてもらいたいです。

注:
 本願寺の学者・布教使が「罪悪観は自力である」と書いたり言ったりする場合の罪悪観は、信罪福心のことをさしています。信罪福心は自力心の異名です。
 上の2通の手紙の中の「罪悪観」はそういう意味では書かれていません。
 百歩譲って、上の手紙の罪悪観を信罪福心と解釈した場合でも、信罪福心は方便とは言わないですね。
 やはりおかしいです。

タグ : 機の深信 罪悪

2009/11/19(木)
「罪のあるなしの沙汰をせんよりは」とは「罪の沙汰無益なり」ということです。
救われるまでは無益ではなくて(有益で)、救われる時には無益になるなどとは言われていません。
次の御一代記聞書の文を読めば明らかです。

一 順誓申しあげられ候ふ。一念発起のところにて、罪みな消滅して正定聚不退の位に定まると、御文にあそばされたり。しかるに罪はいのちのあるあ ひだ、罪もあるべしと仰せ候ふ。御文と別にきこえまうし候ふやと、申しあげ候ふとき、仰せに、一念のところにて罪みな消えてとあるは、一念の信力にて往生定まるときは、罪はさはりともならず、されば無き分なり。命の娑婆にあらんかぎりは、罪は尽きざるなり。順誓は、はや悟りて罪はなきかや。聖教には「一念のところにて罪消えて」とあるなりと仰せられ候ふ。罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし。罪消えて御たすけあらんとも、罪消えずして御たすけあるべしとも、弥陀の御はからひなり、われとしてはからふべからず。ただ信心肝要なりと、くれぐれ仰せられ候ふなり。
御一代記聞書 註釈版聖典1244頁

一 仰せに、一念発起の義、往生は決定なり。罪消して助けたまはんとも、罪消さずしてたすけたまはんとも、弥陀如来の御はからひなり。罪の沙汰無益なり。たのむ衆生を本とたすけたまふことなりと仰せられ候ふなり。
御一代記聞書 註釈版聖典1245頁


タグ : 御一代記聞書 罪悪

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