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行文類

2009/12/16(水)
梯實圓著『聖典セミナー 教行信証[教行の巻]』82-86頁)より
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浄土真宗はこの梯和上の一文が分かれば分かるでしょう。

 親鸞聖人は、釈尊の教意をうけて、有縁の人びとに本願の行信を勧められます。それが「穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ」で始まる厳しい訓誡の言葉です。
 さいわいに仏法に遇い、煩悩に汚れ、さまざまな苦悩に満ちた穢土の厭い捨てるべきことを聞き、涅槃の境界の欣い求めるべきことを知らされながら、自力のはからいに遮られて本願の言葉を疑って受けいれないために、生の依るところを見失い、死の帰するところを知らないというありさまです。人生の根源的な拠りどころをもたず、生きていることの意味と方向を見失っている状態を、迷いというのです。本願を疑うものは、愛憎の煩悩を超えていく真実の行道をいただくことができず、生と死をゆだねる真実に遇うことができません。たのむべからざるものをたのんで生きる人生は、不安に揺れ続けます。確信をもって歩む道をもたない人の心は暗く、むなしく愛欲と憎悪に翻弄されながら一生を過ごすしかありません。そして煩悩に狂わされてつくる罪障ばかりが重くわが身に積もっていくのです。
 しかし、このような哀れむべき凡夫をこそ救いとろうとして、阿弥陀仏は念仏往生の本願を成就し、釈尊はそのこころを『無量寿経』のなかに説き表して、『本願を信じて念仏をもうし、浄土をめざして生きよ』と発遣されているのです。それゆえ人生の帰趣に迷うものは、ことに釈尊の勧めに随順して、南無阿弥陀仏という最もすぐれたさとりの道に身をゆだね、仰せのままにひたすら名を称え、「必ず救う」と確信をもって招喚される本願の言葉をたのみたてまつるべきです。
 ここで親鸞聖人は、行信を勧めるのに「もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ」といわれています。これによって真実の行信は、わがはからいによって行ずるものでも、信ずるものでもなく、阿弥陀仏よりたまわった本願力回向の南無阿弥陀仏につかえているのが称名であり、心に響き込んでくださる阿弥陀仏の救いの名のりを崇め尊んでいるのが信心だということがわかります。信も行も阿弥陀仏が私のうえではたらいている姿だったのです。一声の念仏も、わがはからいによって出てくるものではありません。南無阿弥陀仏という、最勝にして至易なる行を選び取って、お願いだからわが名を称えてくれよと呼びかけ、われらを念仏するものに育てたもうた本願力がなかったら、一声の念仏も口をついて出ることはなかったのです。一声一声が阿弥陀仏の本願海から恵み与えられた行であることを、親鸞聖人は『行文類』のはじめに、
 大行とはすなはち無礙光如来の名を称するなり。(中略)しかるにこの行は大悲の願より出でたり。
註釈版聖典141頁
と説かれています。阿弥陀仏よりたまわった行を行じているということは、阿弥陀仏のはからいに「つかえ」ているということになります。称名の主体はどこまでも阿弥陀仏であって、私は「もつぱらこの行につかえ」るばかりなのです。
 阿弥陀仏に背き、本願の言葉を受けいれようとしないのが人間の地体でした。それがいま本願の言葉を真実と聞き開いているということは、まことに不思議といわねばなりません。「難信金剛の信楽」とは、その本体は阿弥陀仏の大悲の智慧であり、「必ず汝を救うて涅槃の浄土に生まれしめる」と確信をもって私たちに呼びかけられている大悲の願心なのです。衆生を救うことにいささかの疑いもない阿弥陀仏の、確信に満ちた言葉が響き込むとき、疑い殻を破られて仰せをまことと受けいれるようになります。そのとき何一つ思い定めることのできないわが心に、往生一定の思いが恵まれてくるのです。それゆえ信心とは、私の能力によって確立する思いではなくて、ただ阿弥陀仏の言葉をはからいなく聞いて崇め尊ぶところに自然に成就する事実だったのです。そのことを「ただこの信を崇めよ」と説かれたのです。
 思えば、真実に背を向けて虚構の想念のなかに埋没し、阿弥陀仏に背いて煩悩の泥にまみれつつ、それを当然のこととしているだけであり、いくたび生をかえても、本願の縁に遇うことはできません。まして本願を信ずるというような清浄真実の心は、どんな長い時間をかけても、わが身のうえに獲得できるものではありません。それがいま、はからずも釈尊の教えと師友の導きにより、本願を行信する身にならしめられたのです。これひとえに、私を念仏の衆生たらしめようとして、さまざまなよき縁を恵んで導きたもうた阿弥陀仏をはじめとする諸仏菩薩の遠い過去世からのお育てのたまものであると慶ぶべきです。
 もしまたこのたびも小賢しいはからい心にたぶらかされて、疑いの網に覆われるならば、ふたたびむなしい迷妄の生と死を果てしなく繰り返していくに違いありません。思うてここにいたれば、慄然たるものがあります。
 こうして親鸞聖人は、真実の教えへの絶対の信順を勧めて疑惑を誡め、「誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」といって、この一段を結んでいかれたのでした。

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