要門

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2009/08/08(土)
弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。

「その4」に引き続いて、この文章について考えてみたいと思います。

ここで、親鸞聖人は、
阿弥陀仏ー釈尊ー善導大師ー法然上人ー親鸞聖人
と並べておられます。
阿弥陀仏と釈尊は当然として、善導大師と法然上人のお名前を挙げておられるのは何故でしょうか?
七高僧ならば他にも龍樹菩薩、天親菩薩、曇鸞大師、善導大師、源信僧都がおられます。
しかし、ここで親鸞聖人が善導大師と法然上人をあげておられるのは、このお二人が、「一行専修」「専修念仏」を教えられた方だからです。
要門」などで既に述べましたように、
釈尊は観無量寿経に「観仏三昧」と「念仏三昧」を説かれましたが、最後に廃観立称されて、「観仏三昧」を廃し「念仏三昧」を立てられました。
善導大師は「要門」と「弘願」と分けられ、要門を廃し弘願を立てられました。
法然上人は「諸行往生」と「念仏往生」と分けられ、諸行往生を廃し念仏往生を立てられました。
親鸞聖人はここで、二尊と二祖のお名前を出され、念仏より他に往生の道はないことを示されたのです。
もちろん、念仏とは阿弥陀仏の本願(第十八願)であり、南無阿弥陀仏の名号であり、真実信心です。
このことからも、善鸞の説いたいくつかの邪義の中心が「念仏以外に往生する道がある。諸善万行をしなければならない」というものであり、これに動揺した関東の門弟たちが命がけで京都へたずねて行ったと考えられます。

善導大師や法然上人のお言葉を読まれるといいでしょう。

[善導大師]
(ボールド体の部分だけでもいいのですが、参考までに流通分のところを全部あげます)
四に次に流通分を明かす。なかに二あり。一には王宮の流通を明かす。二には耆闍の流通を明かす。いま先づ王宮の流通分のなかにつきてすなはちその七あり。
一に「爾時阿難」より以下は、まさしく請発の由を明かす。
二に「仏告阿難」より以下は、まさしく如来依正を双べ標し、もつて経の名を立て、またよく経によりて行を起せば、三障の雲おのづから巻くことを明かして、前の初めの問の「云何名此経」の一句に答ふ。
三に「汝当受持」より以下は、前の後の問の「云何受持」の一句に答ふ。
四に「行此三昧者」より下「何況憶念」に至るこのかたは、まさしく比校顕勝して、人を勧めて奉行せしむることを明かす。すなはちその四あり。一には総じて定善を標してもつて三昧の名を立つることを明かす。二には観によりて修行して、すなはち三身を見る益を明かす。三にはかさねてよく教を行ずる機を拳ぐることを明かす。四にはまさしく比校顕勝して、ただ三身の号を聞くすらなほ多劫の罪けんを滅す、いかにいはんや正念に帰依して証を獲ざらんやといふことを明かす。
五に「若念仏者」より下「生諸仏家」に至るこのかたは、まさしく念仏三昧の功能超絶して、実に雑善をもつて比類となすことを得るにあらざることを顕す。すなはちその五あり。一にはもつぱら弥陀仏の名を念ずることを明かす。二には能念の人を指讃することを明かす。三にはもしよく相続して念仏するものは、この人はなはだ希有なりとなす、さらに物としてもつてこれに方ぶべきなし。ゆゑに分陀利を引きて喩へとなすことを明かす。「分陀利」といふは、人中の好華と名づけ、また希有華と名づけ、また人中の上上華と名づけ、また人中の妙好華と名づく。この華相伝して蔡華と名づくるこれなり。もし念仏するものは、すなはちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。四にはもつぱら弥陀の名を念ずるものは、すなはち観音・勢至つねに随ひて影護したまふこと、また親友知識のごとくなることを明かす。五には今生にすでにこの益を蒙りて、捨命してすなはち諸仏の家に入ることを明かす。すなはち浄土これなり。かしこに到りて、長時に法を聞き、歴事供養して、因円かに果満ず。道場の座、あにはるかならんや。
六に「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代(かだい はるか後の世)に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
七に「仏説此語時」より以下は、まさしく能請・能伝等の、いまだ聞かざるところを聞き、いまだ見ざるところを見、たまたま甘露を餐して、喜躍してもつてみづから勝ふることなきことを明かす。上来七句の不同ありといへども、広く王宮の流通分を解しをはりぬ。
観無量寿経疏 散善義 流通分 註釈版聖典七祖篇498~500頁

[法然聖人]
つらつら経の意を尋ぬれば、この諸行をもって付属流通せず。ただ念仏一行をもって、すなわち後世に付属流通せしむ。知るべし、釈尊の諸行を付属したまはざる所以は、すなはちこれ弥陀の本願にあらざるゆゑなり。また念仏を付属する所以は、すなはちこれ弥陀の本願のゆゑなり。いままた善導和尚、諸行を廃して念仏に帰する所以は、すなはち弥陀の本願たる上、またこれ釈尊の付属の行なり。ゆゑに知りぬ、諸行は機にあらず時を失す。念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐(とうえん むなしいこと)せんや。まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり、行者知るべし。
選択本願念仏集 念仏付属章 註釈版聖典七祖篇1273~4頁

この経とは観無量寿経のことで、上記の内容は「御和讃を読む」のエントリーで[教と相違する]の部分で書いたことですので、もう一度確認して下さい。
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タグ : 歎異抄 要門 弘願

2009/08/06(木)
ちょっと段落の区切りはおかしいのですが、前回の続きから始めます。

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」と教えられた法然上人のお導きによって救われたのだ、とおっしゃり、続いて逆説的な表現を含めて告白しておられます。
ここでは、「念仏無間」を唱えた日蓮宗を意識されていることも否定できませんが、「自余の行」「いづれの行」などの言葉から、「往生するための念仏以外の行」を唱えた異義に惑わされた門弟へのメッセージと思います。

今日取り上げた箇所の最後の
いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
について少し考えてみたいと思います。

ここで「およびがたき」とは何に対して「及び難き」なのかということでしょうか。
歎異抄第3章の
「いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを」
という類似の文から分かるように、「生死を離れること」に対して「及び難い」のです。

次の「とても地獄は一定すみかぞかし」とは、どなたかが書いておられましたように、親鸞聖人の深い罪悪観、懺悔からのお言葉です。
「かへつてまた曠劫を経歴せん」(教行信証 総序)
「ひとたび人身を失ひつれば万劫にも復せず」(教行信証 行巻 居士張掄)
などの御文と本質的には同じなのですが、自己を深く見つめられて、「とても地獄は一定すみかぞかし」とおっしゃったものです。

それはまた、そういう者を救う力のある阿弥陀仏の本願念仏への讃嘆でもあります。

弥陀仏の本願念仏は、
邪見・驕慢の悪衆生、
(※驕は本来はりっしんべん。以後同じ)
信楽受持することはなはだもつて難し。
難のなかの難これに過ぎたるはなし。

(正信偈)

この御文は正信偈の依経段の結びとして書かれている四句です。
この御文をもって
「なぜ信心獲得することが難しいのか?それは邪見・驕慢の悪衆生だからだ」
と言う人もいます。
しかし、この四句はそのように読むと間違いになります。
一句目の「弥陀仏本願念仏」は法を表し、
二句目の「邪見驕慢悪衆生」は機を表しておられます。
本願に相応する、すなわち信楽を受持することが「難」であると言われているのが、三句目と四句目です。
邪見とは邪に見る
驕慢とは自惚れ
ですが、「邪見」であり「驕慢」である「悪衆生」は、「いづれの行もおよびがたき身」であり、「いづれの行にても生死をはなるることあるべからざる」にもかかわらず、自惚れて、「自余の行」・「何かの行」で救われようとするから「難」なのです。
この、「自余の行」・「何かの行」で救われようとするというのが「自力」です。

まとめて言うと、親鸞聖人が「難」とおっしゃっているのは、
・自力で起こす信心ではないから
・阿弥陀仏から賜る(他力の)信心だから
ということであり、さらに
・信心の素晴らしさ
を表現されたものなのです。

私が偉いから、賢いから信心決定したのではない。
またその真実信心をお伝えしているからといって、私が救うのではない。
私にはそんな立派なものは一つもないのだから。
阿弥陀仏のお力一つであり、念仏一つなのだ。
自分が救うと思っているのは、傲慢にほかならない。

との親鸞聖人の御心と拝します。

ところで、ついでに記しておきたいことがあります。
「念仏一つ」ということを表わされた御和讃に

浄土和讃 大経讃(71)
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ假門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ

があります。
この御和讃はどういう意味でしょうか?

浄土真宗聖典(原典版)で調べました。
少し難しいですので、飛ばして頂いてもいいです。
三帖和讃の底本、対校本は下記の通りで、何を底本にするかは、書物によって異なりますが、浄土真宗聖典では文明本です。

底本     龍谷大学蔵文明5年蓮如上人開版本
対校本 甲 本山蔵版本(昭和改譜本)
      乙 高田派専修寺蔵国宝本
      丙 高田派専修寺蔵顕智上人書写本
      丁 大阪府顕証寺蔵本(御草稿和讃)
(なお、乙は御草稿本とも言われ、一部に親鸞聖人の真筆を含むとされます。)

「真宗」についての左訓
丙 シンチホンクワンナリ
丁 眞実本願ナリ

「假」について
乙 要 「假」と頭書

「假門」についての左訓
丙 ハウヘンケモンナリ
丁 方便假門ナリ

「権・・・」の左訓
丙 ハウヘンノセントシンチノセイクワンヲワカストイフ
丁 方便ノ善ト眞実ノ誓願ヲワカストイフ

何を言おうとしているか分からないかもしれませんが、上の御和讃は、親鸞聖人の真筆を含む草稿本(国宝本)では、

念仏成仏これ真宗
万行諸善これ要門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ

となっているということです。
知っておられたらよろしいでしょう。

ある本によると「假門」=「他の仏教」と書かれていました。
つまり要門」=「他の仏教」=「浄土真宗ではない」となります。
もっと詳しく書かれた方がよかったのかもしれませんね。

タグ : 歎異抄 要門

2009/07/31(金)
今日は要門について考えてみます。

要門とは「浄土の要門のことです。
簡単に言うと「浄土に往生するために肝要な門」となります。(註釈版聖典の脚注

要門」という言葉は、道綽禅師の安楽集に出ていますが、善導大師はその言葉を使われながら、意味を変えて、観無量寿経疏 玄義分 定散門に
「しかるに娑婆の化主(釈尊)、その請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。「定」はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす。「散」はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求願す。弘願といふは『大経』(上・意)に説きたまふがごとし。」(註釈版聖典七祖篇300頁
とおっしゃいました。
定善とは
「日観より下十三観に至るこのかたを名づけて定善となし」(観無量寿経疏 玄義分 定散門 註釈版聖典七祖篇307頁
散善とは
「三福・九品を名づけて散善となす」(同上
とおっしゃっています。

要門とは「定善または散善を、まことの心でやって、往生したいと発願し、阿弥陀仏の極楽浄土へ往生したいと期する」教えです。
(「往生したい」という言葉が重なり、ぎこちないですが、ご了承下さい)

これは阿弥陀仏の第19願から発するもので、その願意を開説されたのが釈尊の観無量寿経です。

善導大師は「要門」と「弘願」の二門を教えられ、要門は自力方便であり、弘願は他力真実であると教えられました。
法然上人はこれを「諸行往生」と「念仏往生」で教えられました。
これを受けられ、親鸞聖人は、要門から真門を開かれ、要門・真門・弘願の三門を教えられたのです。
法然上人のように「往生」という言葉を使えば、
 要門 自力諸行往生
 真門 自力念仏往生
 弘願 他力念仏往生
となるでしょう。
要門は聖道門の人々を浄土門に導き入れるために方便として教えられたものです。

要門について教えられた親鸞聖人のお言葉は、教行信証化土巻要門釈以外にはつぎのようなものがあります。

阿弥陀仏の第19願の意を表された御和讃が浄土和讃 大経讃3首です。
(番号は聖典によります)
61
至心・発願・欲生と
十方衆生を方便し
衆善の仮門ひらきてぞ
現其人前と願じける
62
臨終現前の願により
釈迦は諸善をことごとく
『観経』一部にあらはして
定散諸機をすすめけり
63
諸善万行ことごとく
至心発願せるゆゑに
往生浄土の方便の
善とならぬはなかりけり

また、善導大師の教えられたことについても御和讃があります。
65
釈迦は要門ひらきつつ
定散諸機をこしらへて
正雑二行方便し
ひとへに専修をすすめしむ
(高僧和讃 善導讃)

これらの御和讃を根拠にして「阿弥陀仏に救われるには諸善万行をしなければならない」と思っている人がいるようですが、そうではなく、浄土和讃の3首は第19願の意を表されたものであり、高僧和讃の1首も要門が方便であることを示されたものです。

諸善万行そのものは、本来、聖道門の行ですが、それらの人たちも諸善万行を阿弥陀仏に回向して往生できますよと導かれたのです。
ただし、ただ諸善万行をしているだけではだめで、「発願」ということが必要なのです。
しかもまことの心(至誠心)で、勇猛心を起こしてしなければなりません。
また、諸善万行という生因に対する結果は双樹林下往生です。
くどいようですが、要門はあくまでも方便なのです。

「方便」というのは「私達がしなければならないこと」ではなく、阿弥陀仏が私達を方便しておられるのです。
(主語を間違えないで下さい)
もし「方便」だからしなければならない、となったら聖道門からやらなければならないことになります。
もちろん、私は「やりたい人」や「やる自信のある人」までも止めることは致しません。

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。
(一念多念証文 18)

要門・真門が方便であり、弘願が真実であることはお分かりになると思いますが、次にそれらの関係はどうなっているかというと、要門・真門・弘願の関係を説く場合、
①従仮入真
②真仮廃立
の2つがあります。

①の従仮入真門の御文の例が三願転入の御文です。

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。

②の真仮廃立門の御文の例は、

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。(教行信証化土巻)

本願一乗海は、頓極・頓速・円融・円満の教なりと、知るべし。
浄土の要門は、定散二善・方便仮門・三福九品の教なりと、知るべし。
(愚禿鈔 上 二教対)

などがあります。

①の根拠となっている三願転入の御文も、よく読めば真仮廃立をしておられますので、「真仮廃立・信疑廃立」こそが浄土真宗の大事な教えなのです。

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