7月29日のエントリー「御和讃を読む」で取り上げた御和讃(高僧和讃 善導讃 註釈版聖典592頁)から。
利他の信楽うるひとは
願に相応するゆゑに
教と仏語にしたがへば
外の雑縁さらになし
御和讃の意味は先のエントリーを読んで頂くことにして、今日は「利他」について考えます。
この御和讃の「利他」とは「他力」という意味です。
親鸞聖人が利他を他力の意味で使っておられることは他にも何箇所もあります。
・利他深広の信楽(教行信証信巻 註釈版聖典211頁)
・すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。(教行信証信巻 註釈版聖典231頁)
・これを利他真実の信心と名づく。(教行信証信巻 註釈版聖典235頁)
・利他円満の妙位(教行信証証巻 註釈版聖典307頁)
・行といふは、すなはち利他円満の大行なり。(浄土文類聚鈔 註釈版聖典478頁)
・定散諸機各別の 自力の三心ひるがへし 如来利他の信心に 通入せんとねがふべし(浄土和讃 註釈版聖典570頁)
親鸞聖人は
他力といふは如来の本願力なり。(教行信証行巻 註釈版聖典190頁)
とおっしゃっています。
親鸞聖人の「他力」についての御自釈はこの1文だけで、このあと、曇鸞大師の論註の言葉を説明に充てておられます。
その中に「覈求其本釈」(註釈版聖典192頁)があります。
しかるに覈に其の本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁とするなり。他利と利他と、談ずるに左右あり。もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろしく他利といふべし。いままさに仏力を談ぜんとす、このゆゑに利他をもつてこれをいふ。まさに知るべし、この意なり。
※覈は「まこと」と読みます。
過去のエントリー(歎異抄第1章と第2章の書き出しを読む、要門考)で述べたように、主語・主体が、阿弥陀仏なのか私・衆生なのかが重要です。
阿弥陀仏の救いは阿弥陀仏が主であり、私・衆生が従(受け手)なのです。
「利他」=「他力」の場合、「利他」の「他」が衆生であり「他力」の「他」が阿弥陀仏というのではありません。それだと「他」の意味が異なってきてしまいます。
どちらの「他」も衆生であり、「利他」は「自(阿弥陀仏」利他(衆生)」の「自」が省略されているということです。
つまり「利他」とは「自利他」であり、
「阿弥陀仏が衆生を利益される」ということです。
他力とは「利他力」の「利」が省略されたもので、
「阿弥陀仏が衆生を利益される力」なのです。
注:あくまでも「本来は」という意味です。「他」を「阿弥陀仏」と説明されている場合もあります。