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観無量寿経

2009/10/23(金)
釈尊の沈黙の意味については既に一度書きました。
観無量寿経 覚書 その2
ところで
「私は仏法を聞いているのになぜ救われないのだろうか?」
という疑問を持っている人もいるでしょう。
先の「極難信」に引いたこととは違った観点から言いますと、それは、
「あなたの聞いている“仏法のようなもの”が正しくないからです。つまり、正しい仏法を聞いていないからです。」
とも言えます。
(某ブログなどに書かれている「因果の道理」などはとても仏の教えとは言えません)
「釈尊の沈黙の意味」一つをとっても、真逆の意味で説明している人もいます。
これでは阿弥陀仏、釈尊の心を知ることはできないでしょう。
『観経疏散善義講讃』深川倫雄著 320頁より引きますので、読んで下さい。

捨てて流転せしむべからずとは、仏の慈悲の心である。罪業の衆生を救うという如来は決して罪業の奨励も許可もしない。人はみな現在を生きる。未来に向かって生きる。過去はそれが善悪の何れであれ、どうすることも出来ない。
 例えば『観経』の序分、韋提希夫人の王宮に降臨された世尊は、怨を子に致して、悶絶号哭し、何等因縁と問い奉るに対して、黙然として語りたまわず。過去を解明してもどうすることも出来ない。現在の苦を知らんと欲せば過去の因を見よという言葉(註⑦)は、理かは知らねども慈悲なき言葉である。過去が現在を救いはしない。夫人の心が未来に向い、我を教えて清浄業処を観ぜしめよと請い奉ると、忽ちに光台現国以下、身業、口業の説法が始まった。太子、父王、夫人、その他の織りなした逆悪など、既に造れる罪業を問責するものではないことを示している。ことは未来にある。
既に造った罪業は、その苦報を思うにつけ捨ててはおけないのが如来の慈悲である。それが五劫思惟の時、一切衆生の曠劫流転の姿をみそなわした慈悲の心である。


註⑦ この語は伝聞して『因果経』にありというが、因果経は現存せず、文を検し得ない。
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タグ : 深川倫雄 観無量寿経

2009/10/16(金)
第19願および観経が説かれた理由は、親鸞聖人が『浄土三経往生文類』の中に書いておられます。

 観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。しかれば『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり。これは他力のなかに自力を宗致としたまへり。このゆゑに観経往生と申すは、これみな方便化土の往生なり。これを双樹林下往生と申すなり。
註釈版聖典630-631頁)

このように、いまだ浄土門を知らない人々の心を浄土に向けさせるために方便とした説かれたのです。

なお、大事なのは「行」ではなく「信」です。
第19願の願文でいうならば「至心発願」が重要です。
つまり、諸善万行が「浄土の方便の善」になりうるのは、至心発願するからなのです。


これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。
(教行信証化身土巻本 註釈版聖典392頁

ここで観無量寿経の教説や第19願が「方便」と言われているのは「権仮方便」のことです。
「善巧方便」のことではありませんので、くれぐれもお間違いのないようにして下さい。

「信」が大事であることは、
教行信証化土巻の標挙
 [無量寿仏観経の意なり]
 至心発願の願 {邪定聚の機 双樹林下往生}

とあるように、いろいろな呼び名のある第19願を「至心発願の願」と言われていることからも伺えます。

タグ : 観無量寿経 三経往生文類 化身土文類 第十九願

2009/08/16(日)
歎異抄第3章を読む準備として、観無量寿経を読んできました。
観無量寿経」や「観無量寿経疏」などのご文をそのままお示ししましたので、難しく感じられたと思います。
観無量寿経の解説をすることを目的とはしておりませんが、それでも少しは分かって頂けたのではないでしょうか。
「悪人正機」を理解する為には、これまで述べてきたことは知っておかれた方がよいと思います。
しかし、まだ述べていないこともあります。
もし、取り組む気持ちのある方は、各自、市販されている書籍やインターネットを利用して勉強されることをおすすめします。
ここに書かれていることは単に「教学解釈」の問題ではなく、「信心獲得」を目指す上で、とても大事なことですから。

では、もう一度観無量寿経を眺めてみましょう。
観無量寿経の五分科はこれまでも何度も書きました。
①序分
②正宗分
③得益分
④流通分
⑤耆闍分

このうち観無量寿経の本論である「正宗分」の中で大事な部分は
定善十三観の中では
 第七華座観
 第八像観
 第九真身観
です。
もっとも第七華座観と第八像観の場合は、それぞれの観法というよりも、それらの前に説かれている、「住立空中尊」や「法界身」の部分が大事です。
第九真身観の場合は、定善十三観のメインですので、大事です。
ここには、すでに述べたこともありますが、
・光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨
・仏身を観ずるをもつてのゆゑにまた仏心を見る。
・仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもつてもろもろの衆生を摂す。
等の重要なお言葉が書かれています。

散善三観、九品の中では
・上品上生
・下品下生
つまり、一番上と一番下が大事です。
上品上生は「三心」(至誠心、深心、回向発願心)が説かれているからですが、三心は上品上生に限ることではなく、すべてに通じますので、「上品上生」自体が大事ということではありません。(どうでもいいということでは、ありませんよ)
三心については、また別の機会に述べます。
(既に二種深信については、このブログで少し言及はしております)
結局、散善三観の中では「下品下生」が一番大事で、ここから「悪人正機・善人傍機」の教えが出ております。
「散善三観の中では」と言いましたが、「流通分」の阿難への念仏付属とも合わせて、ここに釈尊の本意が説かれていますので、観無量寿経の中では最も大事な教説と言ってもよいでしょう。

以上で、「観無量寿経 覚書」を一旦終わりたいと思います。
力不足、勉強不足で申し訳ありませんでした。

タグ : 観無量寿経

2009/08/16(日)
観無量寿経の第八像観のところ(実際には像観が説かれる前)に法界身が説かれています。
聖者でも賢者でも善凡夫でもない「悪凡夫」が救われるとはどういうことなのかを知るのに大事な経文です。

ただ今現在、信心決定したいと真剣に思っている人は最後まで読んで下さい。
「そこまではー」という方は、後で読んで下さい。

法界身とは何かということについて、
 善導大師は諸仏
 親鸞聖人は阿弥陀仏(つまり、観経に「諸仏如来」とあるのは阿弥陀仏のことと)
と解釈しておられます。


また、善導大師の釈の後半に「指方立相」が教えられているのも、悪凡夫の救いを表されたもの言えます。
一切の仏土みな厳浄なれども、凡夫の乱想おそらくは生じがたければ、如来(釈尊)別して西方の国を指したまふ。(法事讃巻下 註釈版聖典552頁)
などからも分かります。

なお指方立相には2つの意味があります。
・方処を指示して、相状を弁立する。(釈尊の指方立相 善導大師)
・方処を指定して、相状を建立する。(阿弥陀仏の指方立相 道綽禅師)

以下、「観経」「観経疏」などのお聖教のご文を列記します。
難しければ、ボールド体のところだけ見て下さい。
(安心決定鈔は読まれたらよろしいでしょう)

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「この事を見をはらば、次にまさに仏を想ふべし。ゆゑはいかん。諸仏如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入りたまふ。このゆゑになんぢら心に仏を想ふとき、この心すなはちこれ〔仏の〕三十二相・八十随形好なれば、この心作仏す、この心これ仏なり。諸仏正遍知海は心想より生ず。このゆゑにまさに一心に繋念して、あきらかにかの仏、多陀阿伽度・阿羅訶・三藐三仏陀を観ずべし。
観無量寿経 注釈版聖典 99~100頁)

八に像観のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。
すなはちその十三あり。
一(略)
二に「諸仏如来」より下「心想中」に至るこのかたは、まさしく諸仏の大慈、〔衆生の〕心に応じてすなはち現じたまふことを明かす。この勝益あるがゆゑに、なんぢを勧めてこれを想はしむ。
問ひていはく、韋提の上の請にはただ弥陀を指す。いぶかし、如来(釈尊)いま総じて諸仏を挙げたまふ、なんの意かあるや。
答へていはく、諸仏は三身同じく証し、悲智の果円かなること等斉にして二なく、端身一坐にして影現すること無方なり。意、有縁に赴く時、法界に臨むことを顕さんと欲す。
「法界」といふは三義あり。
一には心遍するがゆゑに法界を解す。
二には身遍するがゆゑに法界を解す。
三には障礙なきがゆゑに法界を解す。

まさしくは心到るによるがゆゑに、身また随ひて到る。身は心に随ふがゆゑに「是法界身」といふ。
「法界」といふはこれ所化の境、すなはち衆生界なり。
「身」といふはこれ能化の身、すなはち諸仏の身なり。

「入衆生心想中」といふは、すなはち衆生念を起して諸仏を見たてまつらんと願ずるによりて、仏すなはち無礙智をもつて知り、すなはちよくかの想心のうちに入りて現じたまふ。ただもろもろの行者、もしは想念のうち、もしは夢定のうちに仏を見たてまつるは、すなはちこの義を成ずるなり。
三に「是故汝等」より下「従心想生」に至るこのかたは、まさしく利益を結勧することを明かす。
これ心を標して仏を想ふことを明かす。ただ仏解をなして頂より足に至るまで心に想ひて捨てず、一々にこれを観じてしばらくも休息することなかれ。あるいは頂相を想ひ、あるいは眉間の白毫乃至足下千輪の相を想へ。この想をなす時、仏像端厳にして相好具足し、了然として現じたまふ。
すなはち心一々の相を縁ずるによるがゆゑに、すなはち一々の相現ず。心もし縁ぜずは衆相見るべからず。ただ自心に想作すれば、すなはち心に応じて現ず。ゆゑに「是心即是三十二相」といふ。「八十随形好」といふは、仏相すでに現ずれば、衆好みな随ふ。これまさしく如来もろもろの想者を教へて具足して観ぜしめたまふことを明かす。「是心作仏」といふは、自の信心によりて相を縁ずるは作のごとし。「是心是仏」といふは、心よく仏を想へば、想によりて仏身現ず。
すなはちこの心仏なり。この心を離れてほかにさらに異仏なければなり。「諸仏正遍知」といふは、これ諸仏は円満無障礙智を得て、作意と不作意とつねによくあまねく法界の心を知りたまへり。ただよく想をなせば、すなはちなんぢが心想に従ひて現じたまふこと、生ずるがごとしといふことを明かす。
あるいは行者ありて、この一門の義をもつて唯識法身の観となし、あるいは自性清浄仏性の観となすは、その意はなはだ錯れり。絶えて少分もあひ似たることなし。
すでに像を想へといひて三十二相を仮立せるは、真如法界の身ならば、あに相ありて縁ずべく、身ありて取るべけんや。しかも法身は無色にして眼対を絶す。さらに類として方ぶべきなし。ゆゑに虚空を取りてもつて法身の体に喩ふ。またいまこの観門は等しくただ方を指し相を立てて、心を住めて境を取らしむ。総じて無相離念を明かさず。
如来(釈尊)はるかに末代罪濁の凡夫の相を立てて心を住むるすらなほ得ることあたはず、いかにいはんや相を離れて事を求むるは、術通なき人の空に居して舎を立つるがごとしと知りたまへり。
(観無量経疏 定善義 註釈版聖典七祖篇430~433頁)

光明寺の和尚は「行者の信にあらず、行者の行にあらず、行者の善にあらず」とも釈したまへり。無碍の仏智は行者の心にいり行者の心は仏の光明におさめとられたてまつりて、行者のはからひちりばかりもあるべからず、これを『観経』には「諸仏如来はこれ法界の身なり、一切衆生の心想のうちにいりたまふ」とはときたまへり。諸仏如来といふは弥陀如来なり。諸仏は弥陀の分身なるがゆへに諸仏をば弥陀とこゝろうべしとおほせごとありき。
(存覚上人 浄土見聞集 真宗聖教全書3 379頁)

かるがゆゑに機法一体の念仏三昧をあらはして、第八の観には、「諸仏如来是法界身 入一切衆生 心想中」(観経)と説く。これを釈するに、「<法界>といふは所化の境、すなはち衆生界なり」(定善義)といへり。定善の衆生ともいはず、道心の衆生とも説かず、法界の衆生を所化とす。「法界といふは、所化の境、衆生界なり」と釈する、これなり。まさしくは、こころいたるがゆゑに身もいたるといへり。弥陀の身心の功徳、法界衆生の身のうち、こころのそこに入り満つゆゑに、「入一切衆生心想中」と説くなり。ここを信ずるを念仏衆生といふなり。また真身観には、「念仏衆生の三業と、弥陀如来の三業と、あひはなれず」(定善義・意)と釈せり。仏の正覚は衆生の往生より成じ、衆生の往生は仏の正覚より成ずるゆゑに、衆生の三業と仏の三業とまつたく一体なり。仏の正覚のほかに衆生の往生もなく、願も行もみな仏体より成じたまへりとしりきくを念仏の衆生といひ、この信心のことばにあらはるるを南無阿弥陀仏といふ。かるがゆゑに念仏の行者になりぬれば、いかに仏をはなれんとおもふとも、微塵のへだてもなきことなり。仏の方より機法一体の南無阿弥陀仏の正覚を成じたまひたりけるゆゑに、なにとはかばかしからぬ下下品の失念の位の称名も往生するは、となふるときはじめて往生するにはあらず、極悪の機のためにもとより成じたまへる往生をとなへあらはすなり。また『大経』の三宝滅尽の衆生の、三宝の名字をだにもはかばかしくきかぬほどの機が、一念となへて往生するも、となふるときはじめて往生の成ずるにあらず。仏体より成ぜし願行の薫修が、一声称仏のところにあらはれて往生の一大事を成ずるなり。
(安心決定鈔 註釈版聖典1394~1395頁)

「弥陀の大悲、かの常没の衆生のむねのうちにみちみちたる」(安心決定鈔・本意)といへること不審に候ふと、福田寺申しあげられ候ふ。仰せに、仏心の蓮華はむねにこそひらくべけれ、はらにあるべきや。「弥陀の身心の功徳、法界衆生の身のうち、こころのそこに入りみつ」(同・本)ともあり。しかれば、 ただ領解の心中をさしてのことなりと仰せ候ひき。ありがたきよし候ふなり。
(蓮如上人御一代記聞書 註釈版聖典1234~1235頁)

〔訂正〕
存覚上人 浄土見聞集の根拠を訂正
 真宗聖教全書 2 → 3

タグ : 観無量寿経 法界身

2009/08/15(土)
「序分 発起序 散善顕行縁」を読んでみましょう。
散善の意味や九品については次回述べます。

散善顕行縁】
 そのとき世尊、すなはち微笑したまふに、五色の光ありて仏の口より出づ。一々の光、頻婆娑羅の頂を照らす。そのとき大王、幽閉にありといへども心眼障なく、はるかに世尊を見たてまつりて頭面、礼をなし、〔王の心は〕自然に増進して阿那含と成る。
 そのとき世尊、韋提希に告げたまはく、
「なんぢ、いま知れりやいなや。阿弥陀仏、ここを去ること遠からず。
なんぢ、まさに繋念して、あきらかにかの国の浄業成じたまへるひと(阿弥陀仏)を観ずべし。われいまなんぢがために広くもろもろの譬へ(定善)を説き、また未来世の一切凡夫の、浄業を修せんと欲はんものをして西方極楽国土に生ずることを得しめん。
 かの国に生ぜんと欲はんもの
は、まさに三福を修すべし。(散善
一つには父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業を修す。[世福ー中下]
二つには三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯さず。[戒福ー中上、中中]
三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す。[行福ー上上、上中、上下]
かくのごときの三事を名づけて浄業とす」と。
仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」と。
観無量寿経 註釈版聖典91~92頁)

【善導大師の「散善顕行縁」の説明】
散善顕行縁のなかにつきてすなはちその五あり。
一に「爾時世尊即便微笑」より下「成那含」に至るこのかたは、まさしく光、父の王を益することを明かす。これ如来夫人の極楽に生ぜんと願じ、さらに得生の行を請ずるを見たまふに、仏の本心に称ひ、また弥陀の願意を顕すをもつて、この二請(阿弥陀仏の極楽浄土へ往きたいと願うことと、極楽へ往生する行を教えて下さいといと請うこと)によりて広く浄土の門を開けば、ただ韋提のみ去くことを得るにあらず、有識(=衆生)これを聞きてみな往く。この益あるがゆゑに、ゆゑに如来微笑したまふことを明かす。
ー乃至ー
二に「爾時世尊」より下「広説衆譬」に至るこのかたは、まさしく前に夫人別して所求の行を選ぶに答ふることを明かす。
ー乃至ー
「阿弥陀仏不遠」といふは、まさしく境を標してもつて心を住むることを明かす。すなはちその三あり。
一には分斉遠からず。これより十万億の刹を超過して、すなはちこれ弥陀の国なることを明かす。[分斉不遠]
二には道里はるかなりといへども、去く時一念にすなはち到ることを明かす。[一念即到]
三には韋提等および未来有縁の衆生、心を注めて観念すれば定境相応して、行人自然につねに見ることを明かす。[観念即現]

この三義あるがゆゑに不遠といふ。
ー乃至ー
「我今為汝」といふ以下は、これ機縁いまだ具せず、ひとへに定門を説くべからず、仏さらに機を観じて、みづから三福の行を開きたまふことを明かす。
三に「亦令未来世」より下「極楽国土」に至るこのかたは、まさしく機を挙げて修を勧め、益を得ることを明かす。これ夫人の請ずるところ、利益いよいよ深くして、未来に及ぶまで回心すればみな到ることを明かす。
四に「欲生彼国者」より下「名為浄業」に至るこのかたは、まさしく勧めて三福の行を修せしむることを明かす。これ一切衆生の機に二種あり。一には定、二には散なり。もし定行によれば、すなはち生を摂するに尽きず。ここをもつて如来(釈尊)方便して三福を顕開して、もつて散動の根機に応じたまふことを明かす。「欲生彼国」といふは所帰を標指す。「当修三福」といふは総じて行門を標す。
ー乃至ー
五に「仏告韋提」より下「正因」に至るこのかたは、それ聖を引きて凡を励ますことを明かす。ただよく決定して心を注むれば、かならず往くこと疑なし。
上来五句の不同ありといへども、広く散善顕行縁を明かしをはりぬ。
観無量寿経疏 序分義 発起序 散善顕行縁 註釈版聖典七祖篇378~387頁)

○即便微笑
韋提希夫人が「欣浄縁」にて「世尊、このもろもろの仏土、また清浄にしてみな光明ありといへども、われいま極楽世界の阿弥陀仏の所に生ぜんことを楽ふ。やや、願はくは世尊、われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ」と言ったことに対して、釈尊が微笑まれました。
それは、一人韋提希夫人だけではなく、十方衆生が阿弥陀仏の救いを聞き求める縁となることを喜ばれてのことです。
もちろん、定善や散善で救われるということではありません。阿弥陀仏がつくられた本願念仏によって救われるのです。
この「即便微笑」のお言葉で、本願念仏を説くことが釈尊の出世本懐であると言えます。
観経の「また未来世の一切凡夫の、浄業を修せんと欲はんもの」や観経疏の「ただ韋提のみ去くことを得るにあらず、有識これを聞きてみな往く」の文からも分かります。

親鸞聖人は
達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。
(教行信証化土巻本 要門釈 三経隠顕問答 観経隠顕 註釈版聖典382頁)
とおっしゃいました。

○阿弥陀仏、ここを去ること遠からず
大無量寿経や阿弥陀経には、阿弥陀仏は西方十万億を過ぎたところにある極楽におられると書かれていますが、観無量寿経には「ここを去ること遠からず」と説かれています。
如来大悲のはたらきは、常に行者と離れないと言われているのです。
このことは、善導大師が真身観の「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」の説明のところで、「三縁」として教えておられます。

問ひていはく、つぶさに衆行を修して、ただよく回向すればみな往生を得。
なにをもつてか仏光あまねく照らすにただ念仏のもののみを摂する、なんの意かあるや。
答へていはく、これに三義あり。
一には親縁を明かす。衆生行を起して口につねに仏を称すれば、仏すなはちこれを聞きたまふ。身につねに仏を礼敬すれば、仏すなはちこれを見たまふ。心につねに仏を念ずれば、仏すなはちこれを知りたまふ。衆生仏を憶念すれば、仏もまた衆生を憶念したまふ。彼此の三業あひ捨離せず。ゆゑに親縁と名づく。
二には近縁を明かす。衆生仏を見たてまつらんと願ずれば、仏すなはち念に応じて現じて目の前にまします。ゆゑに近縁と名づく。
三には増上縁を明かす。衆生称念すれば、すなはち多劫の罪を除く。命終らんと欲する時、仏、聖衆とみづから来りて迎接したまふ。諸邪業繋もよく礙ふるものなし。ゆゑに増上縁と名づく。
観無量寿経疏 定善義 真身観 三縁釈 註釈版聖典七祖篇 436~437頁)

このように、観無量寿経の隠彰=本意は、阿弥陀仏の本願念仏を説くことであり、煩悩具足の韋提希夫人と「未来世の一切凡夫」の為に説かれたものです。
「聖を引きて凡を励ます」とあるのも、聖者の為ではなく凡夫の為の教えであることを示しておられます。


なお、「仏様は見聞知」とは、上の「親縁」の「彼此三業不相捨離」のようなことを言います。(この御縁に御文章3帖目第7通も読んで下さい)
トゥルーマン・ショー(1998年 ジム・キャリー主演)や
マトリックス(1999~ キアヌ・リーブス主演)や
イーグル・アイ(2008年 シャイア・ラブーフ主演)
のような状態を教えたものではありません。
映画を知らない人は、・・・ごめんなさい。
阿弥陀様は重箱の隅をつつくようなことはされませんよ。

タグ : 観無量寿経 散善

2009/08/15(土)
今回は本当に「覚書」です。
観無量寿経を俯瞰するのに参考として下さい。
尚、これは「歎異抄第3章を理解する為」であり、観無量寿経を解説する為ではありませんので了承下さい。

観無量寿経の2回の説法覚書その3参照
1.王宮会
2.耆闍会

観無量寿経の五分科(善導大師によるもの)
◎王宮会
 ①序分
   証信序
   発起序
    化前序
    禁父縁
    禁母縁
    厭苦縁→「釈尊の沈黙」覚書その2参照
    欣浄縁
    散善顕行縁
    定善示観縁
 ②正宗分
   定善十三観覚書その1参照
    日想観
    水想観
    地想観
    宝樹観
    宝池観
    宝楼観
   (華座観の前に)→覚書その4参照
     除苦悩法
     住立空中尊
     韋提希夫人の見仏得忍

    華座観
    像観
    真身観→今後書く予定
     光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨
     仏身を観ずるをもつてのゆゑにまた仏心を見る。
     仏心とは大慈悲これなり。
     三縁

    観音観
    勢至観
    普観
    雑想観
   散善三観→九品について今後書く予定
    上輩生想観
     上品上生
      三心(至誠心、深心、回向発願心)
       →書きたいのですが、大きいテーマですので簡単ではないです。
     上品中生
     上品下生
    中輩生想観
     中品上生
     中品中生
     中品下生
    下輩生想観
     下品上生
     下品中生
     下品下生→今後書く予定
      顕機の経
      五逆・法謗
      念仏の意味

 ③得益分
 ④流通分
   念仏付属
◎耆闍会
 ⑤耆闍分

タグ : 観無量寿経

2009/08/15(土)
今回も観無量寿経疏などからの引用が多いですが、辛抱して読んで下さい。

観無量寿経には二つの教えが説かれています。
韋提希夫人の請によって説かれた定散二善の要門と弘願です。

しかるに衆生障重くして、悟を取るもの明めがたし。教益多門なるべしといへども、凡惑遍攬するに由なし。たまたま韋提、請を致して、「われいま安楽に往生せんと楽欲す。ただ願はくは如来、われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ」といふによりて、しかも娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。「定」はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす。「散」はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求願す。弘願といふは『大経』(上・意)に説きたまふがごとし。「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」と。
観無量寿経疏 玄義分 序題門 要弘二門 註釈版聖典七祖篇300頁)

ここでは、釈尊と阿弥陀仏が、それぞれ全く別の教えを説かれたと、善導大師はおっしゃっています。
 釈尊が「浄土の要門」
 阿弥陀仏が「別意の弘願」

観無量寿経の中で、阿弥陀仏が別意の弘願を顕彰されたのは、第七華座観を説かれる前の「住立空中尊」と言われるところです。

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「あきらかに聴け、あきらかに聴け、よくこれを思念せよ。仏、まさになんぢがために苦悩を除く法を分別し解説すべし。なんぢら憶持して、広く大衆のために分別し解説すべし」と。
この語を説きたまふとき、無量寿仏、空中に住立したまふ。観世音・大勢至、この二大士は左右に侍立せり。光明は熾盛にしてつぶさに見るべからず。百千の閻浮檀金色も比とすることを得ず。ときに韋提希、無量寿仏を見たてまつりをはりて、接足作礼して仏にまうしてまうさく、「世尊、われいま仏力によるがゆゑに、無量寿仏および二菩薩を観たてまつることを得たり。未来の衆生まさにいかんしてか、無量寿仏および二菩薩を観たてまつるべき」と。
観無量寿経 註釈版聖典97~98頁)

ここの場面を善導大師は、

二には弥陀声に応じてすなはち現じ、往生を得ることを証したまふことを明かす。
観無量寿経疏 定善義 華座観 住立空中尊 註釈版聖典七祖篇423頁)

まさしく娑婆の化主(釈尊)は物のためのゆゑに想を西方に住めしめ、安楽の慈尊(阿弥陀仏)は情を知るがゆゑにすなはち東域(娑婆)に影臨したまふことを明かす。これすなはち二尊の許応異なることなし。ただ隠顕殊なることあるは、まさしく器朴の類万差なるによりて、たがひに郢・匠たらしむることを致す。
(観無量寿経疏 定善義 華座観 住立空中尊 註釈版聖典七祖篇423頁)

と教えられました。
韋提希は阿弥陀仏のお姿を拝見した時に、信心獲得・得忍(獲三忍)しました。
ここで釈尊がお姿を消されたかどうかは分かりませんが、少なくとも「苦悩を除く法を説く」とおっしゃった後は、言葉を出すのを止めておられます。
それは何を表されたのかというと、「要門」から「弘願」への転換です。
ここは定善十三観中の「7番目の華座観の前」であり「途中」です。
釈尊は説いておられる定善の教えを止められ、阿弥陀仏が特別に「別意の弘願を顕彰された」のです。


このように観無量寿経という一つの経典には、「要門」と「弘願」という二つの異なる教えが説かれているのですが、「住立空中尊・韋提希夫人の得忍」や観無量寿経の最後に定散二善をさしおいて、念仏を阿難尊者に教えておられることから、釈尊の本意も弘願念仏を教えられることであったと分かります。
そのことを善導大師は、先ほどの言葉に続けて言われています。

また仏の密意弘深なり、教門暁めがたし。三賢・十聖も測りてうかがふところにあらず。いはんやわれ信外の軽毛なり、あへて旨趣を知らんや。仰ぎておもんみれば、釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなはちかの国より来迎したまふ。かしこに喚ばひここに遣はす、あに去かざるべけんや。ただ勤心に法を奉けて、畢命を期となして、この穢身を捨ててすなはちかの法性の常楽を証すべし。これすなはち略して序題を標しをはりぬ。
(観無量寿経疏 玄義分 序題門 要弘二門 註釈版聖典七祖篇301頁)

二河白道の譬えはここを表されたものです。
文中の来迎は「臨終の来迎」ではなく「平生の来迎」です。

善導大師は、阿弥陀仏が空中に立っておられることについて、次のように教えられました。

三には弥陀空にましまして立したまふは、ただ心を回らし正念にしてわが国に生ぜんと願ずれば、立ちどころにすなはち生ずることを得ることを明かす。
(観無量寿経疏 定善義 華座観 住立空中尊 註釈版聖典七祖篇423頁)

この文中の
ただ心を回らし正念にしてわが国に生ぜんと願ずれば、立ちどころにすなはち生ずることを得る」
歎異抄第3章
「(しかれども、)自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。」
と同じ文であることに気づかれると思います。

「立ちどころにすなはち生ずることを得る」は「立即得生」と言われ、本願成就文の「即得往生」と同じ意です。
阿弥陀仏が立ったお姿を見せられた意を、善導大師は、続けておっしゃっています。

問ひていはく、仏徳尊高なり、輒然として軽挙すべからず。すでによく本願を捨てずして来応せる大悲者なれば、なんがゆゑぞ端坐して機に赴かざるや。
答へていはく、これ如来(阿弥陀仏)別に密意ましますことを明かす。ただおもんみれば娑婆は苦界なり。雑悪同じく居して、八苦あひ焼く。ややもすれば違返を成じ、詐り親しみて笑みを含む。六賊つねに随ひて、三悪の火坑臨々として入りなんと欲す。もし足を挙げてもつて迷ひを救はずは、業繋の牢なにによりてか勉るることを得ん。この義のためのゆゑに、立ちながら撮りてすなはち行く。端坐してもつて機に赴くに及ばざるなり。
(観無量寿経疏 定善義 華座観 住立空中尊 註釈版聖典七祖篇424頁)

「立ちながら撮りてすなはち行く」は「立撮即行」と言われています。

この意を、善導大師は次のようにもおっしゃっています。

しかるに諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。
(観無量寿経疏 玄義分 註釈版聖典七祖篇312頁)

観無量寿経 覚書 その1」にも書きましたように、これが「悪人正機」の教えとなり、それを表わされたのが「住立空中尊」なのです。

タグ : 観無量寿経

2009/08/14(金)
観無量寿経で大事なところは、「王宮会」「耆闍会」と説法が2回なされていることです。
王宮会の場合は、釈尊が韋提希夫人に説かれています。
耆闍会の場合は、阿難尊者が釈尊の代理で、耆闍崛山で釈尊のお帰りを待っていた、無量の諸天および竜・夜叉(釈尊のその他の弟子や菩薩、天人)に対して説法しておられます。

[序分 証信序]
かくのごとくわれ聞きたてまつりき。ひととき、仏、王舎城の耆闍崛山のうちにましまして、大比丘の衆千二百五十人と倶なりき。菩薩三万二千ありき。文殊師利法王子を上首とせり。
観無量寿経 註釈版聖典第二版 87頁)

[耆闍会 耆闍分]
そのときに世尊、足虚空を歩みて耆闍崛山に還りたまふ。そのときに阿難、広く大衆のために、上のごときの事を説くに、無量の諸天および竜・夜叉、仏の所説を聞きて、みな大きに歓喜し、仏を礼して退きぬ。
観無量寿経 註釈版聖典第二版 117頁)

[観無量寿経疏より]
耆闍会のなかにつきて、またその三あり。
一に「爾時世尊」より以下は、耆闍の序分を明かす。
二に「爾時阿難」より以下は、耆闍の正宗分を明かす。
三に「無量諸天」より以下は、耆闍の流通分を明かす。
上来三義の不同ありといへども、総じて耆闍分を明かしをはりぬ。
観無量寿経疏 註釈版聖典七祖篇 500頁)

菩薩の階次はいろいろ説かれていますが、『華厳経』や『菩薩瓔珞本業経』に説かれている52位の階位でいうならば、
52    仏
41~51 聖者(なお、仏も聖者です)
ーこれより下を「凡夫」というー
11~40 賢者(=内凡)
 1~10 外凡(この中に善凡夫と悪凡夫があります)
となります。

正信偈の「凡聖逆謗斉回入」の「凡」と「聖」の意味はこういうことです。

(お詫び:↓書体によって文字がずれる場合があります)
[善凡夫]
 遇大の凡夫 上輩(上品上生、上品中生、上品下生)…行福を励む人
 遇小の凡夫 中輩(中品上生、中品中生)………………戒福を励む人
            〃 (中品下生) …………………………世福を励む人
[悪凡夫]
 遇悪の凡夫 下輩 下品上生…十悪
              下品中生…出家の三罪(破戒、盗僧物、不浄説法
              下品下生…十悪・五逆

○いずれもこれらの悪を造って懺悔のない者ということです。
○三輩は観無量寿経に説かれているもので、大無量寿経の三輩ではありません。
盗僧物とは、仏教教団(サンガ)の共有財産を私物化することです。
不浄説法とは、以下のようなものをいいます。
 ・金銭を得るために法を説く
 ・見返りを期待して法を説く
 ・相手を打ち負かすために法を説く
 ・保身の為に法を説く
 ・自分は信じてもいないのに法を説く


観無量寿経の説法が2回されているということは、阿弥陀仏の救いは「汝是凡夫 心想羸劣」と言われた韋提希夫人のような「悪人」を救うことを本意とし、「善人」(聖者・賢者・善凡夫)は悪人に随伴して救われると教えられているのです。

なお、悪人正機の正機ということについては、「凡聖相対」と「善悪相対」とがあります。
正機は傍機に対します。
 凡聖相対…凡夫と聖者を比べる。凡夫が正機で聖者が傍機。
 善悪相対…善凡夫と悪凡夫と比べる。悪凡夫が正機で善凡夫が傍機。

観無量寿経では、王宮会の対機は悪凡夫の韋提希夫人、耆闍会の対機は善凡夫ということになります。

この観無量寿経の教説が「悪人正機」の教えにつながるのです。

タグ : 観無量寿経 不浄説法 九品

2009/08/14(金)
観無量寿経の構成は次のようになっています。
今後、これらの言葉を使うかもしれませんので参考にして下さい。

観無量寿経の五分科(善導大師によるもの)
◎王宮会
 ①序分
   証信序
   発起序
    化前序
    禁父縁
    禁母縁
    厭苦縁
    欣浄縁
    散善顕行縁
    定善示観縁
 ②正宗分
   定善十三観
   散善三観
 ③得益分
 ④流通分
◎耆闍会
 ⑤耆闍分

このうち、釈尊が王舎城の牢獄へ来臨され、韋提希夫人の前に立たれたのが、発起序の「厭苦縁」「欣浄縁」のところです。
韋提希夫人は釈尊に愚痴をぶちまけますが、釈尊は沈黙しておられます。
無言の説法とも言われるそうです。

この部分を読んでみましょう。

【厭苦縁】
ときに韋提希、幽閉せられをはりて愁憂憔悴す。はるかに耆闍崛山に向かひて、仏のために礼をなしてこの言をなさく、
「如来世尊、むかしのとき、つねに阿難を遣はし、来らしめてわれを慰問したまひき。われいま愁憂す。世尊は威重にして、見たてまつることを得るに由なし。願はくは目連と尊者阿難を遣はして、われとあひ見えしめたまへ」と。
この語をなしをはりて悲泣雨涙して、はるかに仏に向かひて礼したてまつる。いまだ頭を挙げざるあひだに、そのとき世尊、耆闍崛山にましまして、韋提希の心の所念を知ろしめして、すなはち大目犍連および阿難に勅して、空より来らしめ、仏、耆闍崛山より没して王宮に出でたまふ。
ときに韋提希、礼しをはりて頭を挙げ、世尊釈迦牟尼仏を見たてまつる。
身は紫金色にして百宝の蓮華に坐したまへり。目連は左に侍り、阿難は右にあり。釈・梵・護世の諸天、虚空のなかにありてあまねく天華を雨らしてもつて供養したてまつる。
ときに韋提希、仏世尊を見たてまつりて、みづから瓔珞を絶ち、身を挙げて地に投げ、号泣して仏に向かひてまうさく、
「世尊、われむかし、なんの罪ありてかこの悪子を生ずる。世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多とともに眷属たる。
(「」は続いています)
【欣浄縁】
やや、願はくは世尊、わがために広く憂悩なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし。閻浮提の濁悪の世をば楽はざるなり。この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ。いま世尊に向かひて五体を地に投げて哀れみを求めて懺悔す。やや、願はくは仏日、われに教へて清浄業処を観ぜしめたまへ」と。
そのとき世尊、眉間の光を放ちたまふ。その光金色なり。あまねく十方無量の世界を照らし、還りて仏の頂に住まりて化して金の台となる。〔その形は〕須弥山のごとし。十方諸仏の浄妙の国土、みななかにおいて現ず。あるいは国土あり、七宝合成せり。また国土あり、もつぱらこれ蓮華なり。また国土あり、自在天宮のごとし。また国土あり、玻瓈鏡のごとし。十方の国土、みななかにおいて現ず。かくのごときらの無量の諸仏の国土あり。厳顕にして観つべし。韋提希をして見せしめたまふ。
ときに韋提希、仏にまうしてまうさく、
「世尊、このもろもろの仏土、また清浄にしてみな光明ありといへども、われいま極楽世界の阿弥陀仏の所に生ぜんことを楽ふ。やや、願はくは世尊、われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ」と。

(「やや」というのは、「どうぞ」という意味です)

なぜ釈尊は沈黙しておられたのでしょうか。
韋提希夫人の問いは
「いったい私が過去にどんな悪行をしたから、今こんなに苦しまなければならないというのぉ!」
です。
韋提希夫人がたとえこの答えを知ったところで、救いにはならないからです。

「私たちの今の運命は何によって決まったのか。それは、過去世の種まきによって決まったのです。」という教えは「因果の道理」の体裁はとっていますが、「救い」にはなりません。
また「善いことをしなければ、善い結果は来ませんよ。悪いことをすれば、悪い結果が来ますよ。」だけでは、仏教以外の宗教や倫理道徳でも教えることで、仏教の因果観とは言えないでしょう。
現に、このようなフレーズを悪用し、多くの人を脅し、苦しめている宗教も少なくありません。

苦悩はどこから生ずるのか、そして生死流転から如何に離れるかを教えるのが仏教です。

仏教はネガティブな教えではなく、ポジティブな教えです。

韋提希夫人が目の前の苦しみの原因を追い求めることから、穢土を厭離し浄土を欣求するようになるまで、待っておられたのが釈尊の沈黙の理由でしょう。

釈尊の真意を正しく受け取らず、阿弥陀如来の本願・仏智を疑っている人を、親鸞聖人は戒めておられます。

自力諸善のひとはみな
仏智の不思議をうたがへば
自業自得の道理にて
七宝の獄にぞいりにける
(正像末和讃 誡疑讃 67)

タグ : 観無量寿経

2009/08/13(木)
歎異抄第3章を読む前に、観無量寿経について少々書きます。
「悪人正機」と観無量寿経とどんな関係にあるのかと思われるかもしれませんが、善導大師が、観無量寿経疏に、

しかるに諸仏の大悲は苦ある者においてす、心ひとえに常没の衆生を愍念したまう。これを以て勧めて浄土に帰せしむ。
また水に溺れたる人のごときは、すみやかに、すべからく、ひとえに救うべし、岸上の者、何ぞ済うを用いるをなさん。

(註釈版聖典七祖篇 312頁)

如来(釈尊)この十六観の法を説きたまふは、ただ常没の衆生のためにして、大小の聖のためにせずといふことを証明す。
(註釈版聖典七祖篇 321頁)

などとおっしゃっていますので、大いに関係あります。

とは言いましても、観無量寿経観無量寿経疏について解説するわけではございません。
気がついたことを少しずつ書きとめたいと思います。
まず「その1」としまして、定善について書きます。
今日書くことは、それほど大事なことではないのですが、誤解している人もいますので、参考にして下さい。

まず定散二善についての善導大師のお言葉です。

しかるに衆生障重くして、悟を取るもの明めがたし。
教益多門なるべしといへども、凡惑遍攬するに由なし。
たまたま韋提、請を致して、「われいま安楽に往生せんと楽欲す。ただ願はくは如来、われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ」といふによりて、しかも娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。
その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。
「定」はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす。
「散」はすなはち悪を廃してもつて善を修す。
この二行を回して往生を求願す。
弘願といふは『大経』(上・意)に説きたまふがごとし。
「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」と。
また仏の密意弘深なり、教門暁めがたし。三賢・十聖も測りてうかがふところにあらず。
いはんやわれ信外の軽毛なり、あへて旨趣を知らんや。
仰ぎておもんみれば、釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなはちかの国より来迎したまふ。
かしこに喚ばひここに遣はす、あに去かざるべけんや。
ただ勤心に法を奉けて、畢命を期となして、この穢身を捨ててすなはちかの法性の常楽を証すべし。
これすなはち略して序題を標しをはりぬ。
(註釈版聖典七祖篇 300頁)

これより以下は、次に定散両門の義を答ふ。
問ひていはく、いかなるをか定善と名づけ、いかなるをか散善と名づくる。
答へていはく、日観より下十三観に至るこのかたを名づけて定善となし、三福・九品を名づけて散善となす。
問ひていはく、定善のなかになんの差別かある、出でていづれの文にかある。
答へていはく、いづれの文にか出づるといふは、『経』(観経)に「教我思惟教我正受」とのたまへり、すなはちこれその文なり。
差別といふはすなはち二義あり。
一にはいはく思惟、二にはいはく正受なり。
「思惟」といふはすなはちこれ観の前方便なり。
かの国の依正二報総別の相を思想す。
すなはち地観の文(観経)のなかに説きて、「かくのごとく想ふものを名づけてほぼ極楽国土を見るとなす」とのたまへり。
すなはち上の「教我思惟」の一句に合す。「正受」といふは、想心すべて息み、縁慮並び亡じて、三昧相応するを名づけて正受となす。
すなはち地観の文のなかに説きて、「もし三昧を得れば、かの国地を見ること了々分明なり」とのたまへり。
すなはち上の「教我正受」の一句に合す。
(註釈版聖典七祖篇 307頁)

定善観には13種類あり、定善十三観と言います。
(これは善導大師のおっしゃったことで、それまでの浄影寺慧遠、嘉祥寺吉蔵、天台智などは十六観全部を定善と見ていました。このことについては省略します)
上の善導大師の文にもありますように、定善十三観には差別があります。
定善は、
日想観、水想観、地想観、宝樹観、宝池観、宝楼観、華座観、像観、真身観、観世音菩薩観、大勢至菩薩観、普観、雑想観
ですが、これを、
「日想観が一番勝れていて難しく、水想観、地想観・・・となるにつれて易しくなる。」
と思っている人がいますが、「凄い」間違いです。

善導大師のお言葉などから十三観を分けますと、
【依報観】(国土荘厳)
 [仮観]仮観(「思惟」であり、方便・準備ということ)
   日想観(十三観に対する準備)、水想観(地想観に対する準備)
 [真観](「正受」)
  《通依報》(共通ということ)
   地想観、宝樹観、宝池観、宝楼観
  《別依報》(阿弥陀仏だけということ)
   華座観
【正報観】
 [仮観]
   像観
 [真観]
  《仏荘厳》
   真身観
  《菩薩荘厳》
   観世音菩薩観、大勢至菩薩観
  《自往生観》
   普観
  《その他》
   雑想観(仏荘厳、菩薩荘厳ができない人のために説かれた)

真観>仮観であり、正報観>依報観であり、仏荘厳>菩薩荘厳ですので、第九真身観が一番勝れているのです。

「一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。」

「仏身を観ずるをもつてのゆゑにまた仏心を見る。仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもつてもろもろの衆生を摂す。この観をなすものは、身を捨てて他世に諸仏の前に生じて無生忍を得ん。このゆゑに智者まさに心を繋けて、あきらかに無量寿仏を観ずべし。」


等の有名なお言葉は、この第九真身観に説かれており、この経典が「観無量寿経」と呼ばれる所以はここにあります。
(なお、釈尊は「この経をば〈極楽国土・無量寿仏・観世音菩薩・大勢至菩薩を観ず〉と名づく」とおっしゃっています。)

長くなりましたが、言いたかったのは中文字ボールド体のところです。

タグ : 観無量寿経 定散二善 定善

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