あれは「親鸞会の書籍やアニメに使われている話の元はこうですよ」ということをお示ししただけで、それほど深い意味はありません。
「阿含経にはこのような話は出ています」の話は、下記の文の元の話です。
こんなことが知りたい②問27 読経は死人の為になるのか
死人に対する一番の御馳走は読経だと、皆さんが言われますが、お寺さんにお経を読んで貰うことは、死んだ人の為になるのでしょうか。
答の中の一文
ある時釈尊に、一人の弟子が、「死人のまわりで有難い経文を唱えると、死人が善い所へ生まれ変わるという人がありますが、本当でしょうか」と、尋ねたことがありました。その時釈尊は、黙って小石を一個拾われて、近くの池の中に投げられました。水面に輪を描いて沈んでいった石を指さして、「あの池のまわりを、石よ浮いてこい、浮いてこいと唱えながらまわれば、石は浮いてくるであろうか」と、釈尊は反問せられました。石は、それ自身の重さで沈んでいったのだ。人間もまた自業自得によって、死後の果報が定まるのだ。経文を読んで死人の果報が変わる筈がないではないか。と言うのが釈尊の教えでありますから、読経や儀式で死者が救われるという迷信は、もともと仏教にはなかったのです。
浄土真宗の信心とは関係ないのですが、言いたかったのは次のようなことです。
①元の釈尊の話の半分だけ使われているということ
②「有難い経文」とありますが、釈尊在世中にお経があるはずありませんので、元はどうなっているのかというもっともな質問をしてくる人がいて、それに答えただけです。
「阿含経にはこのような話も出ています」の話は、下記の文の元の話です。
こんなことが知りたい①問29 誰の説法でも同じことではないのか
私の近所に、お寺さんなら、説教される人なら、どなたのお話を聞いても同じだと言う人がありますが、本当に誰に聞いてもよいのでしょうか。
答の中の一文
また、阿難がある時釈尊に「善知識は、さとりの道の半因縁と思えばよいのでしょうか」と尋ねると、「そうではない、善知識は全因縁である」とまで答えていられます。これらの仏説でもお判りのように、まことの信心決定した善知識を求め探して聞法しなければ、如何に真剣に聴聞しても助かることがありません。
これは善知識の意味が全く違いますね。
タグ : 阿含経
『阿含経典による 仏教の根本聖典』(増谷文雄著)より
南伝 相応部経典 45-2後半と3 舎利弗
漢訳 雑阿含経 27-726
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、釈迦族のサッカラという村にあられたことがった。その時、アーナンダ(阿難)は世尊のあられる処にいたり、世尊を拝し、世尊にもうして言った。
「大徳よ、私どもが善き友、善き仲間を有するということは、これは、聖なる修行のすでに半ばを成就せるにひとしいと思うが、いかがであろうか。」
かく問われて、世尊は答えて言った。
「アーナンダよ、そうではない。そのような考えをしてはならぬ。アーナンダよ、善き友、善き仲間を有するということは、これは聖なる修行のなかばではなくして、そのすべてであるのである。アーナンダよ、善き友をもち、善き仲間の中にある比丘においては、八つの聖なる道を修学し、成就するであろうことは、期してまつことができるのである。
アーナンダよ、このことによっても、それを知ることができるではないか。
アーナンダよ、人々はわたしを善き友とすることによって、老いねばならぬ身にして老いより解脱し、病まねばならぬ身にして病より解脱し、死なねばならぬ人間にして死より解脱することを得ているのである。このことによっても、アーナンダよ、善き友をもち、善き仲間にあるということは、聖なる修行のすべてであると知るべきである。」
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祇陀)林なる祇孤独の園にあられた。その時、サーリプッタ(舎利弗)は世尊のもとにいたり、世尊を拝し、世尊にもうして言った。
「世尊よ、私どもが善き友、善き仲間を有するるということは、これは聖なる修行のすべて成るにひとしいと思うが、いかがであろうか。」
かく問われて、世尊は答えて言った。
「よいかな、サーリプッタよ、その通りである。善き友をもち、善き仲間にあるということは、これは、聖なる修行のすべて成るにひとしいということができる。サーリプッタよ、善き友をもち、善き仲間の中にある比丘にありては、八つの聖なる道を修め習い、これを成就するであろうことは、期してまつことができるのであろう。
サーリプッタよ、それは、この理によっても知ることができるであろう。
サーリプッタよ、人々はわたしを善き友とすることによって、老いねばならぬ人間でありながら、老いより解脱する。病まねばならぬ人間でありながら、病より解脱しておる。死なねばならぬ人間にして、死より解脱することを得ているのである。このことによっても、サーリプッタよ、善き友をもち、善き仲間にあるということは、聖なる修行のすべてであると知るべきである。」
南伝 相応部経典 42-6 西地人
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、ナーランダー(那羅陀)なるパーヴァーリカンバ(波婆離迦菴羅)林にましました。その時、アシバンダカプッタ(刀師子)なる部落(むら)の長が、世尊を訪れ来たり、世尊を拝して、問うて言った。
「大徳よ、西の方より来たれる婆羅門は、水瓶を持ち、花環をつけ、水に浴し、火神につかえ、死せる人々を天界に昇らしめることができるという。大徳は、あまねく世人の尊敬をうけられる覚者であられるが、大徳もまた、人々の身壊れ、命終わりて後、善趣天界に上生せしめることを得るのであろうか。」
「部落の長よ、では、私から、なんじに問うてみたい。なんじの思うとおりに答えてみるがよい。部落の長よ、なんじはこれをいかに思うであろうかここに一人の人があって、人を殺し、物を盗み、偽りを言いなど、あらゆる邪まの業をなしたとするがよい。そこに大勢の人々が集まり来たって、『この人死して後は善趣天界に生まれるように』と、祈祷し、合掌したとするならば、なんじはいかに思うか。この人は、この大勢の祈祷合掌の力によって、死後、天界に生まれることができるであろうか。」
「大徳よ、いいえ、彼は天界に生まれることはできますまい。」
「部落の長よ、たとえば、ここに一人の人があって、深き湖の水の中に大きな石を投じたとするがよい。その時、そこに大勢の人々が集まり来たって、『大石よ、浮かびいでよ、浮かび上がって、陸にのぼれ』と、祈祷し、合掌して、湖のまわりを回ったとするならば、なんじはいかに思うか。その大いなる石は、大勢の人々の祈祷合掌の力によって、浮かびいでて陸に上がるであろうか。」
「大徳よ、いいえ、大きな石が浮かびいでて陸にあがるはずはありません。」
「それと、同じことである。あらゆる邪悪の業をつんできたものが、いかに祈祷し合掌したからとて、死後、天界におもむく道理はない。その人は、身壊れ、命終わりて後は、悪趣地獄に生まれるのほかはないのである。
では部落の長よ、さらに、なんじは、このような場合には、いかに思うであろうか。ここにまた、一人の人があって、生きものを害せず、人の物を盗まず、偽りを語らず、あらゆる善き業を積んだとするがよい。しかるに、大勢の人々が集まり来たって、この人死して後は悪趣地獄に生まれるようにと、祈祷し、合掌したとするならば、どうであろうか。なんじはいかに思うか。この人は、人々の祈祷合掌の力によって、死後は地獄に生まれなければならぬであろうか。」
「大徳よ、いいえ、そのような人が地獄に堕ちるはずがありません。」
「その通りである。たとえば、ここに一人の人があって、深き湖の水の中に油の壺を投じたとするがよい。そして壺は割れ、油は水の面に浮いたとするがよい。その時、大勢の人々が集まり来て、『油よ沈め、油よ沈め、なんじ油よ、水の底にくだれ』と、祈りをなし、合掌して、湖のまわりを回ったとするならば、なんじはいかに思うか。その油は、人々の合掌祈祷の力によって、沈むであろうか。」
「いいえ、大徳よ、油が水の底に沈むはずはありません。」
「それと、同じことである。あらゆる正善の業をつんできたものは、いかに祈ったからとて、合掌したからとて、その力によって死後、地獄におもむくはずはない。その人は、身壊れ命終わりて後は、善趣天界におもむくことは必定である。」
かく教えられた時、部落の長は、世尊にもうして言った。
「よいかな大徳よ。譬えば、倒れたるを起こすがごとく、覆われたるを啓くがごとく、迷える者に道を示すがごとく、また眼ある者は見よとて、暗の中に燈火をもたらすがごとく、世尊は種々の方便をもって、法を説き示された。願わくは、今日より終世かわることなき帰依の信者として、私を許し受けられんことを。」
タグ : 阿含経