なぜ答えぬを読む

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2009/12/15(火)
第七問

「本願を信受すれば、往生浄土できるし、信受しなければ、地獄に堕ちることは、自明である」(回答書ⒷP・四三)
だが、地獄に堕ちることを一大事という親鸞会は間違いだ、といわれる。
それでは、本願を信受せず、信心獲得していない者が地獄に堕ちることは、一大事ではないのか。一大事とは、いえないことなのか。
『領解文』の、「われらが今度の一大事の後生、おん助け候へ………」の一大事も、「地獄に堕ちること」といったら、間違いなのか。
おたずねいたします。
要約
⑫地獄に堕ちることは、一大事ではないのか。
⑬一大事とは、いえないことか。
⑭領解文の「一大事」も、地獄に堕ちることといったら、間違いか。


【答え】
この問題については解決済みだと思いますので、省略します。
ただ、
⑭「領解文の「一大事」も、地獄に堕ちることといったら、間違いか。
という問いに対しては、お答えしますと、
「間違い」です。
これは蓮如上人が「御たすけ候へとたのみまうして候ふ」と仰っている意味が分からないと混乱します。
浄土真宗においては「御たすけ候へ」と「たのみ」は同じ意味です。
世間的な「助けて下さい」という請求の意味ではありません。
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タグ : 本願寺なぜ答えぬ 後生の一大事

2009/12/15(火)
第六問

「高森親鸞会は、宿善として、自力諸善を積むように勧めているが、当流では、他力の信心を獲るために、まず、自力諸善を積まねばならない、などという説示はない」(回答書ⒶP・一四二)
「『破邪顕正や財施を修することが、獲信のための宿善となる』という文証があれば、示してもらいたい、と求めたのが一昨年の六月二十一日であるから、もう八百日以上が経過していることになるが、これについては、何の返答もないままである」(回答書ⒷP・一六)
同趣旨のことが、回答書ⒶⒷに、五、六回も強調されています。
それでは、おたずねいたします。
親鸞聖人の三願転入のみ教えと、獲信とは、無関係といわれるのか。
要約
⑪三願転入の教えと、獲信とは、無関係なのか。


【答え】
そもそも「三願転入の教え」という言葉は浄土真宗にはないと思います。
「三願転入の御文」ならあります。
そこは百歩譲りまして、答えますと、
三願転入の御文とは、獲信された親鸞聖人が振り返って阿弥陀仏の御恩を喜ばれたお言葉です。
そういう関係にあります。

では、三願転入の御文で何を教えられているのかというと、「従仮入真」と「信疑決判」です。
第19願、第20願は方便願であり、方便は廃捨すべきものであると教えておられます。
願海真仮ということをよく知って下さい)
以上です。

タグ : 本願寺なぜ答えぬ 宿善 願海真仮 従仮入信 信疑決判

2009/12/15(火)
第五問

宿善はあくまで、他力になさしめられるものならば、なぜ、聴聞(聞法)に、はげまねばならないのか。教えすすめねばならないのか。と、かねて、おたずねしているのに、
「つまりは、他力をよろこばれた、お心が理解できないところから生じたものと思わざるを得ない」(回答書ⒷP・二二)
とのこと。
これでは、答えにならないのです。
「あくまでも、他力になさしめられる宿善」と、「はげまねばならぬ、自力の聴聞」とは、関係があるのか、ないのか、をきいているのです。
あれば、どんな関係か。
重ねて、おたずねいたします。
要約
宿善と聴聞は、関係あるのか、ないのか。
⑩あれば、どんな関係か。


【答え】
宿善と聴聞は、関係あるのか、ないのか。

本願寺が相手にしたくなくなる気持ちもよく分かります。
「あくまでも、他力になさしめられる宿善」と、「はげまねばならぬ、自力の聴聞」とは、関係があるのか、ないのか
という質問ですね。
問題は「他力になさしめられる宿善」という言葉です。
意味がはっきりしませんが、これを「他力になさしめられる獲信」ととって、「信心」と「私の励む聞法」の関係ということでしたら、第四問の答えと同じことで、関係ありません。
私の聞法によって獲信するのではありません。
聞が信です。
阿弥陀仏の独用です。
全分他力、本願力回向の信楽なのです。

⑩あれば、どんな関係か。

この質問はボツになります。

第五問は以上です。

タグ : 本願寺なぜ答えぬ 宿善

2009/12/15(火)
第四問

「私は宿善の厚薄を認めない、などといっているのではない」(回答書ⒷP・二三)
と、宿善の厚い人と薄い人のあることを認めてあります。薄い宿善が厚くなり、宿善開発するのですが、宿善の薄いものは、この世で、どんなにしても厚くなれないのか。
聞法をすすめることと、宿善開発とは、無関係なのか。
おたずねいたします。
要約
⑦この世で、宿善は厚くなれないのか。
⑧聞法をすすめることと、宿善開発は、関係ないのか。


【答え】
⑦この世で、宿善は厚くなれないのか。

宿善の厚薄があるということと、宿善が薄かったのが厚くなるということとは違います。
上の文章の中の「薄い宿善が厚くなり、宿善開発するのですが、」の部分が間違いです。
この質問も意味が無い質問です。
「この世で獲信できないのか」
という質問ならば意味があります。
(答えは当然「できます」です)

⑧聞法をすすめることと、宿善開発は、関係ないのか。

「私の」聞法によって救われるのではありません。
阿弥陀仏の独用です。
阿弥陀仏の仰せが聞こえて下されたのが「信心」です。
こういうと、必ず「関係ないのか、あるのか。イエスかノーで答えて下さい」というのが常套手段なので、あえて、それに合わせて答えますと「関係ありません」
聞法は、信前も信後も大切です。
どちらとか言うと、信後の方が大切です。

タグ : 本願寺なぜ答えぬ 宿善

2009/12/15(火)
第三問

「正しい意味の破邪顕正や財施が諸善万行の中に、はいることは、いうまでもない。しかし、自らの主張だけを正しいものとし、他派の法座や法要の妨害をするようなことを破邪顕正と考え、そのような集団に献金することを財施というのであれば、それが、果たして諸善といえるかどうかは、疑問である」(回答書ⒷP・二六)
同趣旨のことが、回答書ⒶP・一四二にもあります。
そこで疑問を呈します。
「本願寺の破邪顕正は諸善万行に入るが、親鸞会のは入らない」
ということなのか。
「本願寺へ財施すれば善になるが、親鸞会へ財施しても修善にならぬ」
ということなのか、おたずねいたします。
要約
⑤本願寺の破邪顕正は諸善に入るが、親鸞会のは入らぬということか。
⑥本願寺へ財施すれば修善になるが、親鸞会にしてもならぬということか。


【答え】
私は本願寺の代表ではありませんが、第三者として意見を述べます。
⑤も⑥も、本願寺とか親鸞会という団体がどうのこうのということではなく、仏法=阿弥陀仏の本願が弘まればいいですよ。「破邪顕正」とか「財施」とかはできる人がすればいいです。仏法=阿弥陀仏の本願を弘める為の行為なら善ですよ。

タグ : 本願寺なぜ答えぬ

2009/12/15(火)
第二問

「私は聞法を否定するなどとは一言も書いてはいない。破邪顕正や財施(高森親鸞会への献金、会費)等が、獲
信のための宿善となるのだから、これを修せねばならぬとする主張に疑義を呈したのである」(回答書ⒷP・三一)
「聴聞については、『聞其名号信心歓喜』の法であるから、巳信、未信を問わず、みずから聞法につとめると共
に、他の人たちにも聞法を勧めねばならないことは、いうまでもない。しかし、今生において聴聞に励むことは、どれぼど懸命に努め励んでも、それは、あくまで救いの法をお聞かせいただくのであって、これを自力の善根を修するとか、宿善を積むなどとは、いわないのである」(回答書ⒶP・一四五)
ここでは、「いわない」ということは、「ならない」ということか、の疑問が生じます。
獲信の現在から、ふりかえったとき、過去の聞法修行や修善などが、宿善として喜ばれると、次のように記されているからです。
「本願の法に遇い、これを信じ喜ばせていただくのは、宿世の善根、すなわち、宿善にもとづくものである。宿善として、善本(善根)、持戒、見仏、供仏、聞法修行、発菩提心、修善、修福などが、示されてある」(回答書ⒶP・一四〇)
宿善になると「いわない」ということは、「未来の獲信の縁由にならない」ということなのか。
ただ言葉遣いだけの問題なのか。おたずねいたします。
要約
③「いわない」ということは、「ならない」ということか。
④ただ言葉遣いだけの問題なのか。


【答え】
③「いわない」ということは、「ならない」ということか。

宿善になると「いわない」ということは、「未来の獲信の縁由にならない」ということなのか。
という質問でしたら、そうですよ。
獲信は阿弥陀仏の本願力の独用です。
この質問自体が、実は意味が無いのです。
そもそも「未来の獲信」をすすめてるのでしょうか。
平生業成なのに。

④ただ言葉遣いだけの問題なのか。

上に述べた通りです。

第二問は以上です。

タグ : 本願寺なぜ答えぬ

2009/12/15(火)
『本願寺 なぜ 答えぬ』の本文についての言及はこれまでとします。
なぜかといいますと、
・三願転入、第19願の意味
・方便の意味
宿善の意味
など、これまで述べてきましたので、それらを読んで頂ければ分かることだからです。

また、
第三の非難 布教は信心獲得している者に限る
第四に非難 親鸞会の破邪顕正は間違い
第五の非難 親鸞会への財施は、獲信の因縁にならぬ
の三項目に関する本文はそれほど重要ではないように思われますので、パスします。

そこで、これからは親鸞会から本願寺に出された七つの公開質問状について、私が勝手に答えることにします。
質問文は、『本願寺 なぜ 答えぬ』に書かれてあるものに改行の変更を加えます。

第一問

宿善とは宿世の善根という意味で、現在から過去をふりかえっていう言葉である。すなわち、私どもが現在、尊い法に遇い、これを信じ喜ばせていただく身になったのは、宿世の善根によるのであるという」(回答書ⒶP・一三七)
宿善とは遇法獲信の現在から過去にさかのぼって、その縁由を喜ぶものであって、その縁由となった過去の善根については、これを自己の修する善である(宿善自力説)」(回答書ⒶP・一四四)
このように過去をふりかえって喜ぶものが宿善なのに、親鸞会は未来に向かって求めよと修善をすすめるから、間違いだ、といわれています。
回答書ⒶⒷには、同趣旨のものが、四、五ヵ所もあります。
そこで疑問が生じます。
ならば、今年、獲信した人は、昨年、自己の修した善をふりかえって、宿善と喜ぶことになります。
無論、獲信と修した善が無関係ならば、喜ぶはずがありません。
明らかに獲信と修善は関係があったから喜ぶのです。
しかも、悪い関係ならば、喜ぶはずはないのですから、
当然、善い関係でなければなりません。
獲信と善い関係にある修善をすすめることを、なぜ、間違いとされるのか。
また、
「獲信の現在から過去にさかのぼって」の過去には、今生は、はいらないのか。
おたずねいたします。
要約
①獲信とよい関係にある修善をすすめることは、間違いか。
②過去に今生は、はいらないのか。


【答え】
①獲信とよい関係にある修善をすすめることは、間違いか。

「今年、獲信した人は、昨年、自己の修した善をふりかえって、宿善と喜ぶことになります。」
という前提のご質問ですが、
「今年、獲信した人は、昨年、自己の修した善をふりかえって、宿善と喜ぶことにはなりません。」
ので、質問自体意味がありません。
なお、少し補足を加えるならば、
ご質問が、
「獲信の為に修善をすすめることは、間違いか。」ならば、答えは「間違い」です。
「修善をすすめることは、間違いか」ならば、答えは「間違いではないですが、それが信心獲得や往生浄土と何か関係ありますか?関係ないですよ。」
となります。

②過去に今生は、はいらないのか。

はいりますよ。それがどうかしましたか?

第一問は以上です。

タグ : 本願寺なぜ答えぬ 宿善

2009/12/11(金)
今回は既出問題ですが、
(三)第二の非難──諸善は、獲信の因縁ならず──
の一文を取り上げます。(93頁)

 宿善の厚い頓機は、はやく救われる(信心獲得)からよかろうが、宿善の薄
き漸機は、どうすればよいのか。
 これこそが、宿善問題の、最要課題であろう。
しかも、宿善厚き頓機は、極めて少なく、宿善薄き漸機は、圧倒的に多いのだ。
 記録に残っているものから、窺っても、法然上人のお弟子、三百八十余人中、
頓機は、親鸞聖人と蓮生房、耳四郎の三人のみ。
 聖人の門下では、明法房弁円、ただ、一人である。
その外にもあったであろうが、甚だ少なかったから、法然上人は『和語灯録』
に、
「頓機の者は少なく、漸機の者多し」
と、仰せられている。


この文は、親鸞会発行の『会報 第3集』などの記述と同じで、『和語灯録』の文については、すでに昨年(平成20年)4月23日に「清森問答 親鸞会教義の相対化・32」で指摘されています。
以下該当箇所を抜粋します。

【2】『会報』vol.3p.55~宿善(2)

>>>
よって宿善の厚薄は、また聞法心の強弱によって知ることが出来る。仏教では宿善深厚の人を頓機といい、宿善薄弱な人を漸機といわれる。頓機の者は一度の法筵に遇っても信を獲るが、漸機の人は法筵を重ねて、漸く信を獲得するのである。丁度、枯松葉と青松葉のようなものである。枯松葉はマッチ一本ですぐに火がつくけれども、青松葉に火をつけようとしても、プスープスー水をはじいて、中々火はつきにくい。それと同様に頓機は御慈悲の火がつきやすい状態になっている人だから、すぐにも仏凡一体と燃え上るが、漸機は今日もカラボコ、今日も落第どう聞けばよいのか、どれだけ聞けばわかるのかと、ブスブス小言ばかりいって、流転しているのである。しかも漸機の者は圧倒的に多く、頓機は稀なのである。
記録に残っているものから窺っても、法然上人のお弟子の中では、わが親鸞聖人と蓮生房と耳四郎の三人のみが頓機である。
聖人の門下では明法房、ただ一人である。その外にもあったであろうが甚だ少なかったから、法然上人は『和語灯録』に頓機の者は少なく、漸機の者は多しと仰せられている。
>>>

これは本当に『和語灯録』に基いた記述なのでしょうか?

私はこのような記述を『和語灯録』で読んだ記憶がなかったので、確認のために全文読み直したのですが、やはり見つけることができませんでした・・。


>>>
人の心は頓機漸機とて二品に候なり。頓機はききてやがて解る心にて候。漸機はようよう解る心にて候なり。物詣なんどをし候に、足はやき人は一時にまいりつくところへ、足おそきものは日晩しにかなわぬ様には候えども、まいる心だにも候えば、ついにはとげ候ように、ねごう御心だにわたらせ給い候わねば、年月をかさねても御信心もふかくならせおわしますべきにて候。
『往生浄土用心』昭法全p.562

(訳)
人の心には頓機、漸機という二つがある。頓機というのは聞いたならばすぐにその内容を理解できる人、漸機というのは徐々に理解していく人のことをいう。たとえば神社仏閣へ参詣するにしても、足の速い人は、わずかな時間でそこまでたどりつくことができるのに、足の遅い人は一日かけても着くことができないようなものである。
しかし、そこに行こうという心があれば、最後には必ずお参りすることができるのと同じように、浄土に往生したいと願う気持ちさえあるならば、時間はかかっても御信心は深くなっていくに違いない。
>>>


『和語灯録』において「頓機」「漸機」について言及する用例は、私の調べた限り以下のものだけだったのですが、高森先生の述べられる内容とかなり異なっているようです。

高森先生は人の機根を頓機・漸機で差別するように語っていますが、法然上人は信心の弱さを嘆く人に、往生を諦めないように励ましておられます。

これは、「親鸞会教義の相対化・29」の「§1信心の弱さを嘆く人へ」で私が挙げた用例に通じるものです。


清森問答をご覧になっている方の中には、高森先生や親鸞会教義を擁護する立場の方も沢山おられますから、上記の高森先生の説に一致する『和語灯録』の記述があるのであれば、ぜひご教授いただきたいものです。


 法然聖人の法語で「頓機・漸機」という言葉が出てくるのは、上にもありましたように、『往生浄土用心』です。浄土宗関係の本では『昭和新修 法然上人全集』(平楽寺書店)の562頁ですが、浄土真宗関係の本では『真宗聖教全書 四 拾遺部上』(大八木興文堂)の「拾遺語燈録 巻下」769頁にあります。
※なお「拾遺語燈録」は「拾遺黒谷上人語燈録」とも言われます。

 私も『和語燈録』を読みましたが、『なぜ答えぬ』『会報』に書かれているような記述はありませんでした。

 法然聖人が仰っているように、頓機・漸機という言葉はあります。(あまり使われませんが・・・)
 頓悟の機・漸悟の機ということです。
 一般的に「頓・漸」は教法について言われるのですが、それを機について語ったもので、その意味は早く救われる人とそうでない人ということです。
 参照:
  尊号真像銘文の法印聖覚和尚の銘文。
  また真宗学には「教頓機漸の真門」という用例があります。

 「宿善問題の最要課題」の根拠がいい加減では困ったものです。

タグ : 本願寺なぜ答えぬ 宿善

2009/12/11(金)
今日は
(三)第二の非難──諸善は、獲信の因縁ならず──
の一文を取り上げます。(86-87頁)

その際、過去のエントリーの宿善について述べてある箇所を読んで頂いた方が、理解しやすいと思いますので、下に一覧であげておきました。

 宿世の善根を、大きく分けると、宿因と、宿縁になる。
宿因とは、過去にやった諸善万行をいい、宿縁は、阿弥陀仏のご念力で結ばさ
せられた、仏縁をいう。
 親鸞聖人が、
「遇行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(教行信証)
 と、感泣され、蓮如上人は、
「『宿善めでたし』と言うはわろし。御一流には『宿善有り難し』と申すがよ
く候」(御一代記聞書)
と、仰せになっている、ものである。
 道綽禅師は、『安楽集』に、
「三恒値仏の因縁」
を、説いて、
“三恒河沙の諸仏の、出世のみもとにあって、仏縁を結んだ者でなければ、こ
の法に、あえないのだ”
と、仰せになっている。
 以上で、判明するように、過去に仏縁あって、聞法や、諸善を積んできた人
を、宿善ある人といい、そうでない人を、無宿善というのである。
 されば、宿善ある人といっても、各自、過去の業縁まちまちであるから、宿
善は、一定ではありえない、ことは、明らかだ。


「以上で、判明するように」とありますが、何も判明していませんし、「明らかだ」とありますが、何も明らかではありません。

 少しずつ見ます。

○宿世の善根を、大きく分けると、宿因と、宿縁になる。
 浄土真宗ではこのように言われません。
 親鸞聖人は「宿善」「宿因」という言葉は、あれほど多くの著書の中に一つも使っておられません。「宿縁」の言葉だけです。
 辞書を引けば、「宿善」「宿因」「宿縁」のそれぞれに説明がありますが、基本的にはこの「宿善」「宿因」「宿縁」は同じ意味です。
〈参照〉
あるいはこの位を、すなはち真実信心の行人とも、宿因深厚の行者とも、平生業成の人ともいふべし。されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。
 しかれば念仏往生の根機は、宿因のもよほしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。このこころを聖人の御ことばには「遇獲信心遠慶宿縁」(文類聚鈔)と仰せられたり。これによりて当流のこころは、人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたづらごとなるべし。
(御文章4帖目第1通 註釈版聖典1162-1163頁

○宿因とは、過去にやった諸善万行をいい、宿縁は、阿弥陀仏のご念力で結ばさせられた、仏縁をいう。
 上に述べましたように、獲得し顧みるときは、諸善万行といっても阿弥陀仏のご念力によるものと見ますので、同じことです。

○以下、
『教行信証』(親鸞聖人)
『御一代記聞書』(蓮如上人)
『安楽集』(道綽禅師)
の3つのご文があげられています。

「遇行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」は、阿弥陀仏のご念力によるものという意味で、私も言うことはありませんが、直前の文章とのつながりははっきりしません。
『御一代記聞書』の言葉は、過去のエントリーで説明しましたので、そこを見たいただければ分かりますが、ここでは何の説明もされていません。
ただ「宿善」という言葉があったので使っただけで、親鸞聖人の言葉同様、前の文章とのつながりは全くないと思います。
『安楽集』の言葉は、親鸞聖人が「宿縁」と言われ、蓮如上人が「宿善有り難し」と言われたものとは違います。

上に

「以上で、判明するように」とありますが、何も判明していませんし、「明らかだ」とありますが、何も明らかではありません。

と述べたのも、意味の微妙に異なる3つの文を並べているだけだからです。
(親鸞聖人が「遠く宿縁を慶べ」と言われたのと、蓮如上人が「宿善有り難し」と言われたのは同じです)

【宿善に関する過去のエントリー】
「宿善といふこと」
『歎異抄 現代語版』(本願寺)の巻末註「奥書の無宿善の機=仏の教えを聞く機縁が熟していないもの」の説明文

「宿善といふこと 2」
 蓮如上人仰せられ候ふ。宿善めでたしといふはわろし。御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふよし仰せられ候ふ。
(御一代記聞書233条 註釈版聖典1307-1308頁)
について

「宿善といふこと 3」
 他宗には法にあひたるを宿縁といふ。当流には信をとることを宿善といふ。信心をうること肝要なり。さればこの御をしへには群機をもらさぬゆゑに、弥陀の教をば弘教ともいふなり。
(御一代記聞書234条 註釈版聖典1308頁)
について

「宿善といふこと 4」
『親鸞の世界 -信の領解-』(加茂仰順師)より

「宿善の厚薄 唯信鈔の言葉」
宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。
について

「宿業 宿善 因果の道理」
「季刊せいてん」№50(2000 春の号)口伝鈔/善悪二業(口伝鈔第四章)より(梯實圓師の文)

タグ : 本願寺なぜ答えぬ 宿善

2009/12/10(木)
『本願寺 なぜ 答えぬ』は親鸞会の代表的な本です。
ある意味、ここに親鸞会教義が凝縮されているといってもいいと思います。
今までこのブログでは取り上げてきませんでしたが、関心のある人もいるでしょうから、少しだけ読んでみましょう。
今日は
(二)第一の非難──宿善の語義から──
の最後の部分を見ます。(78-79頁)

本願寺を、絶句させた質問の一つを、次に紹介しておこう。

宿善とは、遇法獲信の現在から、過去にさかのぼって、
その縁由を、喜ぶものであって、その縁由となった、過
去の善根については、これを自己の修する善である(宿
善自力説)」(回答書A P・144)
 このように、過去をふりかえって、喜ぶものが、宿善
なのに、親鸞会は、未来に向かって、求めよ、と修善を
すすめるから、間違いだ、といわれています。
 ならば、おたずねいたします。
 今年、阿弥陀仏に救われた人(獲信者)は、昨年、自
己の修した善を、ふりかえり、宿善と、喜ぶことになる。
 獲信と、よい関係にある、修善をすすめる親鸞会を、
非難する本願寺は、間違いにならないか。

 一撃で、ダウンしたほど、本願寺の反論は、ひどいものだった、ということ
だ。
 あえて、
「読むだけ、時間のムダ」
と、酷評した次第。
 しかし、もう読まない、などといっていたら、真実開顕の使命は、果たせな
い。
 自ら、シリを叩いて、先へ、進まなければならぬ。


わざわざ囲んである文章なのですが、この中の、
 今年、阿弥陀仏に救われた人(獲信者)は、昨年、自
己の修した善を、ふりかえり、宿善と、喜ぶことになる。

は、大間違いです

「私は去年はたくさん寄付をしたから、それが宿善になった救われたんだぁ。してよかったぁ。」
「私は去年はたくさんの人を勧誘したから、それが宿善になった救われたんだぁ。やってよかったぁ。」
となれば、自力が間に合うことになります。

それに・・・
救われた人は、このようには思いません。
「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」
なのです。

この『本願寺 なぜ 答えぬ』は、
分かった人が読むと面白い本なのですが、
(『歎異抄』や『安心決定鈔』とは違う意味ですよ)
分かっていない人が読むと、
「読むだけ、時間のムダ」
どころか、
「読むだけ、害悪」
です。

タグ : 本願寺なぜ答えぬ 宿善

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