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稲城選恵和上

2010/01/18(月)
興味深い論文がありましたので、ご紹介します。
稲城師の強調は下線、私の強調はボールド体で示します。
末尾に稲城師の説をまとめておきました。

『蓮如への誤解の誤解』所収の論文
 『蓮如への誤解』の問題点(稲城選恵師述) 三、信仰について より
 信仰という言葉も元来仏教の言葉である。『大宝積経』三十五巻「菩薩会開化長者品」第一によると、……、また同八十八巻の「摩訶迦葉会」にも、……、「大正蔵経」索引によると、「阿含部」から「蜜教部」まで、この『大宝積経』以外には出ていない。前の文の信仰は正しく信心とはその意を異にする。後の文も信心とも解せられるが、おの経典の意味は尊崇を意味するようである。それ故、宇井博士の『仏教辞典』では、
「三宝を信じてこれを欽仰するをいふ」
とある。また中村元博士の「辞典」にも同様に釈されている。この意味においては信仰は初起の信心というよりは後続に属する用語といわれる。あたかも『教行信証』総序の結尾にある。
「……遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。……」
とあり、更に「化身土巻」後序の結尾に、
「しかれば末代の道俗、仰いで信敬すべきなり、知るべし。 」
とある敬信や信敬の意味に通ずるようである。
 浄土真宗の上でも三経、七祖の上ではこの用語は存しない。更に宗祖の聖教の中にも見あたらないが、蓮如上人の『帖外御文章』や『聞書』には存する。-但し「帖内」には一ヶ所もない-『帖外』二十八通には、
「……しかりといへども、この当山にをひてはいよいよ念仏信仰さかりにて、一切の万民等かやうにまうすわれらにいたるまでも、……」
とあり、この場合の信仰は信心にも通じ、後続の尊崇の意味にも通じる。また「御一代記聞書」十三条にも、
「……まして、御一流を御再興にて御座候ふと申しいだすべきと存ずるところに、慶聞坊の讃嘆に、聖人の御流義、「たとへば木石の縁をまちて火を生じ、瓦礫のをすりて玉をなすがごとし」と、『御式』(報恩講私記)のうへを讃嘆あるとおぼえて夢さめて候ふ。さては開山聖人の御再誕と、それより信仰申すことに候ひき。 」
とあり、最も具体的にいわれている「拾遺聞書」ー一期記ーによると、……、この場合の信仰は正しく尊崇という意味である。それ故、仏教では信仰という用語は信心にも通じる場合もあるが、多くは法を尊崇する意味に用いられている。

 この信仰を浄土真宗の他力の信心の信心と同義とされたのはおそらく大谷派の清沢満之師によるものであろう。清沢満之の著作『精神主義』によると、「信仰問答」ー明治三十五年五月ーには、
信仰は自力であるといふお考へで差しつかへないと申しておきましょう。……しかるに信仰のためには自己をば内観反省して、信仰の必要を感じ、信ずべきものとあるからは何でも信ずるといふ決定がなければならないといふことであります……」
とあり、また「信仰と疑惑」「理解と信仰」によると、
信仰と理解は必ず調和すべきものとして、決して衝突すべきものにあらざるなり」
とある。また明治三十二年三月のものには「信仰の進歩」「他力信仰の発得」とあり、明治三十四年四月のものに「信仰の余瀝」を出されている。しかしこの用語はキリスト教の『聖書』にはじまる。明治の初年に出された『聖書』にも「信心」という用語は用いず、「信仰」を出されている。現在の『聖書』でも新約、旧約等しく『信仰』とあり、信心という用語は用いていない。それ故、キリスト教のどの辞典をみても信仰という語彙はあるが、信心という語彙はない。(略)「さて信仰とは望んでいることがらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」とある。特に確信という言葉を出されている。(略)ここに信仰はしばしば用いている確信ということである。宗祖の信心の解釈にはこのようなものはみられない。
 宗祖の上では信の対句は疑である。それ故、信心を無疑といわれるのである。
(中略)
信仰と浄土真宗の信心とは全く似而非なるものである。

引用はここまで

【稲城師の説のまとめ】
・一切経の中で「信仰」という言葉が使われているのは、『大宝積経』だけであり、その場合でも信心の意味ではない。
・七祖、親鸞聖人は「信仰」という言葉は使われていない。
・蓮如上人が『帖外御文章』『御一代記聞書』の中で使っておられるが、主として法を尊崇する意味に用いられている。
・「信仰」を他力信心の意味で使ったのは清沢満之師である。
・また、「信仰」という言葉はキリスト教に由来する。
・確信するという意味の「信仰」は自力の信であり、親鸞聖人はそれを「疑」と言われた。
・そういう意味で、「信仰」は浄土真宗の信心とは似て非なるものである。
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タグ : 稲城選恵 信仰

2010/01/11(月)
たすけたまへとたのむの出処の続きです。
『救済論序説』(稲城選恵師)からの後半部分です。

 次にたすけたまへの用語を『御文章』にはしばしば出されているが、既述の如くこの言葉がご再興の用語となっている。蓮如上人はこの用語は既述の如く、法然上人や劉寛律師によられてはいないようである。
(中略)
 しかればこのたすけたまへの用語は蓮師は何れによられたものであろうか。
(中略)
 蓮如上人の『御文章』に最も影響を与えたのはこの(浄土宗一条流の)『三部仮名鈔』といわれる。
 「たすけたまへ」もまさしくこの『三部仮名鈔』をうけたものといわれる。
(中略)
(蓮如上人は)この一条流のたすけたまへをそのまま(用語はそのまま、意味は逆に)用いて浄土真宗義とされたのである。というのは『御文章』の上ではたすけたまへを帰命の和訓とされている。八十通の『御文章』の中で、帰命の和訓には三つある。即ち「たのむ」「たすけたまへとたのむ」「たすけたまへ」である。たすけたまへを帰命の和訓とされているのは五の十三通―無上甚深の章―には

「それ帰命といふはすなはちたすけたまへとまうすこゝろなり」

とあり、『帖外』一三一通にも

「また帰命といふはたすけたまへと申すこゝろなり」

とある。更に「たすけたまへとたのむ」は四の十四通には

「帰命といふは衆生の阿弥陀仏後生たすけたまへとたのみたてまつるこゝろなり」

とある。それ故、たのむたすけたまへも全く同義である。等しく帰命の和訓である。帰命は宗祖の上では「本願招喚の勅命」もあるが、蓮師の上では『尊号真像銘文』にあるがごとく

「帰命とまふすは如来の勅命にしたがひたてまつるなり」

とある信順勅命の義である。
 しかるに一つのたすけたまへ請求にも信順にも用いられることは、この私が先行するとたすけたまへは、まさしく請求の義となり、逆に仏のたすけたもう法が先行すると無疑信順の義となり、宗祖の帰命の義となるのである。この転換に注意すべきである。特に「たすけたまへとたのむ」の「と」の一字は現代でも用いられている「二度と再び」の「と」といわれ、前句と後句との同一なることを意味するものといわれる。それ故、「たのむ」「たすけたまへ」も等しく帰命の和訓になっているのである。しかも特に注意すべきはたすけはたへはこの私が先行すると鎮西義の如く請求となり、逆にこの私が後手になるとたのむと同義になるのである。ここに真宗教義の根本義を明らかにされたのである。

〔訂正記録〕
H22.2.2
 『三経仮名鈔』⇒『三部仮名鈔』
 ※本文訂正済みです。

タグ : 稲城選恵 タノムタスケタマヘ

2010/01/06(水)
タノムタスケタマヘ」について書いていますが、今日は稲城師の文を引きます。
非常に大切です。

『救済論序説』(稲城選恵師)より 長いのでまず前半を書きます

「たすけたまへとたのむ」の用語は『御文章』にはしばしば出されているが、この言葉は『御一代記聞書』一八八条には
「聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。ゆゑに、たのむといふことをば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとたのめといふことをしらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、御文を御作り候ひて、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせら れ候ふ。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。 」(真聖全 歴代部五七七頁)
とあり、この言葉がご再興の言葉といわれ、『御文章』を一貫して最も重要であることが知られる。しかし御再興は多くの人は本願寺教団の再興の如く思われるが、蓮如上人までは本願寺よりも他派の仏光寺や高田派が勢力があったといわれ、教団の復興が再興ではない。宗祖聖人の教義、浄土真宗の教義を一言にしてつくされた言葉といわれるのである。しかし江戸時代に至り、この「たすけたまへとたのむ」の誤解により、本願寺未曾有の法難が生じたのである。即ち本如宗主の時の三業惑乱である。それ故、この言葉が何故、御再興の言葉といわれるかを明らかにしなければならない。まずたすけたまへの出処を求めると、現代までの多くの学者は法然上人の『黒谷上人法語』―二枚起請―に
「……阿弥陀仏の悲願をあふぎ、他力をたおみて名号をはばかりなく唱べきなり。これを本願をたのむ…憑…とはいふなり。すべて仏たすけたまへと思て名号をとなふるに過たることはなきなり……」(真聖全 拾遺部上四五頁)
とあり、更に法然上人の門弟、隆寛律師の『後世物語聞書』にも
「……たとひ欲もおこりはらもたつとも、しづめがたくしのびがたくは、ただ仏たすけたまへとおもへば、かならず弥陀の大慈悲にてたすけたまふこと、本願力なるゆゑ……」
とある。これらの文を文証として出されている。たのむも既述の『二枚起請』には
「阿弥陀仏の悲願をあふぎ、他力をたのみて名号をはばかりなく唱ふべきなり。これを本願を憑とはいふなり……」
とあり、たのむは法然上人も随所にいわれているが、『和語燈録』巻二にも
「……他力といふは、ただ仏のちからをたのみたてまつりるなり。……」(真聖全 拾遺部上六二二頁)
とある。親鸞聖人もしばしば『教行信証』、その他、和語の聖教にも出されている。
まず『教行信証』の上でみると、
①行巻の六字釈 帰命の帰説の左訓に「ヨリタノムナリ」とある。
②行巻、行信利益の文 「仰いで憑むべし……」
③行巻 元照律師の引文「須憑他力」
④信巻末『涅槃経』引文の結尾「難化の三機、難治の三病者憑大悲の弘誓……」
とあり、たのむは憑の字を多く用いられている。更に和語の聖教にみしばしば用いられ、今、二、三の文を出すと、
①高僧和讃曇鸞讃 「本願力をたのみつゝ」
②正像末和讃誡疑讃 「善本徳本たのむひと」
③正像末和讃誡疑讃 「仏智の不思議をたのむべし」
④一念多念証文 「自力といふはわがみをたのみ」
⑤唯信鈔文意 「本願他力をたのみて」
⑥末灯鈔 「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」
 これらの宗祖の用いられているたのむは現今用いられているような「お願いする」という意味は全くみられない。所謂あてにすることを意味する。但し「行巻」の帰のたにむの和訓は帰の字義は「説文」には女嫁なりとあり、女性が一度嫁入りすると、もう二度とわが家に帰ることの出来得ないことを意味する。仰せから逃げることの出来得ない身になる、悦服することをいう。いずれにしても宗祖の上では現在用いられているようなお願いするという意味は全くない。
 次に蓮如上人の上でたのむの意をみると、六字釈の南无、帰命の和訓とされる。『御文章』五の九にも
「……これによりて、南無とたのむ衆生を阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆゑに……」(真聖全 歴代部五〇六頁)
とある、南无はたのむであり、更に帰命の和訓である。しかし、たのむの意は六字釈の場合と別義のものもある。蓮如上人の時代のたのむは現在用いられているような「お願いする」という請求の意味には用いられていない。恐らく現代用いられている請求の義は江戸時代からではなかろうか。蓮如上人の教学に最も関係の深い浄土宗一条流の『三部仮名鈔』にもしばしばたのむは用いられているが一度として現代用いられているような請求の義はない。すべてアテニスルの意である。この意味が当時の一般に用いられていたものと思われる。それ故、蓮如上人の『御文章』八十通にも五ヶ所ほど、あてにする意で用いられている。
①一の四「……かるがゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし」(御消息・一意)といへり。」
②一の十一「……まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。」
③二の三「末代われらごときの在家止住の身は、聖道諸宗の教におよばねば、それをわがたのまず信ぜぬばかりなり。 」
④二の七「……それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。……」
⑤二の九「……このゆゑに人間においても、まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。……」
とあり、この五通の内容をみると、現代用いているようなお願いするという義とは異なる。
 それ故、たのむの当時の意はアテニスルという意味であり、請求の義は全く存しない。既述の如く『御文章』に最も関係の深い一条流の『三部仮名鈔』にも一ヶ所としてたのむを請求の義には用いていない。更にたのむをアテニスルという意味も「一心に弥陀をたのむ」という場合はその意を異にする。というのは弥陀の法は未現前の彼方におかれているものでないからである。古来より先哲は現前の仏勅という言葉を用いられている。それ故、たのむは憑託の義である。このたのむの語義は「岩波」『古語辞典』によると―七九六頁―第一に次の如くある。
「全面的に信頼して相手の意のまゝにまかせる……」
とある。

引用はここまで。

更にたのむをアテニスルという意味も「一心に弥陀をたのむ」という場合はその意を異にする。というのは弥陀の法は未現前の彼方におかれているものでないからである。古来より先哲は現前の仏勅という言葉を用いられている。それ故、たのむは憑託の義である。
というところが大切です。

タグ : 稲城選恵 タノムタスケタマヘ

2009/12/18(金)
第十八願第十九願第二十願生因三願といいます。
親鸞会では、この三願を1セットのものと考え、三願転入の文とあわせ、「善をしなければ、信仰は進みませんよ」と言っています。
 参照:教学聖典⑺ (22)~(26)

しかし、親鸞聖人はこの三願は1セットのものではなく、別個のものと教えられています。
なぜ、このような誤りが生じたのでしょうか。

親鸞聖人が明らかにされた六三法門(六三分別)で、三願は浄土三部経にそれぞれ対応します。
 第十八願ー大経
 第十九願ー観経
 第二十願ー小経
この浄土三部経の関係をあらわす見方に三経一致門三経差別門があります。
『教行信証』に説かれている三願真仮の教え=六三法門は、このうち「三経差別門」に立ってのものなのですが、親鸞会が三願の説明をする時に「三経一致門」に立って話すのです。
三経差別門」に立って書かれた『教行信証』の話をする時に、「三経一致門」に立って話すということです。
たとえば『浄土和讃』の「三経和讃」は「三経一致門」の立場で書かれていますが、親鸞会ではよく『教行信証』と『和讃』を同時に話します。すると混乱が生じます。
(もちろん、丁寧に話せばいいのですが・・・)

つまり親鸞会では「三経一致門」と「三経差別門」とを混ぜて話していることになります。

別の見方をすると、浄土三部経の内『観経』と『小経』には隠顕がありますが、それをあたかも第十九願第二十願に隠顕があるかのように説いているのです。

ここに混乱の一因があると思っております。

以下、『聖典セミナー 浄土三部経Ⅰ 無量寿経』(稲城選恵著)より、「三経一致門」「三経差別門」の説明をしてあるところを引きます。
・『口伝鈔』の文は加え、「化身土巻」の文を少し足しました。
・また、強調は私が加えております。

『大経』と『観経』・『小経』の関係
 浄土三部経は『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』をいいますが、この三部経は全く別個なものでなく、深い関係をもっています。いずれも阿弥陀仏の徳を中心に説かれた経典であるからです。
 この三経の関係は、親鸞聖人によると二つの見方があります。一つは、三経のすべてが一つのことを説かれたものとみるのであります。その場合は、『大経』が中心であります。このような見方を三経一致門といわれています。二つには、三経ともに別の義をあらわすという三経差別門の見方です。特にこの三経差別門の見方は、親鸞聖人の見方の特色ともいわれます。

 まず、三経一致門をみますと、この中にも三つの面からいわれるのであります。

 第一に、『大経』は法の真実をあらわし、『観経』は機の真実をあらわし、『小経』は機法合説証誠を説かれたと経典とみるのであります。このような解釈は、七高僧の上でも道綽禅師の『安楽集』の第三大門の上に出されています。また親鸞聖人も『教行信証』にはじめの総序の文意に出されています。具体的には、覚如上人の『口伝鈔』に出ているのであります。
〈参照〉
 いはゆる三経の説時をいふに、『大無量寿経』は、法の真実なるところを説きあらはして対機はみな権機なり。『観無量寿経』は、機の真実なるところをあらはせり、これすなはち実機なり。いはゆる五障の女人韋提をもつて対機として、とほく末世の女人・悪人にひとしむるなり。『小阿弥陀経』は、さきの機法の真実をあらはす二経を合説して、「不可以少善根福徳因縁得生彼国」と等説ける。無上大利の名願を、一日七日の執持名号に結びとどめて、ここを証誠する諸仏の実語を顕説せり。(『註釈版聖典』900頁
 このような一致門を、相成門の一致と先哲はいっています。
 これを喩によって具体的に申しますと、『大経』の法の真実とは薬のようなものであります。『大経』は本願を説かれた経典です。この本願を親鸞聖人は、『教行信証』「信の巻」の末に、「本願醍醐の妙薬を執持すべきなり」(『註釈版聖典』296頁)と、薬にたとえられています。薬は病気を離れては考えられません。
 この病気に内容を説かれたものが、次の『観経』であります。病気はもちろん私のことです。『教行信証』の総序には、
しかればすなはち浄邦縁熟して、調達(提婆達多)、闍世(阿闍世)をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまへり。これすなはち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す。 (『註釈版聖典』131頁
とあります。これによると、『観経』の序文に出されている阿闍世、韋提希の家庭的悲劇、さらにこれによる人間苦の具体的内容を示されてるのは、貪瞋具足の凡夫の内容をこの私にレントゲンをかけてみせてくれるということになります。親鸞聖人は『観経』の中で、特に序分に注意されており、『観経讃』9首の中でも8首までが序分によっておられます。それゆえ『観経』は、機の真実を説かれた経典といわれるのです。本願の救いの相手は、貪瞋具足の凡夫のほかにはあり得ないことをいっているのであります。
 次に『小経』は、薬と病気に対して医者をあらわしているといわれます。医者は患者の病気を正しく診察して、病気の治る薬を患者にすすめる役目をいたします。もし病名を間違えたり、薬を誤ると、病を治することはできません。私の病気を正しく診察し、この病気の治る薬をすすめ、そのすすめられた薬をのむことによって病気を治することができるのです。それゆえ、機法合説証誠といわれ、『小経』に六方恒沙の諸仏ー異訳の『称讃浄土経』では十方となっているーが口をそろえて念仏往生の法をこの私にすすめておられるから、医者にたとえられるのであります。
 このように、三経がそれぞれ異なった立場でありながら相依って成立している見方を、相成門の一致といわれるのであります。

 第二に、三経を一言にしてつくすと、このことのほかにはないといわれる一致門の解釈もあります。先ほどの相成門の喩にある薬と病と医者が間違いなくそろっていても、患者の私がのまなければ病を治すことはできません。のむということが私にとっては最も重要なことであります。このような意味で、親鸞聖人は「化身土の巻」に、
 ここをもつて四依弘経の大士、三朝浄土の宗師、真宗念仏を開きて、濁世の邪偽を導く。三経の大綱、顕彰隠密の義ありといへども、信心を彰して能入とす。ゆゑに経のはじめに「如是」と称す。「如是」の義はすなはちよく信ずる相なり。いま三経を案ずるに、みなもつて金剛の真心を最要とせり。(『註釈版聖典』398頁
と、信心を除くと三経は成立しないといわれるのです。
 また、いかに薬をのんでも、間違ったものであれば病気は治らないものであります。それゆえ、薬の側からいうと、曇鸞大師は三経の体は名号であるといわれ、法然聖人は『選択集』に「三経ともに念仏を選びもつて宗致となすのみ」(『註釈版聖典七祖篇』1285頁)とあらわされています。
また親鸞聖人も「化身土の巻」に、
ここをもつて三経の真実は、選択本願を宗とするなり。(『註釈版聖典』392頁
といわれ、名号、本願、念仏、信心に帰することができるのであります。このような名号、本願、念仏、信心は別個のものではなく、一つのものの異名であります。一女性であっても、夫からいえば妻であり、子供からいえば母であり、親からいうと娘というようなものです。
 このような一致門は、三経ともに第十八願の内容を説くことにあり、余行を説くことは廃せんがためであるから、『大経』の真実に一致せしめる廃立門の一致といわれるのであります。

 第三は、三経にはひとしく浄土の徳や阿弥陀仏の徳を述べていますから、このような面の上で正覚門の一致をいわれます。このことは、曇鸞大師の『往生論註』のはじめの『浄土論』の題号の釈に、
釈迦牟尼仏、王舎城および舎衛国にましまして、大衆のなかにして無量寿仏の荘厳功徳を説きたまふ。すなはち仏の名号をもつて経の体とす。(『註釈版聖典』155頁
とあり、この「無量寿仏の荘厳功徳を説きたまふ」といわれるのは、浄土の依正二報のことであります。「王舎城および舎衛国にましまして」とあるのは、王舎城は『大経』と『観経』のことをあらわし、舎衛国は『小経』を意味するのです。このような一致を、正覚門の一致といわれています。

 次に三経差別門の面からみる見方が存するのであります。この見方は、親鸞聖人の独特の見方といわれています。しかしこれは、親鸞聖人が尊敬された隆寛律師の影響によるものともいわれています。
 まず、『大経』は第十八願を開説されたものであり、『観経』は第十九願、『小経』は第二十願を開説された経典とみるのです。それゆえ、『観経』や『小経』には両面が存することになります。すなわち顕説の表の上では、『観経』は第十九願、『小経』は第二十願の内容を述べられ、隠彰の裏では、『観経』・『小経』ともに第十八願の意を述べられているものとするのであります。このように、三経を第十八、第十九、第二十の三願にあててみる見方を、三経差別門といわれるのであります。『教行信証』一部六巻の構造や『浄土三経往生文類』等は、まさしくこのような立場となっているのです。
(中略)
 ここに第十八願第十九願第二十願にともに往生の因を出されていても、全く質的に異なる自力と他力の相違があるのであります。
(中略)
このような第十九願、第二十願の両願も、仏の深意の上からは第十八願の真実に誘引せんがためでありますから、方便の願といわれるのであります。
 このように三経を第十八願、第十九願、第二十願の三願にあててみる見方を、三経差別門といわれるのであります。

タグ : 稲城選恵 第十八願 第十九願 第二十願 生因三願 三経一致門 三経差別門 浄土三部経

2009/12/15(火)
『如来をきく』稲城選恵師の話より

 蓮如さんはね、もう徹頭徹尾けんかは嫌ったんです。ですから、もし蓮如上人がおいでになっていたら、石山戦争は絶対無かったそうです。賢い方ですからね。これは京都大学の赤松という先生がね、歴史の先生が言うてましたね。蓮如上人がおいでじゃったら、絶対に石山戦争は無かったと言うてました。もうどんな理由があろうと、戦争や争いは避ける、避けた御方ですから。これだけ、争いを嫌った方はおらんじゃろう。ですから、他宗・他人に対してもね「路地・大道・関渡り・船中で、はばかり無く仏法を讃嘆してはいけない。」と言われています。こういうことを言うたり、沙汰したりすると、争いの本・争いの種になるからです。反対派がどんな事言うか分からんからです。


 親鸞学徒はこの詩(頼山陽の「抜き難し 南無六字の城」の漢詩)を覚え、縁ある時に吟じ、この史実を人に語れば、尊い仏縁になることだろう。(親鸞会顕正新聞平成21年12月1日号 11面)
 などと石山戦争を賛美している人達がいますが、どうでしょうかねぇ。

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