但し、原文は真宗聖典註釈版によります。
思案の頂上と申すべきは、弥陀如来の五劫思惟の本願にすぎたることはなし。この御思案の道理に同心せば、仏に成るべし。同心とて別になし。機法一体の道理なりと[云々]。
(註釈版聖典1311頁)
【意訳】
「思案の最上」というのは阿弥陀如来が我等をたすけるために五劫思惟の本願にすぎたものはない。この御思案の道理に同心すれば仏になるのである。同心というても別にあるのではない。機法一体の道理――すなわち、五劫思惟の本願というもただわれらをたすけ給うためである。弥陀をたのむ一念のときそのたのむ衆生の機と阿弥陀仏の法とが一体になる。その機法一体の道理を聞信することである。
【解説】
仏の思惟をさしのけて、自分のはからいを容れる余地はない。五劫に思惟された本願の名号を信受(まうけ)するのである。名号は機法一体である。南無というたすかる信心と阿弥陀仏というたすける法体(おみのり)と互具互成する名号を信受する、これが仏智におまかせする同心である。
-----ここまでが引用
【私の補足】
上の意訳中「弥陀をたのむ一念のときそのたのむ衆生の機と阿弥陀仏の法とが一体になる」のところは注意して読む必要があります。
『やさしい 安心論題 ⑿「機法一体」』や上の解説を読めば分かりますように、「たのむ衆生の機」というのは私がおこした心ではありません。機法ともに南無阿弥陀仏なのです。
但し、原文は真宗聖典註釈版によります。
聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。ゆゑに、たのむといふことをば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとたのめといふことをしらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、御文を御作り候ひて、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせら れ候ふ。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。
(註釈版聖典1290頁)
【意訳】
親鸞聖人の御一流は弥陀をたのむ一念の信心が大切な要点である。この故に、たのむということをば宗祖已来代々の善知識が仰せ遊ばしたのであったが、たのむとはどんな風にたのむかということを、一般の人々はくわしく知らなかったのである。それを蓮如上人の御世代に御文章をおつくりなされて、雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめと、あきらに御しらせくだされた。してみれば、蓮如上人は一宗を御再興になった上人であらせられる。
【解説】
真宗の根本要義は唯信の救いである。そこで「聖人の御流はたのむ一念のところ肝要なり」とのべられたのである。この「たのむ」ということは、一般に使われた大衆の言葉であるだけ、平易ではあるが、諸種の意味に解釈されるおそれもある。そこで蓮如上人はたのむ一念の信相をくわしく示して「雑行をすてて後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」と教示された。雑行をすてて正行に帰する廃立を基底とし、正行は南無阿弥陀仏であって、南無とたのめば阿弥陀仏のおたすけぞと聞きひらいたのが正行に帰するすがたである。適確に一宗の肝要をわかりやすく普及せしめられたので、真宗は繁昌した。御再興の上人として崇敬される所以である。
-----ここまでが引用
【私の補足】
たぶんこれでも現代人には分かりにくいのではないかと思います。
上の解説の中で、大事なのは「南無とたのめば阿弥陀仏のおたすけぞと聞きひらいたのが正行に帰するすがたである」というところですが、ここを間違えないようにしなければなりません。
南無は私が作った心ではありません。
ここのところをもう少し考えてみたいと思います。
引用:蓮如上人聞書新釋(梅原眞隆著 本願寺 ISBN4-89416-438-8)
但し、原文は真宗聖典註釈版によります。
(176)
蓮如上人仰せられ候ふ。方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふと[云々]。
(註釈版聖典 1286頁)
【意訳】
蓮如上人は仰せられた。
世間では嘘も方便などといいふらすところから、方便を悪いことのようにおもいなすものもあるが、かかる間違いはあってならないことである。
方便には権仮方便もあり善巧方便もある。
まず、権仮方便ということについていえば、方便という権仮(かりもの)を設けて真実を顕す手段にする、さらに真実を顕したなら、方便を廃して真実を立てることであるが、ここに方便の値打ちがあるので、方便は悪いとおもうてはならないのである。
次に善巧方便ということに、ついていえば弥陀釈迦二尊はいうまでもなく、次第相承の善知識がいろいろと善い巧みなお手廻しをなされて、私どもをみちびき、真実の信心を獲得させてくださるのである。
【解説】
つねに仰せられる方便ということについて世俗の曲解を是正して、方便の正しい意識と価値を示されてある。
そして方便を権仮方便と善巧方便のふたつの立場から解釈なされてある。
「方便をもつて真実をあらはす廃立の義」とあるは権仮方便の意味であり、
「弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうる」とあるは善巧方便の義意である。
【私の補足】
方便については、これまでも述べております。
1→ここ 「観無量寿経 覚書 その7」
2→ここ 「方便」
また、註釈版聖典の補註15も参照して下さい。
引用:蓮如上人聞書新釋(梅原眞隆著 本願寺 ISBN4-89416-438-8)
但し、原文は真宗聖典註釈版によります。
(234)
他宗には法にあひたるを宿縁といふ。当流には信をとることを宿善といふ。信心をうること肝要なり。さればこの御をしへには群機をもらさぬゆゑに、弥陀の教をば弘教ともいふなり。
(註釈版聖典 1308頁)
【意訳】
他宗では法に遇うことは宿世の縁によるというているが、真宗では単に法に遇うというだけでなく、この法をいただいて信心を得ることを、仏の光明に培われて宿善開発するというのである。宿縁というも宿善というも信心を獲得することに結びついて始めて意味をもつのである。そこで、この真実の教法では善人も悪人も、聖者も凡夫も、あらゆる機類をもらさないで悉く信心を獲得させるように、仏の光明によって宿善を開発せしめてくださるところから、弘教すなわち広弘の救いを説く教えともいうのである。
【解説】
この一条は宿縁と宿善とを区別したのでない。これは同じ意味に使われてある。ここでは他宗と真宗との宿縁即ち原因の味わい方の浅深を識別されたのである。「他宗には法にあひたるを宿縁といふ」は浅い味わい方をのべ、当流には「信をとることを宿善といふ」は深い味わい方をのべられたのである。
さらに、真宗の広弘の救いは仏力が宿善を培うことまでを包含していることを示して、「群機」のすべてに信心を開発せしむる根底には、宿善を順熟せしめる仏の光明のおはたらきをさとされたのである。
【私の補足】
・以上のように、宿善の説明(味わいの表現方法)も文脈によって異なることがあります。
・基本的に真宗で宿善という言葉が使われる場合は、2つあると思います。
①聞法心の意味
つまり、「宿善がある」とは仏法を聞く気持ちがあるということ。
②信心獲得までを含めた阿弥陀仏のはたらきの意味
(こちらが真宗における本来の意味)
つまり、「宿善がある」とは信心獲得したということ。
・対機として、他宗が使うような浅い味わいで書かれる場合もあるかもしれませんが、それでも阿弥陀仏のはたらきであることを抜かすと間違いとなります。
・本来の意味では、宿善があるとかないとか、厚いとか薄いとか、我々に分かるものでありません。
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引用:蓮如上人聞書新釋(梅原眞隆著 本願寺 ISBN4-89416-438-8)
但し、原文は真宗聖典註釈版によります。
(233)
蓮如上人仰せられ候ふ。宿善めでたしといふはわろし。御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふよし仰せられ候ふ。
(註釈版聖典 1307-1308頁)
【意訳】
蓮如上人が仰せられた。
「世人は多く宿善をつんでいたことはめでたいというているが、これは悪い。わが真宗においては、宿善のおかげである、ありがたいことであると申すが善い」
と仰せられた。
【解説】
宿善の順熟によってここに信心をよろこぶことができるのである。
ところで、その宿善は自力の累積したものと心得ている人々は、自分の過去を是認して「めでたし」と自負するが、真宗においては他力の善巧方便のおかげで宿善が順熟するのであるから「ありがたし」と感佩すべきである。
宿善の有無ということを重視せられた蓮如上人は、さらにその宿善の味わい方を諭示されたのである。
【私の補足】
・善巧方便の意味については、これまで2回説明しておりますので、ご覧下さい。
上にも「他力の善巧方便」と書かれていますように、善巧方便は真実そのものです。
「真実と方便」とペアで語られる時の方便は権仮方便であり、善巧方便ではありません。