21世紀の浄土真宗を考える会2009年02月

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2009/02/12(木)
少し前になりますが、劇団四季の「ウィキッド」を見てきました。
生のミュージカルを見たのは中学校の修学旅行以来ですから、約30年ぶりとなります。

ちなみにその時は、天地真理主演の「君よ知るや南の国」でした。
「君よ知るや南の国」はゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代(岩波文庫では徒弟時代)』に出てくるミニヨンの話で、森鴎外訳の「ミニヨンの歌 ギヨウテ」"Liedern Mignons"が有名ですね。
原文は"Kennst du das Land, wo die Zitronen bluhn"「知っていますか、レモンの花咲く国を」です。
この詩には、多くの音楽家達が曲を作っています。
天地真理を見ていると…
おっと、横道にそれるのはやめましょう。

劇団四季のミュージカルや劇に対しては人によって好みもあるでしょうが、私はこのミュージカル「ウィキッド」を見て素直に感動しました。
どういうものかは実際にご覧にならなければ分かりませんし、是非一度見られたら良いかと思います。(私は劇団四季のまわし者ではありません)
あらすじは、劇団四季のHPからは転載不可ですので、個人的にHPを作っておられる方のサイトの記事をお借りしました。文章量の関係上、少し短くしてあります。

引用元:http://ウィキッド.com/cat/
「ウィキッド(劇団四季ミュージカル)を120%楽しもう!」より

【あらすじ】
ミュージカル「ウィキッド」は、童話「オズの魔法使い」シリーズ(ラマン・フランク・ボーム作)に想を得て執筆された「オズの魔女記」(グレゴリー・マグワイア作)を原作としています。
「ウィキッド」の物語の舞台は、「オズの魔法使い」の国。
「オズの魔法使い」のドロシーが「オズの国」に迷い込むずっと前に起こった、二人の魔女の出会いの物語です。一人は、緑の肌を持つ賢く信念の強い女性エルファバが「西の悪い魔女」。もう一人、美しく、野心家で人気者のグリンダが「善い魔女」になるまでの数奇な運命をドラマティックに描いています。
オズの国にあるシズ大学に、緑色の肌をしたエルファバという少女が、入学してきます。一方、美しく同級生からも人気者のグリンダもシズ大学に入学し、ひょんなことからエルファバと宿舎が同室に。
でも、まったく性格の違う二人は衝突してばかりで、お互いに嫌悪感を抱いていました。
ある事件がきっかけで、ふたりは、急速に心を通わせ合うようになり、二人だけの秘密を打ち明けあうような仲になるのです。
ある日、エルファバのよき理解者だったヤギのディラモンド教授が追放されるという事件が起こります。
オズの国では、動物たちも自由に言葉を話せましたが、何者かの陰謀で、動物たちの自由[=言葉]が奪われ始めていたのです
そんな折、オズの魔法使いがエルファバに会ってくれることになりました。
エルファバは、グリンダと共にオズの魔法使いのいるエメラルドシティに向かいます。
オズの魔法使いなら、動物たちから自由[=言葉]を奪う陰謀をどうにかしてくれると信じて・・・。
ところが、オズの魔法使いは魔法の力をまったく持たないただの人間でした。
魔法の書を持っているにもかかわらず、その文字を読むことすらできません。
魔法の力を持っているという噂のあったエルファバを利用しようとして呼びつけたのです。
しかも、力[=言葉]を奪っていたのは、ほかならぬオズの魔法使いでした。
[あのヤギのディラモンド教授も言葉を奪われてしまっていました
それを知ったエルファバは、魔法の書を手に逃亡します。
オズの魔法使いは、そんなエルファバを裏切り者として「悪い魔女」というレッテルを貼り、国民の敵として仕立てあげるのでした。
グリンダは、エルファバの逃亡に手を貸しますが、自分はオズの魔法使いのもとに残ることを決めます。
そしてオズの国で、グリンダは、「善い魔女」として国民をまとめる役を、エルファバは「悪い西の魔女」として逃亡を続けていくのでした。
なんとかエルファバをおびき寄せて捕まえたいオズの魔法使いは、グリンダのアイデアでエルファバの妹のネッサローズを使うことにしたのでした。
ネッサローズは、竜巻の事故によって命を奪われ、それを知ったエルファバがやってきます。
足の悪いネッサローズのためにエルファバが履かせてやった魔法の靴を、見知らぬ少女(ドロシー)が履いているのを見て、エルファバは激怒します。
そして、オズの魔法使いの手下に捕まり、絶体絶命に。
しかし、恋人のフィエロが身を挺してエルファバを逃がすのでした。
そのかわり、磔にされてしまうフィエロ・・・。
エルファバは、なんとかしてフィエロの命を救おうとして魔法の書をめくり、呪文を唱えます。
(・・・・この先のストーリーは、ぜひ劇場に足を運んでご覧になってくださいね!)
[ ]内は引用者が追加

言葉って大事ですよね。

同じく言葉について例によって笠木透さんが以前このように言っておられました。

日本には差別用語と言われるものがある。私は放送の仕事をしているが、放送でそんなことを言うと、えらい勢いで抗議の電話がかかってくる。だが私は言葉は状態を表しているのであって、言葉自体が差別ではないと思っている。片手落ちと言っても差別ではない。そういう心情で言った時、差別用語になる。だけどその都度その人の心理状態を調べるのはたいへんだから、差別用語を使わなければ差別はないものとしてしまった。だから差別用語さえ使わなければ、自らの中にある差別意識に目をつぶることができる。でも差別が無くなったわけではない。差別がある限り、どんな言葉でも差別語になりうるし、差別は生れる。
私はお互いに悪口を言える関係まで行きたいんです。それが言えて初めて差別が乗り越えられると思っている。悪口が言えるのは、人間としての関係があるから言えるのであって、脇で見ている人が、問題だというのはおかしい。言葉は難しいと思う。その人の生き方や考え方や思想や感情まで含めてその言葉を判断しなければ、本当のことは分からない。
しかし、言葉があるからこそ、我々は共通の問題を語ることができるし、人間の未来のことも語ることができる。言葉がなければこれはとても難しいことだ。文化のルーツは言葉だし、言葉がなければ文化は生れない。

その言葉を禁止したのが私たちです。1910年に日韓併合した。併合というのは言葉のあやで植民地にした。その植民地政策の一つとして最もひどいことをしたと思うのは、朝鮮語を禁止したことだ。そして名前も日本名に変えさせた。民族の原点であり、文化の源である言葉を禁止したのは、おそらく日本だけでしょう。白人も他国を植民地にしたし、白人の言葉を覚えなさいとは言ったが、その国の言葉を禁止はしなかった。そのことを、小学生や中学生は、日本がした歴史上の一番の悪行を認識しているだろうか。言葉を奪われたらどういうことになるかを想像してごらんなさいという歌を作りました。

♪『言葉』

詩  笠木透
曲  上田達生
演奏 増田康記、安達元彦

君は言葉を奪われたことがあるか
言葉を奪われた悲しさを思ったことがあるか
どんな時代でもどこの国でも
人々はその国の言葉でそれぞれの思いを表現してきた
それが生きるということだった
言葉を奪われた時、その哀切はどれほどのものだったのだろう
かつてこの国はあなたの国に何をしたのか
過去を変えることができないとしたら
今、私たちにできることは何だろう

・・・・・・・・・・・・・・

日本の権力者たちはすごいことをやったと思います。言葉を禁止した。小学校、中学校の校長は日本人だったが、教師は朝鮮人だった。歌も文部省唱歌を押し付けられていた。だから、70代以上の朝鮮人はたいてい日本語がしゃべれるし、歌も歌える。強制されたわけです。しかし、朝鮮の文化は朝鮮語でしか伝わらない。心ある人たちは何とか朝鮮語を守ろうとした。もし子どもたちが言葉を忘れていったら、伝統的な朝鮮文化が死んでしまう、民族としての一体感や自らのアイデンティティーや人間の誇りを失ってしまうという危機感を持った作曲家や作詞家たちは、ひそかに、禁止されていた朝鮮語で新しい歌を作り始めていく。まさに文化の闘いです。
ガリ版で刷ったハングルの譜面と歌詞を、現場の教師に手紙で送った。教師たちは、音楽の時間では歌えないので、ひそかに新しい朝鮮の歌を子どもたちに教えていった。子どもたちは覚えて家に帰り、親たちに教えた。そして日本の統治者たちが知らないうちに、反日の歌が全土に広がっていった。
見つかれば牢屋に放り込まれる時代に、命をかけて子どもたちに、ハングルの歌を教え続けた教師たちがいた。言葉というものはすごいなあと改めて思い、言葉を教えるというのは文化なんだと思った。そこには、子どもたちに言葉を手渡していくという最もすばらしい教師らしい姿があると思った。ふりかえって、自分たち日本人は、言葉にそれほど真剣に向き合ったことがあるだろうかと教えられた。
韓国に行くといつも、かつて悪いことをした日本人の一人として後ろめたい気持がする。沖縄に行ってもそう思う。
1910年の日韓併合の後、言論と集会の自由を徹底的に奪われながらも、1919年3月1日に独立運動が始る。日本の教科書には「万歳事件」と書いてある。それを用意したのは日本に留学していた朝鮮人で、独立宣言文を書いて準備し、パゴタ公園でそれを読んでデモをした。このデモが全くの非暴力だった。反日の言葉は一切言わず、「マンセーイ」(バンザイ)とだけ言って歩いた。それでもじゅうぶん皆の心を打った。叫ぶような、泣くような、むせぶようなこの声は「独立万歳」と聞こえる。人間はそういう想像力、感性を持っているはずだ。
一方、1910年日韓併合の時、日本人は日比谷公園あたりをちょうちん行列をして「バンザーイ」といって行進した。その言葉の中に含まれた「日本は領土が増えて一等国になった」というような傲慢さやむなしさ、その二つの言葉に秘められた言葉の響きの違いが聞き分けられるか。
「マンセーイ」という言葉の響きの中に、人間の悲しさや、独立への思いや、人間としての叫びを聞き取ることができるはずだ。それが音楽の原点だとぼくは思う。解説してもらったから分かるというレベルでは困る。「マンセーイ」という言葉の響きから感じ取れる感性と想像力が人間にはあるはずだ。それがすり切れているとしたら、人間としてもういっぺん勉強してほしいと言いたい。

引用元:http://medakadaigaku.hp.infoseek.co.jp/600s/071021kasagirepo.pdf
(アクロバット・リーダーが必要です)
第6回寺子屋・笠木透コンサート(2007,10,21)より

※なお、このブログは政治的なものではありません。
※文中の強調はすべて引用者によるものです。

さて、二つの文章を引用しましたが、私の意図を汲み取っていただけましたでしょうか。
真実を言葉にすることは不可能です。
自分の心を言葉にすることは簡単ではありません。
でも蓮如上人がいくたびも「ものを言え ものを言え」とおっしゃっていますように、人に教えを伝える人にとってだけではなく、弥陀の救いを求める人にとって思っていることを「言葉」に出すこと、心を打ち出すことがいかに大事かを知ってもらいたかったのです。
逆にそれができなければ、止まってしまう危険性があるのです。

(条件をつけているわけではないですよ)

最後に既にご存知の御文でしょうが、蓮如上人のお言葉をあげておきます。

・蓮如上人、仰せられ候う。「物をいえいえ」と、仰せられ候う。「物をいわぬ者は、おそろしき」と、仰せられ候う。「信不信、ともに、ただ、物をいえ」と、仰せられ候う。「物を申せば、心底もきこえ、又、人にもなおさるるなり。ただ、物を申せ」と、仰せられ候う由候う。(蓮如上人御一代記聞書 87)

・前住上人、先年、大永三、蓮如上人二十五年之三月始此、御夢御覧候う。御堂上f壇南の方に、前々住上人、御座候いて、紫の御小袖をめされ候う。前住上人へ対しまいらせられ、仰せられ候う。「仏法は、讃嘆・談合にきわまる。能々讃嘆すべき」由、仰せられ候う。「誠に、夢想とも云うべきことなり」と、仰せられ候いき。然れば、その年、「ことに讃嘆を肝要」と、仰せられ候う。それに付きて仰せられ候う。「仏法は、一人居て悦ぶ法なり。一人居てさえ、とうときに、二人よりあわば、いかほどありがたかるべき。仏法をば、ただ、より合い、より合い、談合申せ」の由、仰せられ候うなり。(蓮如上人御一代記聞書 201)

・「仏法談合のとき物を申さぬは、信のなきゆえなり。わが心にたくみ案じて申すべきように思えり。よそなる物をたずねいだすようなり。心にうれしきことは、その儘なるものなり。寒なれば寒、熱なれば熱と、そのまま心の通りをいうなり。仏法の座敷にて物を申さぬことは、不信の色なり。又、油断ということも、信のうえのことなるべし。細々同行により合い、讃嘆申さば、油断あるまじき」の由に候う。(蓮如上人御一代記聞書 203)

・蓮如上人、仰せられ候う。「世間・仏法、ともに、人は、かろがろとしたるが、よき」と、仰せられ候う。黙したるものを、御きらい候う。「物を申さぬが、わろき」と、仰せられ候う。又、微言に物を申すを、「わろし」と、仰せられ候うと云云。(蓮如上人御一代記聞書 313)


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2009/02/11(水)
先日「片雲の風にさそはれて漂泊の思やまず」「取る物手につかず」の気持ちで、岩手県盛岡市に行ってきました。
(ちなみに芭蕉が行ったのは平泉までで、盛岡あたりまでは行っていません)
お会いしたのは、10年ほど仏法を聞いてこられた方で、お話しするほどに、弥陀の救いを求めれられる真摯な姿勢を尊く拝しました。このような人にこれまで法を説いてこなかった、否、説けなかった己を反省させられました。
まことに申し訳のないことです。

「説く立場の人」の方が「聞く立場の人」よりも仏法をよく分かっているのではないことを改めて思い知らされます。

蓮如上人、おりおり、仰せられ候う。「仏法の義をば、能く能く人にとえ。物をば人によくとい申せ」のよし、仰せられ候う。「誰にとい申すべき」由、うかがい申しければ、「仏法だにもあらば、上下をいわずとうべし。仏法は、しりそうもなきものがしるぞ」と、仰せられ候うと云云。
(蓮如上人御一代記聞書 167 能く能く人にとえ)

熱心な浄土真宗門徒の家に生まれた宮沢賢治も、青年時代に真宗から離れてしまいました。誰が悪いということではないですが、縁というのは分からないものです。
いずれにせよ「法を説く者」の責任は重大ですので、三里に灸すえて行脚をしたいと思っております。

閑話休題

先回は東京⇒名古屋⇒富山⇒東京と時計回りでしたが、今回は東京⇒盛岡⇒富山⇒東京と反時計回りでした。
羽田空港に着いて、いつものように到着ロビーからモノレール乗り場の階に降りようとエスカレーターのところへ行きますと、大変混雑していました。ご存知の方もおられると思いますが、下りのエスカレーターは2基あります。
よく見ると混雑しているのは、右側のエスカレーターだけで、左側は誰も使おうとしていませんでした。もちろん右側でも待っていればいつかは乗れるのでしょうが、どうして左側に乗らないのだろうと思いながら、私はさっさと左側を使って降りました。(我利我利亡者でしたね)
こういうことはよくあります。
自分でよく確かめないで「多い方が正しいだろう」「皆もしているから」「これまでもそうだったから」と安易に判断します。
どちらのエスカレーターを使うかなどはどうでもいいことですが、個人でも組織でも、重大な局面で判断を間違えると後悔することもあるだろうと、日常の些細な出来事から学びました。

少し前の東京新聞のコラム(筆洗)に考えさせられる記事がありましたので、紹介します。

東京新聞 筆洗 2009年2月1日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2009020102000060.html
(中日新聞や北陸中日新聞も同じはずです)

 「二十世紀の百年間に、二度も高揚と転落を体験した国は世界中で日本以外にない」。臨床心理学者の河合隼雄さんから生前、こんな嘆きを聞いたことがある。もちろん先の大戦とバブル経済を指している▼嘆きは続く。「日本人は全体として間違った方向に動いてしまう。そのとき『これはおかしいぞ』という人があまりに少ない」と。要は「大勢に従う」ことの危うさを憂えていたのである▼さすがに二十一世紀に入り十年も経ずに繰り返すとは、予想していなかっただろう。いや<二度あることは三度ある>と、心のどこかで思っていたのかもしれない。世界的な不況の中で、日本経済をけん引してきた自動車や電機などの輸出産業が転落状態にある▼不安は募るばかりだが、二度の転落からは立ち直っている。平坦(へいたん)な道であるはずがないが、前を向き歩いていきたい。そのためにも雇用の崩壊を食い止める必要がある▼経済アナリストの藤原直哉さんは、失業により多くの人が絶望することを恐れている。新著『新しい日本を建設する』では、相手の満足を第一に考える価値観への転換や自然志向などが日本再建のカギになると説いているが、絶望感が覆う社会では何も始まらないと思うからだ▼「大勢に従う」がごとく、人員の削減が行われてはいないか。「これはおかしいぞ」という見識に触れたい気分である。
(注:強調は引用者)

長くなってしまい、すみません。

そういえば松尾芭蕉は伊賀上野の出身ですね。
近々三重県にも行こうかなぁと思っております。

2009/02/08(日)
前回に続き、カルトの特徴と比較して、浄土真宗とはどう違うのかを書いていきます。

今回とりあげるカルトの特徴は

宗教は個々人を助け、その人の信仰的な求めを充たそうとする。
カルトは信仰的な求めを搾取する。



カルトといわれるものが、なぜ問題化するのかといえば、一言で言えば「救われない」からです。一般論的に、カルトといわれるものは、人の信仰心からくる行動を要求するばかりで、あたえられるモノが無いからです。

貨幣経済ではないですが、取られるばかりで受け取るものが少ないから「搾取する」と特徴にあげられています。

搾取するというもののなかには、種々の行動の自由を制限するということも入りますが、プライバシーの自由を奪うということも入ります。宗教における教えと言うことと、その人のプライバシーのことの区別がつかなくなるからです。

教義と私生活は、分けられないという人もあるでしょうが、この社会で生活する上では、区別として分けていかねば種々混乱を来すからです。なぜなら、法治国家の社会に生活する現代人にとって、法律というルールは厳然として存在し、それに反すれば犯罪者ということになってしまうからです。

教義というのは、信仰面での話で、教義がこうだから、法律や社会のルールは無視して良いとか、教義に反するからという理由で、犯罪者(法律的な意味で)呼ばわりしてよいということでもありません。教義上の理由で輸血を拒否して子供を死なせたという事件が以前ありましたが、カルト化がすすむと、教義と私生活が完全に混同され、状況においてはどのルールが優先されるかということがわからなくなるからです。

教義に反するという善悪と、法律に反する善悪と、世の中には全く別の物差しがあるということが、区別できなくなるところにカルトといわれるものの問題があるのです。
カルトといわれるものは、その団体の利益不利益が善悪の基準となり、それ以外のものを考えられなくなるので、社会と対立しがちです。それは、善悪の物差しが、1つしか無く、物事をすべて敵か味方か、白か黒かでしか判断できなくなってしまうからです。
結果的にカルトといわれるものが搾取するというものは、種々の自由の中で、いろいろな角度から物事を考えるという思考力なのです。思考力が奪われれば、その教義のなかでしか、世の中のすべてのことを考えられなくなってしまいます。

しかし、親鸞聖人は、世の中すべてが敵であるとか、正しい信仰を持っていればなんでもしよていと教えられたのではありません。

われ往生すべければとて、為まじきことをもし、思うまじきことをもおもい、言うまじきことをも言いなどすることは、あるべくも候わず(末灯鈔)

私は極楽往生できる身になったのだからと言って、やってはならないことをしたり、思ってはならないことを思ったり、言ってはならないことを言ったりするとことは、あってはならないと言われています。

ここで「為まじきこと」「言うまじきこと」というのは、当時の決まりや倫理道徳的なことも含めていわれていることです。

国所にあらば、守護・地頭に向きては疎略なく限ある年貢所当をつぶさに沙汰をいたし、そのほか仁義をもって本とし(御文章3帖目13通)

蓮如上人は、それぞれのすんでいる国では、守護・地頭にむかって決められた年貢を怠りなく納め、仁義を本として暮らしなさいといわれています。

いずれも、教義は「どんな人でも救われる」という教えですが、「法律や社会のルールを破ってもよいのではない、社会には社会のルールがあるのだ」と戒められたものです。

どんな人でも救われると言うところで、考えることを放棄してしまえばカルトになってしまうでしょうが、それは浄土真宗の教えがそうだからではありません。
それを信じる人間の問題なのです。

タグ : カルト

2009/02/05(木)
3日(火)に名古屋へ行き、そのまま、4日には富山へ行きました。
名古屋では朝10時から夜9時半まで知人と話をし、富山では個人的な用事を済ませた後、S谷さん御夫妻とお会いしました。
S谷さん御夫妻は、少し前まで息子さん夫婦に住まわせておられた家を処分なされるなどの為に、富山に来られたのですが、いろいろお話をされる中で、その家の話題になった時「私たちがあの子たちを追い出したみたいな形になって、これで良かったのかしら、と思うのです」と泣かれました。
私もついついもらい泣きしそうになるのを我慢するのがやっとでした。

そして「S谷さん! 子供さんたちに残さなければならないのは家ではありません。S谷さんお二人が真実信心獲得なされて、子供さんたちに弥陀の本願を伝えられるのが一番ですよ!」と心で叫んでおりました。

このブログに何度も紹介しております、笠木透さんが最初に作った歌が、「私の子供たちへ」という歌です。
--------------------------------------------------
私の子供たちへ

作詞  笠木 透
作曲  笠木 透


生きている鳥たちが 生きて飛び回る空を
あなたに残しておいてやれるだろうか 父さんは
目を閉じてご覧なさい 山が見えるでしょう
近づいてご覧なさい こぶしの花があるでしょう


生きている魚たちが 生きて泳ぎ回る川を
あなたに残しておいてやれるだろうか 父さんは
目を閉じてご覧なさい 野原が見えるでしょう
近づいてご覧なさい りんどうの花があるでしょう


生きている君たちが 生きて走り回る土を
あなたに残しておいてやれるだろうか 父さんは
目を閉じてご覧なさい 山が見えるでしょう
近づいてご覧なさい 辛夷の花があるでしょう
--------------------------------------------------
私は4番としてこう入れたいと思います。
笠木さんは替え歌を推奨しているから、許してくださると思います。

生きている人たちが 生きて求めてる法を
あなたに残しておいてやれるだろうか 父さんは


さて
今日の記事の「大いなる遺産」というのは19世紀のイギリスの文豪チャールズ・ディケンズの長編小説のことではありません。(この小説もいいですけどね…。映画やドラマもあるし)

例によって岡林信康さんのアルバムなのです。
彼のオリジナルアルバム3枚から漏れた曲などを11曲収録していますが、この中に「コペルニクス的転回のすすめ」という曲があるんですね。(この言葉どこかで聞いたことありませんか?)
大変過激なんですけど、こうなったら紹介しちゃいますね。
---------------------------------------
コペルニクス的転回のすすめ

作詞 岡林信康
作曲 岡林信康
編曲 はっぴいえんど

何をやっても やることなすことが
見抜かれているのだ みんな裏目に出てしまう
奴らを倒そうと 身をすり減らして
やればやるだけ 奴らを太らせてしまう

もともと無理な話さ 勝てる訳がない
俺達の脳ミソは 奴らに作られたんだから
脳ミソを入れ替えるんだ つらいことだけど

頭にノミをつきたてて 自分の手で切り刻むんだ

当たり前のことだと疑いもしないで
信じてきたことがみんな
ひっくり返ってしまうかもしれないけど

脳ミソを入れ替えるんだ
奴らに作られた
無茶苦茶なことをして
奴らの頭を 破裂させてやるんだ
---------------------------------------
※1 強調は引用者によるものです。
※2 決して無茶苦茶な事をしてはいけません。
2009/02/02(月)
宗教とカルトの違い

引用元:
http://www.geocities.jp/recoverycult2005/shukyotocult.html
宗教カルトを経験して以来、宗教なんてどれもうさんくさいと思うようになった、と思う人は少なくないようです。その一方で、1つのカルトを出た後、また似たようなタイプのカルトに入り、そのパターンを繰り返す人も、やはり少なくないようです。カルトは人間の「信じる」力を破壊するので、入ってしまった人は何をどの程度、どんな風に信じたらいいのかという、微妙な調節感覚を失いがちなのです。

ここでは、「宗教もカルトも同じようなものだ」という極論から冷静に身を引いて考えるために、カルトではない宗教とカルトとの違いを示します。


宗教は個人の自立を尊重する。
カルトは服従を強いる。

宗教は個々人を助け、その人の信仰的な求めを充たそうとする。
カルトは信仰的な求めを搾取する。

宗教は問いや自立した批判的な考え方を許し、また奨励しもする。
カルトは問いや自立した批判的な思考をさせない。

宗教は心理上のことと信仰上のことを統合する。
カルトは信者を「カルトの中でのよい自分」と「過去の悪い自分」に分裂させる。

宗教の改宗は一個人のアイデンティティに関わる内的プロセスの展開を伴う。
カルトの改宗は、一個人のアイデンティティに顧慮することない外的力に、知らないうちに投降してしまう。

宗教は金銭を倫理的抑制に従いつつ、崇高な目的を果たすための手段の1つとしてみなす。
カルトは金銭を、目的として、また権力を手に入れ、リーダーたちの利己的な目的を果たすための手段としてみなす。

宗教は、信者と宗教家とのセックスは非倫理的であると見なす。
カルトはしばしば、信者をリーダーたちの性的欲求のはけ口とする。

宗教は批判する人に丁寧に応答する。
カルトはしばしば、物理的あるいは法的脅迫で批判する人々を脅す。

宗教は家族、家庭を大切にする。
カルトは家族、家庭を敵と見なす。

宗教はある人が入信しようとする時には、よく考えてから決断するよう勧める。
カルトはほとんど情報を与えないまま、即断するように求める。

どうですか?違いが把握できましたか?
あなたが今後、宗教に関わる時、指標にすることをお勧めします。

参考文献:
志村 真 編訳 「カルト・カウンセリング問題資料集Ⅰ」より
リチャード・L・ダウハゥアー著
「牧師/神父(宗教家)のための指針」

タグ : カルト

2009/02/02(月)
今回は、最近知った、サイトの文章でとても参考になるものがありましたので、紹介します。
(引用元:カルトに傷ついたあなたへ

カルトの特徴

カルトがどのような方法で人を縛り上げていくのか、以下の一覧で確認していきましょう。

1. あなたをカルト以外の他の人たちから引き離し、環境を操作します。
2. カルト以外の他の人たちと話したり、カルト以外からの情報が入らないようにします。
3. 不十分な食事やカルト内での過剰な活動によって、あなたを衰弱させます。
4. 精神的に萎縮させたり、自尊心を砕かせたりします。
5. 不安、恐怖、混乱をかきたて、あなたがカルトへ服従することによってのみ、喜びや確信が与えられるようにします。
6. 訓練の中で誉めたりけなしたりというように、飴と鞭を巧妙に使い分けます。
7. 儀式化された集会で仲間からの糾弾、問い詰めなどの圧力を与え、あなたに罪悪感を起こさせたり、人前で懺悔するように仕向けます。
8. リーダーはあなたやカルト全体を支配しているように見せかけ、あなたが心身ともにカルトに服従することで運命が決まると主張します。
9. 祈祷や印刷物の書き移しなど、単調な作業や同じことを繰り返す活動に従事させます。
10. 自分自身、家族、以前の価値観に決別するよう仕向け、それまでの生き方を否定します。
http://www.geocities.jp/recoverycult2005/teigi.html

これらがすべて当てはまるカルトもあれば、部分的に当てはまるものもあります。しかし、大半に心当たりがあるのでしたら、カルトである可能性は十分でしょう。


大半に心当たりがあれば、カルトとよばれるものだということです。このように思われる団体にならないように気をつけたいと思います。
自戒の意味もこめて皆さんに紹介しました。

タグ : カルト

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