21世紀の浄土真宗を考える会2009年07月

--/--/--(--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2009/07/31(金)
今日は要門について考えてみます。

要門とは「浄土の要門のことです。
簡単に言うと「浄土に往生するために肝要な門」となります。(註釈版聖典の脚注

要門」という言葉は、道綽禅師の安楽集に出ていますが、善導大師はその言葉を使われながら、意味を変えて、観無量寿経疏 玄義分 定散門に
「しかるに娑婆の化主(釈尊)、その請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。「定」はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす。「散」はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求願す。弘願といふは『大経』(上・意)に説きたまふがごとし。」(註釈版聖典七祖篇300頁
とおっしゃいました。
定善とは
「日観より下十三観に至るこのかたを名づけて定善となし」(観無量寿経疏 玄義分 定散門 註釈版聖典七祖篇307頁
散善とは
「三福・九品を名づけて散善となす」(同上
とおっしゃっています。

要門とは「定善または散善を、まことの心でやって、往生したいと発願し、阿弥陀仏の極楽浄土へ往生したいと期する」教えです。
(「往生したい」という言葉が重なり、ぎこちないですが、ご了承下さい)

これは阿弥陀仏の第19願から発するもので、その願意を開説されたのが釈尊の観無量寿経です。

善導大師は「要門」と「弘願」の二門を教えられ、要門は自力方便であり、弘願は他力真実であると教えられました。
法然上人はこれを「諸行往生」と「念仏往生」で教えられました。
これを受けられ、親鸞聖人は、要門から真門を開かれ、要門・真門・弘願の三門を教えられたのです。
法然上人のように「往生」という言葉を使えば、
 要門 自力諸行往生
 真門 自力念仏往生
 弘願 他力念仏往生
となるでしょう。
要門は聖道門の人々を浄土門に導き入れるために方便として教えられたものです。

要門について教えられた親鸞聖人のお言葉は、教行信証化土巻要門釈以外にはつぎのようなものがあります。

阿弥陀仏の第19願の意を表された御和讃が浄土和讃 大経讃3首です。
(番号は聖典によります)
61
至心・発願・欲生と
十方衆生を方便し
衆善の仮門ひらきてぞ
現其人前と願じける
62
臨終現前の願により
釈迦は諸善をことごとく
『観経』一部にあらはして
定散諸機をすすめけり
63
諸善万行ことごとく
至心発願せるゆゑに
往生浄土の方便の
善とならぬはなかりけり

また、善導大師の教えられたことについても御和讃があります。
65
釈迦は要門ひらきつつ
定散諸機をこしらへて
正雑二行方便し
ひとへに専修をすすめしむ
(高僧和讃 善導讃)

これらの御和讃を根拠にして「阿弥陀仏に救われるには諸善万行をしなければならない」と思っている人がいるようですが、そうではなく、浄土和讃の3首は第19願の意を表されたものであり、高僧和讃の1首も要門が方便であることを示されたものです。

諸善万行そのものは、本来、聖道門の行ですが、それらの人たちも諸善万行を阿弥陀仏に回向して往生できますよと導かれたのです。
ただし、ただ諸善万行をしているだけではだめで、「発願」ということが必要なのです。
しかもまことの心(至誠心)で、勇猛心を起こしてしなければなりません。
また、諸善万行という生因に対する結果は双樹林下往生です。
くどいようですが、要門はあくまでも方便なのです。

「方便」というのは「私達がしなければならないこと」ではなく、阿弥陀仏が私達を方便しておられるのです。
(主語を間違えないで下さい)
もし「方便」だからしなければならない、となったら聖道門からやらなければならないことになります。
もちろん、私は「やりたい人」や「やる自信のある人」までも止めることは致しません。

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。
(一念多念証文 18)

要門・真門が方便であり、弘願が真実であることはお分かりになると思いますが、次にそれらの関係はどうなっているかというと、要門・真門・弘願の関係を説く場合、
①従仮入真
②真仮廃立
の2つがあります。

①の従仮入真門の御文の例が三願転入の御文です。

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。

②の真仮廃立門の御文の例は、

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。(教行信証化土巻)

本願一乗海は、頓極・頓速・円融・円満の教なりと、知るべし。
浄土の要門は、定散二善・方便仮門・三福九品の教なりと、知るべし。
(愚禿鈔 上 二教対)

などがあります。

①の根拠となっている三願転入の御文も、よく読めば真仮廃立をしておられますので、「真仮廃立・信疑廃立」こそが浄土真宗の大事な教えなのです。
スポンサーサイト

タグ : 要門

2009/07/30(木)
親鸞聖人の書かれたものには「後生の一大事」という言葉は出てきませんが、蓮如上人の御文章には「後生の一大事」「一大事の後生」「後生」「後世」などの言葉が多くあります。
※蓮如上人の書かれたお手紙類は300通以上残っておりますが、ここでは5帖80通の御文章の中で見ていきます。
※「後生」は42回、「後世」は4回(後世者を含む)書かれています。

後生の一大事」は、浄土真宗を学ぶ上で大切な言葉であることは間違いありません。
では、蓮如上人はどういう意味で「後生の一大事」を使っておられるでしょうか。

御文章に書かれている「一大事」】
御文章には「一大事」という言葉は10ヶ所あります。
後生の一大事」    2ヶ所
「今度の一大事の後生」 2ヶ所
「一大事の往生」    3ヶ所(類似を含む)
その他         3ヶ所

[「後生の一大事」とある御文章

3帖目第4通 大聖世尊
しかればこの阿弥陀如来をばいかがして信じまゐらせて、後生の一大事をばたすかるべきぞなれば、なにのわづらひもなく、もろもろの雑行雑善をなげすてて、一心一向に弥陀如来をたのみまゐらせて、ふたごころなく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を光明を放ちてそのひかりのなかに摂め入れおきたまふなり。

5帖目第16通 白骨
たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。

[「今度の一大事の後生」とある御文章

4帖目第12通 毎月両度
それ当流の安心のおもむきといふは、あながちにわが身の罪障のふかきによらず、ただもろもろの雑行のこころをやめて、一心に阿弥陀如来に帰命して、今度の一大事の後生たすけたまへとふかくたのまん衆生をば、ことごとくたすけたまふべきこと、さらに疑あるべからず。

5帖目第14通 上臈下主
それ、一切の女人の身は、人しれず罪のふかきこと、上臈にも下主にもよらぬあさましき身なりとおもふべし。それにつきては、なにとやうに弥陀を信ずべきぞといふに、なにのわづらひもなく、阿弥陀如来をひしとたのみまゐらせて、今度の一大事の後生たすけたまへと申さん女人をば、あやまたずたすけたまふべし。

[「一大事の往生」とある御文章]

1帖目第11通 電光朝露・死出の山路
これによりて、ただふかくねがふべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべきなり。
これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もつてのほか相違す。そのゆゑは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、これを信心のひとといへり。これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにもおほくまゐらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことは疑なし。なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。
しかれば今日よりのちは、他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、信心決定して、その信心のおもむきを弟子にもをしへて、もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。

2帖目第7通 五戒・易往
かくのごとくこころうるうへには、昼夜朝暮にとなふるところの名号は、大悲弘誓の御恩を報じたてまつるべきばかりなり。かへすがへす仏法にこころをとどめて、とりやすき信心のおもむきを存知して、かならず今度の一大事の報土の往生をとぐべきものなり。

2帖目第10通 それ当流聖人・仏心凡心
それ、当流親鸞聖人のすすめましますところの一義のこころといふは、まづ他力の信心をもつて肝要とせられたり。この他力の信心といふことをくはしくしらずは、今度の一大事の往生極楽はまことにもつてかなふべからずと、経・釈ともにあきらかにみえたり。

[上記以外で「一大事」とある御文章]
1帖目第5通 雪の中
しかれども、この一流のうちにおいて、しかしかとその信心のすがたをもえたる人これ なし。かくのごとくのやからは、いかでか報土の往生をばたやすくとぐべきや。一大事といふはこれなり。

1帖目第10通 吉崎
そもそも、吉崎の当山において多屋の坊主達の内方とならんひとは、まことに先世の宿縁あさからぬゆゑとおもひはんべるべきなり。それも後生を一大事とおもひ、信心も決定したらん身にとりてのうへのことなり。

1帖目第10通 吉崎
答へていはく、信心をとり弥陀をたのまんとおもひたまはば、まづ人間はただ夢幻のあひだのことなり、後生こそまことに永生の楽果なりとおもひとりて、人間は五十年百年のうちのたのしみなり、後生こそ一大事なりとおもひて、もろもろの雑行をこのむこころをすて、あるいはまた、もののいまはしくおもふこころをもすて、一心一向に弥陀をたのみたてまつりて、そのほか余の仏・菩薩・諸神等にもこころをかけずして、ただひとすぢに弥陀に帰して、このたびの往生は治定なるべしとおもはば、そのありがたさのあまり念仏を申して、弥陀如来のわれらをたすけたまふ御恩を報じたてまつるべきなり。

【「後生の一大事」の意味】
これら10ヶ所(9通)の御文章と釈尊や親鸞聖人のお言葉から分かることは次の2つです。
①信心決定せずに死んだならば、再び迷い苦しみの世界へ戻ることになる。最悪、地獄へ堕ちる。
②信心決定した人が死ねば、極楽往生でき弥陀同体のさとりを得て、永生の楽果を受ける。
この2つをともに「後生の一大事」ということは問題ないと思います。
ただ、蓮如上人が「後生の一大事」と言われているのは②の意味で言われていることが多いと思います。

では、この2つだけが後生の一大事の意味かと言いますと、そうは思われません。
蓮如上人が「今度の一大事の後生」「今度の一大事の往生」とおっしゃっていますように、吸う息吐く息が後生と触れ合っている今、せっかく人間に生まれ、仏教を聞かせて頂いているのに、このまま息が切れたらどうなるか、信心決定し往生一定の身になれるかどうかという切迫した一大事のことと思います。
この場合、後生の一大事は、死んでからだけの一大事ではなく、今の一大事でもあり、「後生に起きる一大事」だけではなく「今、後生と触れ合っている一大事」「後生という一大事」と理解してもいいと思います。

これは、歴代の善知識方の御心でもあると思います。

人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く、この身今生に向かって度せずんば、更に何れの生に向かってかこの身を度せん。大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。
(釈尊 三帰依文・大方廣仏華厳経第六 浄行品第七)

呼吸のあひだにすなはちこれ来生なり。ひとたび人身を失ひつれば万劫にも復せず。このとき悟らずは、仏もし衆生をいかがしたまはん。願はくは深く無常を念じて、いたづらに後悔を貽すことなかれと。浄楽の居士張掄縁を勧む。
(親鸞聖人 教行信証行巻 宗暁『楽邦文類』の引用)

明日もしらぬいのちにてこそ候ふに、なにごとを申すもいのちをはり候はば、いたづらごとにてあるべく候ふ。命のうちに不審も疾く疾くはれられ候はでは、さだめて後悔のみにて候はんずるぞ、御こころえあるべく候ふ。
(蓮如上人 御文章1帖目第6通 睡眠)

タグ : 後生の一大事 御文章

2009/07/29(水)
利他の信楽うるひとは
願に相応するゆゑに
教と仏語にしたがへば
外の雑縁さらになし
(高僧和讃 善導讃)

今日は、この御和讃を読みたいと思います。
善導大師の教えられたことについての御和讃です。
善導讃は26首ありますが、信心獲得するとどうなるかということについて教えられ、信心の徳を讃えておられる前後8首の御和讃の一つです。

「利他の信楽うるひとは」とは他力の信心を獲得した人はということ
「願に相応する」とは信心をうることは阿弥陀仏の本願の趣旨にかなっているということ
「教」とは釈迦の教え
「仏語」とは諸仏の言葉

まとめて言いますと、
他力の信心を獲得した人は、阿弥陀仏の本願の趣旨にかなうので、また、釈迦の教えと諸仏の言葉に違わないようになるから、外からのさまざまな妨げ(や煩悩)によって、信心を乱されることがない。(正念を失することがない)
となります。

1行目と4行目とはそれほど誤解がないようですが、2行目と3行目の誤解が多いようです。

読めば分かりますように、これは善導大師の往生礼讃のお言葉からです。
雑修の人の過失について「雑修の十三失」と教えられてもいます。
その1~4が
1.雑縁乱動して正念を失するによるがゆゑに
2.仏の本願と相応せざるがゆゑに
3.経と相違するがゆゑに
4.仏語に順ぜざるがゆゑに
です。
1は省略し、2~4の簡単な意味を記します。

[仏の本願と相応しない]
阿弥陀仏の本願(第十八願)の真意にかなわないということです。
阿弥陀仏の本願の真意とは、阿弥陀仏から回向せられた南無阿弥陀仏の名号を聞き、一念無疑の信心・信楽を獲得し、他力の念仏を称える人を、必ず極楽浄土に往生させるというものです。
それに対して、自力の念仏を称えている人(信心獲得していない人)は、阿弥陀仏の本願に相応していません。

[教と相違する]
釈尊の教示に相違するということです。
釈尊の教示は観無量寿経に教えられています。
では、観無量寿経に何が書かれているかといいますと、流通分に定散二善を付属されずに、「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と教えられています。
定散二善によって表わされる諸善万行や五正行(この場合、もちろん自力です)をして、往生の因としようとしていることは、釈尊の教示=教に相違するのです。

[仏語に順ぜざる]
阿弥陀経に「少善根福徳の因縁をもつてかの国に生ずることを得べからず」と万行諸善を少善根福徳として廃し、念仏一行をもって往生の業と教えておられます。そのことを六方諸仏が間違いないとおっしゃっているのが、仏語です。その諸仏の言葉にしたがわないのが仏語に順ぜざるということです。

以上、この御和讃の2行目と3行目は、「雑修の十三失」の2~4がなくなったこと、つまり他力の信心を教えておられますので、上記をふまえて読まれたら、意味もお分かりになると思います。

タグ : 利他の信楽

2009/07/23(木)
弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

歎異抄第1章の書き出しです。
この中で、動詞を含む文節は、
1.「たすけられまゐらせて」
2.「とぐるなり」
3.「信じて」
4.「申さん」
5.「おもひたつ」
6.「おこるとき」
7.「あづけしめたまふなり」
です。
これらの主語・主体は何でしょうか
1~5は行者
6は行者の「こころ」
ですね。
したがいまして、1~6は行者側のことになります。
では7の文節を含む句「すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」の主語・主体は何でしょうか。
文章をしっかり読めば、阿弥陀仏と分かりますね。
ですから、第1章の書き出しに主語を補って書きなおすと、

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち(阿弥陀仏は)(行者を)摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

となるでしょう。
現代語訳にする時は、「行者に」という訳もできるかと思います。

主語が阿弥陀仏か行者かは、この歎異抄第1章の解釈では大きな違いが出てこないように感ずるかもしれませんが、お聖教のご文によってはとんでもない誤解を生んでしまいますので、気をつけたいと思います。


歎異抄の解説本はたくさんありますが、一例をあげましょう。
「聖典セミナー 歎異抄」(梯実圓著 本願寺出版社)ではどのように訳されているかといいますと、

阿弥陀仏の誓願の思いも及ばぬおはからいに救われて、往生を遂げさせていただくことであると信じて、念仏を申そうと思いたつ心がおきるとき、即座に阿弥陀仏は大悲の光明のなかにおさめとりたまい、決して見捨てぬという救いの利益にあずからせてくださいます。

となっています。

ちなみに、第2章の書き出しはどのように訳されているかも紹介します。

【本文】
おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、・・・

【現代語訳】
あなたがたが、十幾つもの国々をこえ、いのちの危険もかえりみず、私をたずねてきてくださった、その目的は、極楽に生まれてゆく道を問いただしたいという、ただその一事のためでした。ところが、もしあなたがたが、親鸞は念仏以外に、往生の道を知っているのではないかとか、あるいは往生に関する特別の教説なども知っているのではないか、その真相を知りたいものだと思っておられるのでしたら、それは大きな誤解です。もしそういうことを聞きたいのならば、・・・

少し補足しますと、
この歎異抄第2章の書き出しの中で、
3番目の文のはじめの「もししからば」の「しからば」は
2番目の文の中の「こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは」指しています。

「こころにくく」を太字にしたのは、前の記事との関連です。

タグ : 歎異抄

2009/07/21(火)
浄土真宗と関係ないような、あるような話。

最近、古語辞典を買いました。(岩波 古語辞典 補訂版)
(別に推奨しているわけではありません)
国語辞典や漢和辞典、英和辞典、英英辞典はいくつか持っていますが、古語辞典は、高校時代に使っていた旺文社古語辞典以来です。33年ぶりです。
昔を懐かしんで、早速「こころにくし」を調べてみました。
下のように概括的な説明と6通りの語義が書かれていました。(用例は省略しました)

こころにく・し【心憎し】[形ク]
《ニクシは親しみ・連帯感・一体感などの気持ちの流れが阻害される場合の不愉快な気持ちをいう語。ココロニクシは、対象の動きや状態が思うようにならず、もっとはっきりしたい、もっと知りたい、と関心を持ちつづける意》
①よく見えない。はっきりしない。
②どこか気持ちの通じない所がある。
③(様子がはっきりしないので)気にかかる。
④深く含みがある。奥ゆかしい。
⑤(底が知れず)なんとなく恐ろしい。
⑥どうも怪しい。いぶかしい。

高校の試験などでは④の奥ゆかしいという意味で問題が出される場合が多いのではないかと思いますが、6通りの語義は微妙にニュアンスが違いますね。
《》内の概説はうまく説明してあるように思いました。

「こころにくく」思うことは必要なこともありますね。

タグ : 歎異抄

 | Copyright © 21世紀の浄土真宗を考える会 All rights reserved. | 

 / Template by パソコン 初心者ガイド
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。