21世紀の浄土真宗を考える会2009年08月

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2009/08/31(月)
「疑問に思っていることの途中経過」の「その後」

叢林集を手に入れました。
(和綴じ本、真宗全書)
叢林集 和綴じ本
↑叢林集 和綴じ本
真宗全書 目次
↑真宗全書 目次

叢林集は九巻からなっています。
「第六巻 宿善遇法 第三十八」
に宿善のことが記されています。
ここに書かれているのは、覚如上人と唯善の諍論であって、如信上人と覚恵法師の諍論はありません。

〖ほぼ結論〗
『本願寺なぜ答えぬ』(浄土真宗親鸞会発行)の82頁
「宿善往生を唱えた覚恵法師と、信心往生を立てられた如信上人との、諍論によっても明らかだ」
という記述は間違いである可能性が大変高いです。
つまり誰かが書いたか言ったことを、根拠の裏付けをせずに書いたというのが真相かと思われます。
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2009/08/28(金)
酒井法子容疑者が覚せい剤取締法違反(所持)で起訴されることになった。
今年の夏は、ギンギンギラギラの夏ではなかったけど、「甲子園」や「酒井法子事件」のためについつい「チューリップ」を思い出した。
高校時代の友人がチューリップファンだったから。
ついでに鈴木茂が今年の2月大麻取締法違反(所持)で逮捕され、3月に有罪判決を受けていることも知った。(遅いんです)
酒井法子にしても鈴木茂にしても、生きている限りこれからもあるだろう。
途中はいろいろあるだろうけど、みんなの人が「はっぴいえんど」になったらいいなぁと思う。
サボテンの花でも聞こう。

なお、「夏色のおもいで」と「夏なんです」の作詞者は松本隆です。
2009/08/26(水)
元会員Aさんからコメントを頂きました。
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-91.html#comment170

「仏願の生起」を本から末まで聞いて、疑いの全く無くなった時が決勝点との確言だ。
 ↓
「仏願の生起・本末」を聞いて、疑いの全く無くなった時が決勝点との確言だ。

こっそりと修正されていました。
「お詫びと訂正」は、ありませんが。



なるほど、うまいこと考えましたね。
でもね、これを
「頭隠して尻隠さず」
とか
「恥の上塗り」
とか
「オストリッチ(オーストリッチ=ダチョウ)症候群」(←若干ニュアンスは違いますけど)
と言います。

括弧の位置が右にずれただけ程度の訂正であって、この1文以外の変更はしていないと思われます。
少しは良くなりましたけど、「本末」の説明が全くされていないことは前と同じではないですか!

2009/08/26(水)
本日は地獄秘事について勉強しましょう。
手を抜いて、辞書からの引用だけです。
でも、最後まで読まれたらいいですよ。
文中に出てくる「光常寺」に見覚えのある人は、よく勉強している人・・・かもしれません。

『真宗大辞典』 第三巻 1528頁(永田文昌堂刊 ISBN4-8162-0101-7 C1515)より
(改行、かなづかい、数字表記などは少し変えてあります。ボールド体の強調は私がしました。)

真宗の異安心の一種。
我が身は地獄必定なりと思いつめるを信心なりと主張するを以て、この名を得たのである。
寛政の頃近江国(滋賀県)に東本願寺末寺なる光常寺(同県坂田郡息長村大字新庄に在り)、その外、春道、兵左衛門、次右衛門、彌惣治、丹蔵の5人が主として之を唱え、寛政11年(1799)2月彼等は本山に招致せられて、嗣講鳳嶺の調査を受け、遂にその教諭に服従して局を結びしと云う。
この秘事の徒の主張せし要点は、

一に二種深信は謂ゆる信機と信法との二種にして、二種は同時に起こるに非ず、前後に起こるのであって信機は前なり、信法は後なり。故にまず機を信ぜねばならぬ。既に蓮如上人の御文に「我が身はわろきいたづらものなりと思ひつめて」とあるによりて、我が身はいよいよ地獄ゆきに必定の者なりと落ちきらねばならぬ。かく落ちきれば助くる法は仏の手許に存するを以て、之を眺むるに及ばない。若し誤って法を眺めんとすれば、是れ本願に手をかくるものにして自力である。眺めざるは是れ実に深く法を信じたるなりとして、地獄必定の者なりと信ずるのみを以て信心となした。

二に南無阿弥陀仏の六字の意は機と法の二である。若し阿弥陀仏のみを信ずるときは、遂に南無の二字を信ぜざることゝなる。然るに南無の機を深く信ずるときは、自ら法にもとづくなりとなした。是れ南無の二字と阿弥陀仏の四字とを引き離して、機のみを信ずる説を助成せんとしたのである。

又彼の徒は、御文は一往の説にて月を指す所の指の如くなれば、深く拘泥すべきにあらずと云い、

又、決定心は行者に求むべからず、然るに今時決定したと思い、或いは頼みしと思い、或いは信じたと思うは悉く自力心にして、本願に手をかけたのであると云い、

又絵像木像は虚仮にして、実の仏体は名号なりとして、仏像を軽視したと云う。

江州異安心御教誡と題する調査書に出づ。

タグ : 地獄秘事

2009/08/25(火)
昨日の夏の甲子園の決勝はいい試合でしたね。
最後の三塁へのライナーもドラマチックでした。
ずっと観ていたように書いていますが、8回表と9回表の最後のところだけテレビで見ていました。
午後3時32分頃に終わりましたね。
打撃戦になったので試合時間は延びました。

ところで、梯實圓師の著書でまだ持っていた本がありました。
○妙好人のことば(法蔵館)
○親鸞聖人の信心と念仏(自照社出版)
これ以外にも、共著の本がいくつかあります。

さらに、「かけはし」ついでに
サイモンとガーファンクルの『明日に架ける橋(Bridge Over Troubled Water)』はいい歌ですよね。
私はS&GのCDは5枚+イマージュシリーズの「イマージュ ソングブック~サウンド・オブ・サイレンス~」を持っています。

http://www.sacrako.jp/asset/UTA/bridge.htmlより)

When you're weary
Feeling small
When tears are in your eyes
I will dry them all
I'm on your side
when times get rough
And friends just can't be found
Like a bridge over troubled water
I will lay me down

つかれて
ちっちゃくなって
涙が とまらないなら
ぼくが乾かしてあげるよ
ぼくは君の味方だ
キっツイ時
ひとりだけなら
向こう側にわたる
ボクが橋になったげるよ

When you're down and out
When you're on the street
When evening falls so hard
I will comfort you
I'll take your part
when darkness comes
And pain is all around
Like a bridge over troubled water
I will lay me down

打ちのめされて
ほっぽりだされて
ハードな夜がやってくる
なぐさめるよ
いくぶんかは 分担できるかもよ
闇がやってきて
苦しみだけでいっぱいになったら
困難な流れを渡る
橋になったげるよ

Sail on, silvergirl,
Sail on by
Your time has come to shine
All your dreams are on their way
See how they shine
If you need a friend
I'm sailing right behind
Like a bridge over troubled water
I will ease your mind

出航だよ
出発なんだよ
君の時間が生き返る
夢がみんな、こっちへ向かってくるじゃないか
見てご覧、あんなに輝いている
もし友達が必要だったら
僕もすぐ後ろをついていこう
苦悩の海の上に架けた橋のように
君の心を楽にしてあげよう
2009/08/24(月)
親鸞会のHPのコラムに「聞法の決勝点」と題する文章が書かれていました。(H21.8.24)

「仏法は聴聞に極まる」と蓮如上人は道破される。
 では、どこまで聞けばよいのか。聞法の決勝点を親鸞聖人は、こう明示されている。
「仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを『聞』と曰うなり」(教行信証)
「仏願の生起」を本から末まで聞いて、疑いの全く無くなった時が決勝点との確言だ。
「仏願」とは阿弥陀仏の本願。「本願」は「誓願」ともいわれ、お約束のことである。
 約束には必ず相手がある。弥陀の誓願はどんな者を相手に建てられたのか、本願のお目当てを「生起」という。
(以下略)


細かいことはいいとしまして、この文章には大変な間違いがあります。
それは、
「仏願の生起」を本から末まで聞いて、疑いの全く無くなった時が決勝点との確言だ。
です。

後の文章で、
本願のお目当てを「生起」という。
とありますので、これをあてはめますと、
「本願のお目当て」を本から末まで聞いて、疑いの全く無くなった時が決勝点との確言だ。
となります。
これでは「法」が全く抜けてしまっています。
本来、この親鸞聖人のお言葉は、本願成就文(第18願成就文)の「聞其名号」の説明であり、「聞とは、南無阿弥陀仏のいわれを聞く」ということなのに、いつの間にか「自分の相を聞く」とすり替わっているのです。

もし、多くの人がこのように理解しているのならば、どれだけきいても聞信するということはありません。

仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し

仏願の「生起」と、仏願の「本」「末」を聞いて全く疑心が無くなった

ということです。
「生起」と「本末」と「疑心有ることなし」の簡単な意味は以下の通りです。
「仏願の生起」-機ー罪悪生死の凡夫であり、出離の縁有ることない私
「仏願の本末」-法ー法蔵菩薩の五兆の願行と、それによって成就した名号のお力
「疑心有ることなし」-無疑の一心ー信楽ー信心

大事なところです。

タグ : 仏願の生起本末

2009/08/23(日)
それほど大切なことではないかもしれませんが、もしかしたら重要なことかもしれません。
(皆さんはどう思われるでしょうか?)

「第18・19・20願の三願は十方衆生が相手の本願だから、『衆生摂生の願』と言われる。」
と言う人がおられますので、そういう言葉は本当に「浄土真宗」にあるのだろうかと思って調べました。
下に辞書やウィキペディアなどからの資料を書きますが、どうやら浄影寺慧遠の言葉からの造語のようです。
正しければ造語でもいいのでしょうが、「衆生を摂め取る」願という意味でしたら、善導大師以後の浄土門の知識方は四十八願全部を指しておられると思います。
もし詳しいことをご存知の方は教えて頂きたいと思います。

いろいろある「三願」 [主に『真宗新辞典』(法蔵館)から]
1.往生の因を誓う三願・生因三願ー第18・19・20願
   第18願は信心を正因とすることを誓い、
   第19願は自力の菩提心と諸善万行を、
   第20願は自力の称名念仏をそれぞれ因とすることを誓う。
   第18願は真実、第19・20願は方便の願。
   このことから「真仮三願」「要真弘三願」とも言います。
   普通は、生因三願真仮三願でしょう。

  なお、この第18・19・20願を
  浄影寺の慧遠(523年ー592年)は「摂他国衆生の願」とし
  憬興(新羅の法相宗の僧 7世紀後半)はこの三願は順次に上品、中品、下品を摂するとし(『無量寿経連義述文賛』)
  玄一はそれぞれ上三品、中三品、下三品の願生に配し(『無量寿経記』)
  法然上人は・・・と書いてあります。

 さらに参考までにウィキペディアより浄影寺の慧遠・憬興による分類
 中国の慧遠と憬興は3つに分類している。其々の名と分類は以下の通り。
①摂法身願・求仏身願 仏が自らの仏身を完成すること…第十二願・第十三願・第十七願
②摂浄土願・求仏土願 衆生を往生せしめる仏土の完成…第三十一願・第三十二願
摂衆生願・利衆生願 正しく衆生の救済を願うもの…その他の43願

 また、明教院僧鎔師は四十八願を「国土功徳願」「仏功徳願」「菩薩功徳願」に分類していますが、今日は省略します。

2.四法三願ー第11・17・18願(下記、取願立法を参照)
3.すべての者を引摂する弥陀の大悲をあらわす。(『経釈要文』)ー第11・18・19願
4.的取三願ー第11・18・22願
   第18・11・22の三願を的(ただ)しくあげて
   衆生往生の因果が弥陀の願力によることを証明する。
   (三願的証 曇鸞大師 浄土論註)

[さらに参考]
利井鮮妙師の『宗要論題決擇編』 利井常見寺HPより
(一部 数字の表記を変更)
【取願立法】中
第三に三願立法の例、此の中三類あり。
 一に因果悲用の格『行巻』(追釈)
  ①18願 ─── 一因
  ②11願 ─── 一果
  ③22願 ─── 悲用

 二に能所信証果の格、『本典』の三願四法を一部大綱とし及び『正信偈』の「本願名号」等の三句
  ①17願 ─ 所信 ┬ 教行
             └ 不二
  ②18願 ─ 能信
  ③11願 ─ 証果

 三に三願一法の格『末灯鈔』
  ①17願 ┐
  ②12願 ┼ 信心仏性之一法
  ③13願 ┘

【三願真仮】中
問、一仏の誓願に真仮の二種あること未審し、已に設我得仏と願じ、欲生我国と命じ、不取正覚と誓ふことは、三願皆同じ、爾れば得仏、我国にも真仮の二途ありとせんや、いかん。
ー乃至ー
問、三願に真仮を弁立したまへる相承ありや。
答、終南大師に微意あり(『観念法門』摂生縁に三願を引証し、『法事讃』に三往生を明す)、吉水に至つて分明なり(先に出せる『漢』、『和』両灯これなり)、委しくは下に在り。

引用は以上です。

なお、「『観念法門』摂生縁に三願を引証し・・・」とあるのは、第18・19・20願のことですが、これが「衆生摂生の願」の根拠と考えるのは難しいと思います。
観念法門の摂生増上縁の説明のところに善導大師が引用しておられるのは、第18・19・20・35願の4願ですので、上の鮮妙師の説明はあくまでも「三願真仮」の相承の説明と思います。
2009/08/22(土)
教えて下さった方は、Yahoo!で検索されたそうです。
私のやり方がまずかったのか、Googleではヒットしませんでした。
単に根気がなかったのかもしれないと反省しております。
でも、ついつい言いたくなって一言

完璧と思われていたグーグルにも盲点があった。“宿善往生”である。

なお、私は「マイクロソフト・ヤフー」連合のまわし者でありません。
「それでもグーグルを使っている。」

ただ、アプローチの方法はいろいろあるということは学びました。
「グーグルは唯一絶対無二の検索では無い」と。

探索は続きます。
2009/08/22(土)
「覚恵法師と如信上人との諍論」が書かれているものを教えて下さる方がありました。

三井法雲師説 御袖縋御文説教より 第六席 三願転入と宿善
http://www.saikyoji.com/howa/houwa6.pdf
(またはhttp://www.saikyoji.com/howa/howa06.htm

三井法雲師は昭和13年に亡くなった大谷派の布教使です。
三井師の西教寺は、現在は東本願寺派になっています。

この中の、「叢林集」は江戸時代初期の大谷派の光遠院恵空師の著です。
恵空師は当時の大谷派学寮では最高クラスの人でした。
「叢林集」は真宗全書(63)におさめられているそうです。

三井法雲師の法話聞書中では、覚恵法師は親鸞聖人の弟となっていますが、これはあきらかに間違いですね。
親鸞聖人の弟さんは、尋有、兼有、有意、行兼の4人あり、いずれも天台宗系の僧になっています。
覚恵法師は覚信尼の長男です。
(次男が唯善です。兄弟といっても歳は30歳くらい離れています)

「覚恵法師と如信上人との諍論」の根拠が「叢林集」なのかもしれませんし、この三井法雲師の法話だったのかもしれません。あるいはいずれでもないかもしれません。
「叢林集」を読めばいいのですが、持っておりません。

また、この法話は大正か昭和初期の頃と思われますが、当時どのような説法がなされていたか勉強になります。
ちょっと宿命論的な言い方のところもある感じです。
(説法は対機ですので、一部だけ取り上げて云々することは難しいでしょうし、これは著書ではなく法話の聞書ですので、何とも言えません)

法話の内容はひとまずおいておきまして、果たして「覚恵法師と如信上人との諍論」の真偽はどうなのでしょうか。

なお、恵空師が「宿善」について述べていることが、教行信証講義(山邉習學・赤沼智善著)の177頁に出ております。

以下引用

光遠院恵空師は、その著『叢林集』六に
摂受衆生の初を宿善とし、摂受衆生の終を往生とすべし。これは当流一途の所談なり。されば過去の宿縁も、現に煩悩具足と信知するも、これみな阿弥陀仏の本願の衆生を摂受したまえる御恩なり。
と申されて居る。畢竟、みな如来の方から御縁を結ばせて引きよせて下さるのである。

タグ : 宿善

2009/08/21(金)
今、知りたいと思っていることがあります。

宿善往生を唱えた覚恵法師と、信心往生を立てられた如信上人との、諍論によっても明らかだ」と書かれている本があるのですが、「覚恵法師と如信上人との諍論」とはどのようなものか説明してある本を読んだことがありません。

「明和の法論」「西吟月感諍論」承応の鬩牆 げきしょう)について説明してあるような辞書でも、「覚恵法師と如信上人との諍論」は書かれていません。
「これって本当にあったんだろうか?」とふと思ったのです。
状況から考えても、ちょっとあり得ないのではないかとも思うのですが・・・。
どなたかご存知の方がおられたら、是非教えて頂きたいと願っています。

タグ : 宿善

2009/08/20(木)
歎異抄をひらく』(高森顕徹著 1万年堂出版 ISBN978-4-925253-30-7)の読後感想です。
まとめたいと思います。

【これまでの記述のサマリー】
1.「その1」では第1部の意訳についての感想を述べました。
そこでは、「自力の心をひるがえして」の訳が「弥陀の徹見通りの自己に驚き」となっていることを誤りであると指摘しました。

2.「その2」では第2部全体の中で、歎異抄第3章にさかれている量が少ないことを述べました。

3.「その3」では、「テーマ」と「結論部分」がかみ合っていないことを述べました。

4.「その4」では細かい表現について感想を述べました。
 これについては、文中で書いておりますように「重箱の隅をつつく」「アラさがしをする」目的で書いたのではありません。
 一つひとつの例は問題にするようなことではなくても、全体として、型にはめるような方向性があることを指摘しました。
 また、それぞれの例については、読まれた方によっては私と異なる意見をお持ちの方もあるでしょう。そして、「そこまで言わなくてもいいのではないか」「その指摘は的外れだ」と思われたかもしれません。
 例を10列記した理由は上に述べたもので、その点を理解して頂くことをお願いするとともに、不快な思いをなされましたら、この場を借りてお詫び申し上げたいと思います。

 なお、第10例につきましては、大きな間違いであると思います。「その1」とも関連します。

【感想のまとめ】
1.「善悪」の問題と「信疑」の問題を混同しています。
 それが、“自己に驚き”や“ごまかしの利かない阿弥陀仏”、“邪見におごり自己の悪にも気づかぬ、「自力作善」の自惚れ心”などの表現に出ています。

2.上記1と関連することですが、有名な親鸞聖人の「悪人正機」説に関する記述が少ないことは、著者は「悪人正機」についてあまり述べたくないのではないかと思います。
 言葉を変えて言えば、
「どんな悪人でも救われる」「善悪と弥陀の救いは関係ない」などのことはあまり言いたくなくて、
「自分が悪人と気づかないと救われない」→「助かる為に善をするのは間違いだが、気づく為(まで)にはやはり善をしなければならない」という方向へ誘導されているような感じを受けます。
(もちろん、そのようなあからさまな表現はありません)

タグ : 歎異抄をひらく

2009/08/19(水)
歎異抄をひらく』(高森顕徹著 1万年堂出版 ISBN978-4-925253-30-7)の読後感想です。
「第2部『歎異抄』の解説」の感想の続きです。

今回は細かい表現について考えます。
これは決して「重箱の隅をつつく」ということではありません。
一つひとつの文章を無批判に正しいと思ってしまうことが重なると、すべてのことに無批判になってしまう危険性がありますので、それを避けるためです。

この章のすべての文について見るわけではなく、いくつかの例をあげたいと思います。

例1“・・・もっとも有名な言葉といわれる。衝撃的な内容だけに、大変な誤解も生んだ。”
・「もっとも有名な言葉といわれる」根拠がありません。
・「大変な誤解」とは何でしょうか。
 読者はコンテクストからは次の「造悪無碍」と読みます。
 しかし、「造悪無碍」は法然上人、親鸞聖人在世の頃よりあった異義で、歎異抄第3章によってこの異義が発生したものではありません。
 歎異抄第3章に「造悪無碍」を生む危険性は当然あるのですが、すべてが第3章のせいではないでしょう。
 事実、今日歎異抄を読んでいるどれほどの人が「造悪無碍」に陥っているのか分かりません。

例2“・・・誰でも思うだろう。”
・本当に誰でも思うのでしょうか?
・少なくとも私は「えっ、どういうこと?分かるように説明して下さい。」と思いました。
 そう思う人も少なくないと思います。

例3“私達は常に、常識や法律、倫理・道徳を頭に据えて・・・”
・「常識」「法律」「倫理・道徳」は必ずしも同じ善悪の判断を下すわけではありません。
 「常に」という表現は適当ではないと思います。

例4“極めて深く重い意味を持ち、人間観を一変させる”
・極めて抽象的な表現であり、前のフレーズの“だが、聖人の「悪人」は、犯罪者や世にいう悪人だけではない”に対する言葉になっていません。この場合は“○○の(という)悪人である”という表現が必要です。

例5“悠久の先祖より無窮の子孫まで、すべての人々は”
・訳が反対です。

例6“しかも、それを他人にも自己にも恥じる心のない無慚無愧の鉄面皮”
・この文は至心釈の「機無」の次に書かれています。
 原文にない挿入された文であり、お聖教の言葉に、こう思うべきだという間違ったニュアンスを加えています。

例7“ごまかしの利かない阿弥陀仏に”
・阿弥陀仏が何か私達を監視しておられるようなニュアンスを与えています。
 以前述べた「見聞知」の記述を参考にして下さい。

例8“悪人と見抜かれた全人類のことであり、いわば「人間の代名詞」にほかならない。”
・悪人=全人類、人間の代名詞とするならば、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」の説明を途中であってもしなければならないでしょう。
 意味が通らなくなることは予想できます。
 ここで「自分は悪人と思わなければならない」という考えが生まれます。

例9“念仏くらいは称え切れる”
・念仏を称え切るとはどういうことを意味するのか分かりません。

例10“邪見におごり自己の悪にも気づかぬ、「自力作善」の自惚れ心”
・自己の悪に気づかない心と、「自力作善」の自惚れ心とは違いますが、この文ですと同じ意味になっていまいます。
 この部分の間違いは重要です。

このように、時には大きな、多くの場合は気付かないほどの小さな「間違った表現」「あいまいな表現」によって、読者は潜在意識下に「特定の」「共通した」考えを抱くことになります。
「その1」にも述べましたが、たとえそれが「自己に驚く」という5文字であっても、それがネックとなってしまい、「今救われる教え」が「永久に救われない教え」になってしまうのです。

タグ : 歎異抄をひらく

2009/08/19(水)
歎異抄をひらく』(高森顕徹著 1万年堂出版 ISBN978-4-925253-30-7)の読後感想です。
「第2部『歎異抄』の解説」の感想の続きです。

今回は全体の構成について考えます。

見出しが、
なぜ善人よりも悪人なのか?
リード文が、
「善人なおもつて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」の誤解を正された、親鸞聖人のお言葉
ですから、
この章の「テーマ」はリード文に書かれているように、「誤解を正された親鸞聖人のお心を明らかにすること」または、「純粋に“悪人正機”の正しい意味を明らかにすること」でしょう。

通常、文章は
「起承転結」の4部構成、または
「序破急」の3部構成、または
「起承転転結」の5部構成
で書かれます。
もちろん、小説などの場合はこの限りではありませんが、人に分かるように説明する時には、通常はセオリーを重んじます。
この場合でも「テーマ」「論題」は構成以前の問題として、まず第1に押さえておかなければならないことです。

さて、この章ではどうなっているかというと、
1.歎異抄第3章の誤解されやすいこと
2.誤解を正すには「善人」「悪人」の認識を徹底して明らかにすべきこと
が述べられています。
次いで
3.「悪人とは」の説明に3頁
  根拠として歎異抄から1文、教行信証信巻至心釈から1文
4.「善人とは」の説明に1頁
5.「疑心の善人でも、自力を捨てて他力に帰して往生する」ことに半頁
と説明されています。
ここまでが「悪人正機」の説明です。

続けて「善人であれ悪人であれ、要するに・・・」と「善悪」の問題から「捨自帰他」に移ります。
6.「他力をたのむことが大切」に2頁
  根拠として唯信鈔文意から1文
7.結論として「善人悪人、一応、分けてはあるが、弥陀の救いの焦点は、他力信心一つに絞られていることが、明々白々である。」・・・とされています。

これで果たして、テーマと結論が一致しているでしょうか。
最初に「誤解を正す」と示し、それには「悪人」「善人」を明確にすることが大切とされていながら、途中で「善人であれ悪人であれ」と言い、最終的に「善人悪人、一応、分けてはあるが」と善悪の問題に言及することが避けられています。

原文はあげられていても「悪人正機」についての結論がなく、他力信心の問題とすり替わっていることが分かります。
もちろん「他力信心」について語ることは大事なことですが、ここはあくまでも、テーマに添って文章を展開し、阿弥陀仏の本願は「悪人正機」であることを明らかにすべきです。
そうしなければ「誤解を正す」ことはできないと思います。
やはり先に述べたように、「悪人正機」の説明を2000字ほどで済ませることには無理があるでしょう。

タグ : 歎異抄をひらく

2009/08/19(水)
『歎異抄をひらく』(高森顕徹著 1万年堂出版 ISBN978-4-925253-30-7)の読後感想です。
今回は「第2部『歎異抄』の解説」中の該当箇所の感想です。

内容に入る前に、第2部の中での歎異抄第3章に扱いについて思うことを述べます。

「なぜ善人よりも悪人なのか?」
という見出しは、この本の帯のコピーにも使われています。

また、1万年堂出版の紹介ページでも、歎異抄の文で載せられているのは、
第3章の「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と
後序の「万のこと皆もって そらごと・たわごと・真実あることなし」です。

さらに、その下には「名文を名筆で楽しむ」として木村泰山氏の謹書の見本が出ていますが、それも、歎異抄第3章です。

これほど、第3章を宣伝しているにもかかわらず、第2部の中ではどれほどの紙面がさかれているでしょうか。
全部で18ある本文の内訳は
 第1章・第2章  各4
 第3章~第10章 各1
 後序         2
です。

確かに、重要性から言えば、「第1章」「第2章」「後序」そして「第3章」となるでしょうが、それにしても、あまりにも少ないのではないでしょうか?

なぜ宣伝と比較して第3章の記述が少ないのでしょうか。想像しました。
・宣伝には大いに使ったが、実は第3章はあまり重要ではないと考えている。
・第3章について書きたくない理由がある。
・第3章について書けない。
などではないかと思います。
他に深い意があるのかもしれませんが、分かりません。

この度、私が歎異抄第3章について書いた時は、まず観無量寿経について9回(重複する部分もありますが)、第3章そのものについて数回、記事を書いております。
それでも「悪人正機」のルーツ問題には触れていませんし、十分な説明ができているわけでもないと自覚しています。
本格的に書こうとしたら、何倍もの分量になります。
多ければいいということでもないでしょうが、もう少し書かれてもよかったのではないでしょうか。

18というのが動かせないのならば、せめて
 第1章  3
 第2章  3
 第3章  2
 第4~10章 各1
 後序   3
といったところが妥当ではなかったかと思います。
後序を多くしたのは、後序は大きく5つの内容に分かれていますし、その中に親鸞聖人の重要なお言葉が2つ書かれていますので、これくらいの紙面を割り振っても少なくないと考えたからです。

感想をもう1点。
小見出し(またはリード文)は
「善人なおもつて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」の誤解を正された、親鸞聖人のお言葉
ですが、これですと
「歎異抄のお言葉」に対する誤解を正された、親鸞聖人の「歎異抄のお言葉」
ということになります。
トートロジー的であり、文章としておかしいと思います。

手術を受ける前の「はるな愛」や「椿姫彩菜」が「私は男よ♡」と言えば、「エェ!ホント?」となりますが、「森田健作」が「俺は男だ!」と言っても、「言わなくても分かってるよ」となるようなもの・・・じゃないか。
失礼しました。
(なお「俺は男だ!」という表現はトートロジーではなく、「俺は俺だ!」とか「男は男だ!」と言った場合にトートロジーになります。また「俺は男だ!」は強調表現ですので、おかしくはありません。)

本文については、次回書きます。
2009/08/19(水)
歎異抄をひらく』(高森顕徹著 1万年堂出版 ISBN978-4-925253-30-7)を読みました。
「はじめに」に「読者諸賢のご批判に待つ。」と書かれてありましたので、「賢」ではありませんが、少し感想を述べます。
もちろん、歎異抄第3章の箇所だけです。

歎異抄をひらく』の中で歎異抄第3章について書かれてあるのは、次の2箇所です。
(原文のみの頁は省略します)
1.第1部『歎異抄』の意訳
   第三章 有名な悪人正機を言われたもの p52-55
2.第2部『歎異抄』の解説
   9 なぜ善人よりも悪人なのか?     p194-202
    「善人なおもつて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」
    の誤解を正された、親鸞聖人のお言葉

今回は1について述べ、次回、2について言及する予定です。

では早速読んでみましょう。
下段に「原文」、上段に「意訳」となっています。
意訳とありますので現代語訳とは違うのかと思いますが、それはそれとしまして、内容を見てまいりましょう。

まず文字数を数えます。(フォントによってずれますが御了承下さい)
 漢字   157文字
 かな   305文字
 他の字   1文字(「々」)
 句点    12文字分
 読点    29文字分
 括弧記号 10文字分

合計514文字の文章です。(純粋に文字だけですと463文字となります)

私の感想を申します。

文字数の比率で言いますと、99%正しいと思います。

1%間違っているということです。
その1%はどこかというと、
「自力の心をひるがえして」の訳に当たる「弥陀の徹見通りの自己に驚き」というフレーズの中の「自己に驚き」の5文字です。

「自力の心をひるがえして」と「(弥陀の徹見通りの)自己に驚き」は明らかに異なります。
「自己に驚く」とは私達の心のこと(意業)であり、これですと自力で助かることになるからです。
また、驚かなければ助からないとも取れます。
つまり、これを読んだ人は「驚く」ことに目が行きます。
驚こうとするのです。
このままでは20年や30年、50年どころか1億年求めていてもダメです。
驚く心など無いのですから。

先に99%正しいと書きましたが、100点満点の99点ということではありません。
あくまでも文字数で見た時の分量が99%正しいと言ったまでです。

したがいまして100点満点としますと、「捨自帰他」「信疑決判」という最も大事なところが間違っていますので0点です。
「画竜点睛を欠く」とでも申しましょうか。

ちなみに第2部の同じ原文に対する現代語訳は「本願を疑う自力の心をふり捨てて」となっており、こちらは正しいと思います。
第2部の訳をこっちへ持ってくれば、100点近くになります。
(純粋に文章表現のみの問題については考慮しません)

以上が私の感想です。
次回は第2部について述べます。

タグ : 歎異抄をひらく

2009/08/18(火)
先日「やましき沈黙」で紹介したNHKスペシャルの音楽は、いずれも加古隆さんの作曲でした。
私は加古隆さんのファンというわけではないですが、↓のCD(9枚になりますか)を持っています。
こうやって題名を眺めているとなかなか面白いですね。
たとえば
機械工場ってどこにあるのかなぁ?」とか
森は失われたってどこの森かなぁ?」とか
狂気の影って誰が狂ったのかなぁ?」とか
はるかなる王宮ってどこにあるのかなぁ?誰の王宮かなぁ?」とか
富の攻防って、どれだけお金があるのかなぁ」とか・・・
なんとなくこれらの題名に不思議な因縁を感じますし・・・
今も、加古隆さんの音楽を流しながら原稿を書いています。

NHKスペシャル「映像の世紀」
  1. パリは燃えているか ―メインテーマ―
  2. ザ・サードワールド
  3. 睡蓮のアトリエ
  4. シネマトグラフI
  5. 大いなるもの、東方より
  6. 機械工場
  7. トルストイの手紙
  8. 新大陸に誘われて
  9. パリは燃えているか ―宇宙篇―
 10. 時の刻印
 11. シネマトグラフII
 12. はるかなる王宮
 13. パリは燃えているか ―追憶篇―

「パリは燃えているか」NHKスペシャル「映像の世紀」オリジナル・サウンドトラック完全版
  1. パリは燃えているか オープニング・テーマ
  2. 時の刻印II
  3. 大いなるもの東方よりII
  4. パリは燃えているか ピアノ・トリオ・ヴァージョン
  5. 最後の海戦
  6. 森は失われた
  7. パリは燃えているか オルガン・ヴァージョン
  8. ワン・ワールド
  9. 狂気の影
 10. パリは燃えているか オーケストラ・ショート・ヴァージョン
 11. シネマトグラフIII
 12. 最後の海戦II
 13. パリは燃えているか ブラス・ヴァージョン
 14. 未来世紀
 15. ザ・サード・ワールドII
 16. パリは燃えているか ジャズ・ヴァージョン
 17. 時の刻印III
 18. 睡蓮のアトリエII
 19. パリは燃えているか ピアノ・ソロ・ヴァージョン

image
  5. パリは燃えているか
 12. 黄昏のワルツ

イマージュ2~エモーショナル&リラクシング
 11. 青の地平(NHK「ドキュメントにっぽん」テーマ曲)

イマージュ3(trois)
  8. 風のワルツ(映画「阿弥陀堂だより」テーマ曲/ロング・ヴァージョン)

image 4
  8. 富の攻防

Image 6 Emotional & Relaxing
  3. Love Theme (Takashi Kako), (영화 "박사가 사랑한 수식" 중 사랑의 테마)

イマージュ7 sept エモーショナル&リラクシング
 11. 熊野古道~神々の道~第1楽章

イマージュ アムール
  5. 大河の一滴(映画「大河の一滴」テーマ曲)
2009/08/18(火)
煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意

浄土真宗には他力回向の救いを表す「機無円成回施成一」という言葉があります。

 機無 私達には生死を離れることのできるような、清浄真実の心は全く無い。

 円成 阿弥陀仏が私達に代わって、清浄真実な至徳(=名号)を完成された。

 回施 阿弥陀仏が至徳(=名号)を私達に等しく与えて下さる。

 成一 至心も欲生も、無疑の一心=信楽に帰一する。


歎異抄第3章の「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざる」は、機無を表します。

この「機無」ということが、歎異抄第3章で言われる「悪人」なのですが、あくまでも、「迷いの世界を抜け出すのに役立つような、清浄真実の心は全く無い」ことであって、「無間地獄しか行き場のない無類の極悪人」ということではありません。
間違えやすいところですが、注意して下さい。

三心釈で機無の部分をお示しします。

[至心釈]
一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。
すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。
この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。
(教行信証信巻 註釈版聖典231~232頁)

[信楽釈]
次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。
しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。
如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。
これを利他真実の信心と名づく。
(教行信証信巻 註釈版聖典234~235頁)

[欲生釈]
次に欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。
すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり。まことにこれ大小・凡聖、定散自力の回向にあらず。ゆゑに不回向と名づくるなり。
しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。
このゆゑに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。
欲生すなはちこれ回向心なり。これすなはち大悲心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。
(教行信証信巻 註釈版聖典241頁)

歎異抄の「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」の中の「いづれの行もおよびがたき身」も同じ意味です。

タグ : 歎異抄をひらく 機無 円成 回施 成一

2009/08/18(火)
善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。

捨自帰他であり、二種深信です。

「自力のこころをひるがへして」
=「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざる」と深信・信知する。
=機の深信
=自力無功・捨自
※機の深信についてはくれぐれも誤解のないようにして下さい。

「他力をたのみたてまつれば」
=「あはれみたまひて願をおこしたまふ本意」と深信・信知する。
=法の深信
=他力全託・帰他

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞
(または○○)一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ
(歎異抄 後序)

以上です。
今回は短いです。
○○にあなたの名前が入るよう「頑張って」下さい。
(頑張ってをカッコでくくったのは、廃悪修善の意味ではないとの意です)

タグ : 捨自帰他 二種深信

2009/08/18(火)
「現代語訳が難しい」という意味で「理解が難しい」ということではありません。

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。

○「弥陀の本願にあらず」
ここについては、いろいろ訳されています。
・阿弥陀仏の本願にかなっていない。
・阿弥陀仏の本願に背いている。
・非本願の世界である。
・阿弥陀仏の本願の対象にはならない。
・阿弥陀仏の本願の対象ではない。
・阿弥陀仏の本願の趣旨からはずれている。
などです。
皆さんはどの訳がいいと思われますでしょうか。

多少のニュアンスの違いはありますが、これらの訳はいずれでもいいとしまして、もっと難しいのが次のところです。

○他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。
同じくいろいろな訳があります。
・他力をたのむ心が往生の正因である。
・他力をたのむ悪人が往生の正機である。
・他力をたのむ以外に悪人が往生する道はない。+他力をたのむことが往生の正因である。
・他力の信心を獲た悪人こそが、往生の正因を獲た人だ。
・他力をたのんだ悪人こそが第一に往生すべき人であり、他力をたのむ心こそ往生の正因である。
などです。
ここは上にあげた以外にも様々な訳があるでしょう。

悪人正機の教えと「信心正因」の教えを、一つの文で言われたものですので、なかなか難しいですね。

タグ : 悪人正機

2009/08/18(火)
聖道門の人たちにとって「常識」とされているのが、「七仏通誡偈」です。
七仏通誡偈とは、
 諸悪莫作
 衆(諸)善奉行
 自淨其意
 是諸仏教
です。
この「廃悪修善」の道を教え、実行し、聖者になろうとするのが聖道門ですが、聖道門の中の浄土の教えもやはりこの論理をふまえたものでした。
それが観無量寿経の要門(定散二善 三福九品)の教えです。
「歎異抄第2章を読む その2」でも述べましたように、法然上人一門の専修念仏の教えは、これら聖道門の人たちから言えば、仏法を破壊する悪魔の仕業と思えたのも無理はありません。

しかし、煩悩具足の悪人の救われる道は、観無量寿経の「顕説」である「要門」の教えではなく、「隠彰」である「別意の弘願」(第18願)であると、法然上人は教えられ、それを親鸞聖人も教えられたのです。

一.つねに悪をとゞめ、善をつくるべき事をおもはへて念仏候はんと、たゞ本願をたのむばかりにて念仏を申候はんと、いづれかよく候べき。
答.廃悪修善は、諸仏の通戒なり。しかれども、当時のわれらは、みなそれにはそむきたる身どもなれば、たゞひとへに、別意弘願のむねをふかく信じて、名号をとなへさせ給はんにすぎ候まじ。有智・無智。持戒・破戒、をきらはず、阿弥陀ほとけは来迎し給事にて候也。御心え候へ。
(和語燈録 巻五 第二二 145箇條問答 真宗聖教全書四 670頁)

ある人問ていはく、廃悪修善の旨を存じて念仏せむと、常に本願の旨を思ひて念仏すると、いづれか勝れたるや。答ふ、廃悪修善はこれ諸仏の通戒なりといへども、当世の我等はことごとく違背せり。もし別意の弘願に乗ぜずは生死を出がたき者か。云云。
(醍醐本『法然上人伝記』一期物語)



もちろん、「善悪業報の因果」や「自利利他の菩薩道」を否定するものではないことは言うまでもありません。
救済の法としての話です。

タグ : 七仏通誡偈

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