21世紀の浄土真宗を考える会2009年09月

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2009/09/30(水)
唯信鈔文意の第2章 法照禅師の『浄土五会念仏略法事儀讃』巻本中漢讃4句のさらに最初の1句を説明されたところです。

【原文】
「如来尊号甚分明 十方世界普流行 但有称名皆得往 観音勢至自来迎」
(五会法事讃)
 「如来尊号甚分明」、このこころは、「如来」と申すは無碍光如来なり。「尊号」と申すは南無阿弥陀仏なり。「尊」はたふとくすぐれたりとなり、「号」は仏に成りたまうてのちの御なを申す、名はいまだ仏に成りたまはぬときの御なを申すなり。この如来の尊号は、不可称不可説不可思議にましまして、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまふ大慈大悲のちかひの御ななり。この仏の御なは、よろづの如来の名号にすぐれたまへり。これすなはち誓願なるがゆゑなり。「甚分明」といふは、「甚」ははなはだといふ、すぐれたりといふこころなり、「分」はわかつといふ、よろづの衆生ごとにとわかつこころなり、「明」はあきらかなりといふ、十方一切衆生をことごとくたすけみちびきたまふこと、あきらかにわかちすぐれたまへりとなり。
註釈版聖典 699-700頁

【現代語訳】(浄土真宗聖典 現代語版より)
 『五会法事讃』に、「如来尊号甚分明 十方世界普流行 :但有称名皆得往 観音勢至自来迎(如来の尊号は、はなはだ分明なり。十方世界にあまねく流行せしむ。ただ名を称するのみありて、みな往くことを得。観音・勢至おのづから来り迎へたまふ)」といわれている。
 「如来尊号甚分明」について、この文の意味は、「如来」というのは無礙光如来である。「尊号」というのは南無阿弥陀仏である。「尊」は尊くすぐれているということである。「号」は仏になられてからの後のお名前をいい、「名」はまだ仏になっておられないときのお名前をいうのである。この如来の尊号は、たたえ尽すことも、説き尽すことも、思いはかることもできないのであって、すべてのものをこの上なくすぐれたさとりに至らせてくださる、大いなる慈悲のお心があらわれた誓願の名号なのである。この仏の名号は、あらゆる如来の名号よりもすぐれている。なぜなら、この名号は、誓願そのものだからである。「甚分明」というのは、「甚」は「はなはだ」ということであり、すぐれているという意味である。「分」は「わける」ということであり、あらゆる凡夫を一人一人見分けて救うという意味である。「明」は「あきらかである」ということである。すべてのものをことごとく助けてお導きになることが、明らかであり、一人一人を見分けて救うのであり、それがすぐれているというのである。

【補足といいますか、味わいといいますか】
ここで、親鸞聖人は「甚分明」について詳しく説明しておられます。(青の強調箇所)
歎異抄「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」のお言葉に通じるものがあります。
阿弥陀仏は十方衆生を助けるという本願を建てておられますが、それは「私一人」を助けるための本願なのです。
その本願・名号を「私が」聞くことを、本願成就文には「聞其名号」と言われ、親鸞聖人は「聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」と釈されたのであって、他人のことを言われたのでありません。
歎異抄の先程の言葉の少しあとにある
「まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり」

をかみしめたいと思います。
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タグ : 唯信鈔文意 歎異抄

2009/09/30(水)
の意味は、註釈版聖典の補註3に説明されています。
はじめの部分だけ、ここに書きます。
 とは、法(教法)に対する言葉である。つまり、仏の教えをこうむるべき対象であり、法によって救済されるべきものをいう。
 一般にと衆生は同じような意味で用いられているが、衆生(有情)は、「生きとし生けるもの」という意味であり、その衆生が教法に対したときにといわれるのである。


法蔵館の『真宗新辞典』にも、いろいろ説明されていますが、「」とは
①の説明
縁に遇えば発動する可能性をもつもの。仏の教法を受けその教化を被る者の素質能力。教化の対象。
⑤の説明
仏の説法に際してその教えを受けるべき相手が実在しないために権者がかりに受け手として現れたのを権、実在の相手を実機といい、観教の説法の対象である韋提について権実の論がある。
と書かれています。
「実機」についての独立した項目はありません。

なお、同じ法蔵館の『真宗辞典』では、「機」とは、
何等か生ずべきはずみのこと。即ち機は可発の義にして、人の心が縁によって活動を発すべき機微をいふ。又この意味より、教法の力に応じ、信心を発する衆生の心をもかくいふ。
とあります。
また、「実機」とは、
権機に対す。実業の機ともいひ、実際の悪人としての根機をいふ。観経の対機たる韋提を、菩薩の化現せるものと見ずして、貪瞋具足の女人と見るが如し。又己が悪人凡夫としての如実相に目ざめたるをも「己が実機」といふ。
とあります。

いずれにせよ、「法」を離れて「機」が語られることはないようです。

【補足:衆生と有情】
梵語サットヴァ(sattva)の漢訳は、旧訳(玄奘以前)では「衆生」、新訳(玄奘以後)では「有情」です。
親鸞聖人は、83歳より前の著作中に引用文以外では「有情」という言葉を使っておられません。83歳以後は「衆生」よりも「有情」の方が多くなっています。

(例)
76歳の時に作られた高僧和讃(118)では
 五濁悪世の衆生の
 選択本願信ずれば
 不可称不可説不可思議の
 功徳は行者の身にみてり

85歳以降に作られた正像末和讃(31)では
 五濁悪世の有情の
 選択本願信ずれば
 不可称不可説不可思議の
 功徳は行者の身にみてり

83・84歳頃の善鸞事件が関係しているのかどうかは分かりません。

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2009/09/29(火)
なぜいきなり六要鈔を出したのかといいますと、以下の記事を目にしたからです。
カラーの強調は私によるものです。

『御文章』を排した“近代教学”
(浄土真宗親鸞会 顕正新聞 平成21年9月15日号)
『御文章』はいかにして書かれたか、『山科連署記』にはこう記されている。
「教行信証文類、六要抄、表紙のやぶれ候ほどご覧じ候て、その後御文を御作りなされ候、これ千のものを百にえり、百のものを十にえり、十のものを一にえりすぐりて、凡夫直入の金言をいかなるものも、聞き易く、やがて心得候うようにあそばし候」
 蓮如上人は『教行信証』を表紙が破れるほど読み込まれ、その中の大事なこと、千の中から一つ選りすぐるようにして『御文章』をお書きくだされた。まさに凡夫往生の手鏡なのである。
(以下省略 大谷派のことについて書かれています)

*山科連署記……蓮如上人の法語や言行を記したもの

教学聖典に学ぶ
(浄土真宗親鸞会 顕真 平成21年9月号)
 この聖人の教えを破ったわが子・存覚を、覚如上人は断固、勘当されている。
 存覚は『報恩記』などに、「父母の死後は、追善供養を根本とする仏事を大切にして、親の恩に報いるつとめをはたすべし」「追善のつとめには、念仏第一なり」とまで言い切っている。
 先祖の追善供養を徹底排除された親鸞聖人の教えを、明らかに破壊するものであり、破門されて当然だろう。

(『歎異抄をひらく』より)

蓮如上人は教行信証や六要鈔を表紙が破れるほどまでに読み込まれて、御文章を書かれたと記されています。
蓮如上人が、存覚上人に対してどのようなお気持ちであったかは、御一代記聞書にも何箇所か書かれています。

一 前々住上人(蓮如)、南殿にて、存覚御作分の聖教ちと不審なる所の候ふを、いかがとて、兼縁、前々住上人へ御目にかけられ候へば、仰せられ候ふ。名人のせられ候ふ物をばそのままにて置くことなり。これが名誉なりと仰せられ候ふなり。
(蓮如上人御一代記聞書158 註釈版聖典 1281頁)

一 存覚は大勢至の化身なりと[云々]。しかるに『六要鈔』には三心の字訓そのほか、「勘得せず」とあそばし、「聖人(親鸞)の宏才仰ぐべし」と候ふ。権化にて候へども、聖人の御作分をかくのごとくあそばし候ふ。まことに聖意はかりがたきむねをあらはし、自力をすてて他力を仰ぐ本意にも叶ひまうし候ふ物をや。かやうのことが名誉にて御入り候ふと[云々]。
(蓮如上人御一代記聞書304 註釈版聖典 1331頁)

一 存覚御辞世の御詠にいはく、「いまははや一夜の夢となりにけり 往来あまたのかりのやどやど」。この言を蓮如上人仰せられ候ふと[云々]。さては釈迦の化身なり、往来娑婆の心なりと[云々]。わが身にかけてこころえば、六道輪廻めぐりめぐりて、いま臨終の夕、さとりをひらくべしといふ心なりと[云々]。
(蓮如上人御一代記聞書306 註釈版聖典 1331頁)

ところが同時に一部の会員に渡される顕真には、『歎異抄をひらく』を引用して、存覚上人を「存覚」と呼び捨てにし、勘当されて当然だと言い切っています。
(御一代記の中で「存覚」と書かれているのとは意味が違います)
存覚上人の追善供養に対する考えについては、以前の記事で少言及しましたので、そこをご覧下さい。
それに、六要鈔を何度も読まれた蓮如上人が『報恩記』などを読んでおられなかったとは考えられませんよね。
蓮如上人が「勢至菩薩の化身」「釈尊の化身」「名人」とまで敬われた存覚上人を貶すとはどういうことなのか、理解に苦しみます。
とにかく
もし、このことを存覚上人や蓮如上人が聞かれたならば、お二人とも悲しまれ、怒られるのではないでしょうか。

タグ : 存覚上人 六要鈔

2009/09/29(火)
浄土真宗の方で知らない人は少ないと思いますが、
六要鈔存覚上人の著作です。
六要鈔』全6巻(または10巻)は教行信証の最初の註釈書です。
これに、円爾師が教行信証の本文と合わせて作成したのが、
六要鈔会本』全10巻です。


六要鈔』は『真宗聖教全書 二 宗祖部』(大八木興文堂)に載っております。
また、現代語訳が『和訳 教行信証六要鈔として国書刊行会から柳彰弘著で出ております。
深川倫雄師の六要鈔ノート』(永田文昌堂)という本もありますが、入手は難しいようです。
(残念ながら私の手許にはありません)

『和訳 教行信証六要鈔』はこれです。(表紙の見開きの写真)↓和訳 教行信証六要鈔
『円爾 六要鈔会本』はこれです。↓六要鈔会本


なお、大谷派の西覚寺さんがHPにてテキストを載せておられます。
http://www.biwa.ne.jp/~takahara/shoka_0.htm

タグ : 存覚上人 六要鈔

2009/09/28(月)
あるところで、
「法然聖人と親鸞聖人の教えは違う」
と言われていました。
その理由として、第18願成就文の「乃至一念」の一念を、法然聖人は行の一念と釈され、親鸞聖人は信の一念と釈されたからというものでした。
ちなみに、大無量寿経には「一念」という言葉が数回出てきますが、往生の因に関する一念は3箇所です。
①本願成就文(註釈版聖典 41頁
②三輩段中の下輩(同 43頁
③弥勒付属の文(同 81頁

これらの一念についての親鸞聖人の釈は、
①本願成就文の一念は「信の一念」と言われ、
②三輩段中の下輩の一念は、直接の言及はなく、
③弥勒付属の文の一念は「行の一念」(教行証文類行巻 註釈版聖典187頁)とも「信の一念」(一念多念証文 註釈版聖典685頁)とも言われています。

法然聖人は3箇所の一念のいずれも行の一念と言われています。

覚如上人は、①と③ともに信の一念と言われています。
口伝鈔(21)一念にてたりぬとしりて、多念をはげむべしといふ事
註釈版聖典 911頁

蓮如上人は、③の一念は信の一念と言われています。
御文章5帖目第6通 一念に弥陀
一念に弥陀をたのみたてまつる行者には、無上大利の功徳をあたへたまふこころを、・・・
註釈版聖典 1192頁

このように、大無量寿経の中の往生の因をあらわされた一念を、「信の一念」と釈されるか「行の一念」と釈されるかでは、「教えが違う」ことにはなりません。

本願成就文の一念については、存覚上人が『浄土真要鈔 本』に説明しておられます。
この一念について隠顕の義あり。顕には、十念に対するとき一念といふは称名の一念なり。隠には、真因を決了する安心の一念なり。
註釈版聖典 967頁

また親鸞聖人は、『御消息』に、
信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
註釈版聖典 749-750頁
とおっしゃっていますので、「法然聖人と親鸞聖人の教えは違う」と言うのはとんでもない間違いです。
もし、このことを法然聖人や親鸞聖人が聞かれたならば、お二人とも悲しまれ、怒られるのではないでしょうか。

タグ : 行の一念 信の一念

2009/09/26(土)
前回の記事で、「五逆の罪人、十念によりて往生す」という言葉がありましたが、これは観無量寿経の下品下生段の言葉です。
唯信鈔には、この下品下生段の言葉と第18願文とを引かれて、称名念仏を薦められた章もありますので、この機会にお示しします。
なお、第18願文の意味については、
尊号真像銘文(註釈版聖典 643-644頁)
を読まれるといいでしょう。
尊号真像銘文では、唯信鈔を薦められていますね。

つぎに本願の文にいはく、「乃至十念 若不生者 不取正覚」(大経・上)といへり。いまこの十念といふにつきて、人疑をなしていはく、「『法華』の〈一念随喜〉といふは、ふかく非権非実の理に達するなり。いま十念といへるも、なにのゆゑか十返の名号とこころえん」と。
この疑を釈せば、『観無量寿経』(意)の下品下生の人の相を説くにいはく、「五逆・十悪をつくり、もろもろの不善を具せるもの、臨終のときにいたりて、はじめて善知識のすすめによりて、わづかに十返の名号をとなへて、すなはち浄土に生る」といへり。これさらにしづかに観じ、ふかく念ずるにあらず、ただ口に名号を称するなり。「汝若不能念」(同)といへり、これふかくおもはざるむねをあらはすなり。「応称無量寿仏」(同)と説けり、ただあさく仏号をとなふべしとすすむるなり。「具足十念 称南無無量寿仏(観経では 称南無阿弥陀仏) 称仏名故 於念々中 除八十億劫 生死之罪」(同)といへり。十念といへるは、ただ称名の十返なり。本願の文これになずらへてしりぬべし。 善導和尚はふかくこのむねをさとりて、本願の文をのべたまふに、「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃)といへり。十声といへるは口称の義をあらはさんとなり。
唯信鈔 註釈版聖典 1350-1351頁)
〔意訳〕
次に阿弥陀仏の第18願文に「乃至十念 若不生者 不取正覚」と誓われています。いまこの「十念」ということについて疑いを抱いている人がいます。「天台宗では、完全に法に帰依し、信従し、法と信をよろこぶ身になるというのは、中道実相の教えを究めたことを言います。本願文に十念とあるのは、念仏を十回ほど称えることではないでしょう」と言うのです。
この疑いに対してお答えしましょう。
『観無量寿経』の下品下生段にこの逆悪の人の浄土往生の相が説かれています。
「五逆とか十悪の重罪ばかりか、その他の諸々の悪を重ねた人が、臨終にはじめて善知識のすすめで、わずか10回、念仏を称えて浄土に往生した。」
ここに説かれている念仏は、心を静めて阿弥陀仏とその浄土を念ずる念仏ではありません。
ただ口に名号を称えるのです。
観無量寿経の「汝もし念ずることができなければ」のお言葉は、臨終に苦に逼められて、心を静めて行う念仏などできないことをあらわしています。
だからこそ、ただ無量寿仏のみ名を称すべしと説かれたのです。
観無量寿経には「具足十念 称南無無量寿仏(実際には 称南無阿弥陀仏) 称仏名故 於念々中 除八十億劫 生死之罪」と説かれていますが、この十念も10回の念仏です。
本願の「乃至十念」も同じく10回の念仏と言えるでしょう。
(乃至とありますので、十念の前後を含む、一念~無量念です)
善導大師はこのことを深く知られて、往生礼讃に本願の文を「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」と示されました。
ここに十声とおっしゃっているのは、口に南無阿弥陀仏と称えることをあらわしておられます。

タグ : 唯信鈔

2009/09/26(土)
宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。
という唯信鈔の聖覚法印の言葉をもって、宿善の厚い人と薄い人がいるという説明をしている人がいます。
しかし、この聖覚法印の言葉はそういうことを言うためのものではありません。

下に、その前後の文と訳を示します。
宿善」という言葉の意味が、前半と後半で微妙に(と言いますか、実は本質的に)違っています。
つまり、前半では単純に「過去世の善根」という意味で語られ、後半では「阿弥陀仏の方からの御縁」の意味になっています。


聖覚法印はすばらしいですね。
そしてまた、この唯信鈔を自ら何回も書かれ、同行に読むことを薦められた親鸞聖人の心を拝察します。

つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生することを得んや」と。
これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。
(註釈版聖典 1353-1354頁)
〔意訳〕
次にまたある人が言うには「五逆罪を犯したような罪の深いものでも、10回の念仏で浄土に往生するというのは宿善(過去世の善根)によるものだ。私の場合、過去世に善根を積んできたとは思えない。どうして往生することができましょうか」と。
これもまた愚かなはからいによって、いたずらに阿弥陀仏の本願を疑っているのです。それはどうしてかというと、過去世の善根の積み重ねが多かった人は、今生においても善根を修め悪業を造ることを恐れますし、過去世に善根を積み重ねることが少なかった人は、今生においても悪を好み善をしようとしません。その人の過去世に善をしてきたかどうかは、今生のありさまから、明らかに知られるのです。我が身を振り返ると、善い心がありません。宿善が少ないということが思い知らされます。しかし、そんな罪の深い者ですが五逆の重罪は犯していませんし、善根が少ないといっても、阿弥陀仏の本願を信じさせて頂いています。五逆の者の10回の念仏でさえも宿善のおかげです。ましてや一生涯念仏を称えさせて頂けるのは宿善(阿弥陀仏の方からのお手廻し)のおかげであり、有り難いことです。五逆の重罪を犯した者が10回の念仏を称えるのが宿善によるとし、私たちが念仏を称えるのは宿善が浅いと思うのはどういう訳でしょうか。浅薄な分別心が往生成仏の妨げになるというのはこういう考えのことでしょう。

補足
 単純に考えて、「すべての人が一つの善もできない極悪人」ならば、過去世はもちろん今生においても「宿善を厚くする」ことは不可能ですよね。
 聖道の教えと浄土の教えをまぜこぜにすると、混乱して訳が分からなくなります。
 だから、唯信鈔ではまずはじめに聖道と浄土の違い、浄土門の中でも諸行往生と念仏往生の違い、念仏往生の中でも専修と雑修の違いを詳しく説明してあるのだと思います。
 なお、唯信鈔は法然聖人とのかかわりで言うと、聖覚法印が法然聖人没後に異義のはびこる状態を歎いて書かれたものです。
 「法然聖人と唯信鈔」は「親鸞聖人と歎異抄」と同じ位置関係にあるのです。
 歎異抄を理解する時は、唯信鈔と唯信鈔文意を読むことが大切です。

タグ : 唯信鈔 宿善

2009/09/25(金)
A:“聞いてさえおれば助かる”と
  “聞く一つで助かる”とは同じか異なるか?

B:違います。
  “聞いてさえおれば助かる”は間違いで、
  “聞く一つで助かる”が正しいです。

A:そうだね。
B:(心の中で)やった。当たった!
  信の座へ入れた


上の会話を聞いたC
C:クイズじゃないぞ。
  “聞いてさえおれば、そのうちに聞く一つで
   助かる”と思ってるんじゃないの?
  それって違ってるよ。

2009/09/25(金)
「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、
これを聞といふなり。
(親鸞聖人)


「仏願の生起本末」については以前書きましたので、今日は「疑心あることなし」についてです。
これを「疑いの心が全く無くなった」と解釈するのも一概に間違いとは言えないのですが、よくよく親鸞聖人のお言葉を読んでみると、「疑いの心が無い」と書かれています。
つまり“「疑心」という物があったのだが、それが無くなった、これが聞である”という言い方もできなくはないのですが、それよりも“「疑心」が無いのが聞なんだよ”と仰っていると言った方が正確なんですね。
聞いて疑いが無くなるのというよりも、疑いが無いのが聞なのですね。
(疑いが無くなるというのが間違いと言っているのではないですよ)
さらに言うと、
疑いの無い法(南無阿弥陀仏)を聞かせて頂くから、疑いが無いのです。

弥陀のお慈悲を聞いてみりゃ
聞くより先のお助けよ
聞くに用事はさらにない
用事なければ聞くばかり

お軽同行)

タグ : 疑心 お軽

2009/09/24(木)
たまには、日々のできごとを書きます。単なる独り言です。
1985といっても、村上春樹の「1Q84」やジョージ・オーウェルの「1984年」との関わりはありません。
NHKのBS2の番組に「黄金の洋楽ライブ」というのがありまして、19日にはジャーニーの1981年のライブを放送していました。
曲はアルバム『エスケイプ』などからです。
たまたまホテルのテレビをつけたらやってただけなんですけどね。
実は恥ずかしながら、1981年ごろは音楽どころではなかったので、ジャーニーって何さ?って感じなんですが、ボーカルの顔を見たら、なんか見たことある人です。
「We Are The World(ウィー・アー・ザ・ワールド)」のリードボーカルもつとめたスティーブ・ペリーでした。
(リードボーカルと言っても1フレーズなんですが、それでもたいしたものです)
「We Are The World(ウィー・アー・ザ・ワールド)」は1985年なんですね。
あの頃は、マイケル・ジャクソンも違った顔をしていましたし、シンディ・ローパーもかわいかったし、ブルース・スプリングスティーンもど迫力でしたし、ダイアナ・ロスの声はとてもよかったです。(マイケル・ジャクソン以外は今もそうですが)
レイ・チャールズも元気でしたね。
レイ・チャールズは麻薬で3回も逮捕された後、見事更生しています。
酒井法子や鈴木茂にも立ち直ってもらいたいですね。
なお、「We Are The World(ウィー・アー・ザ・ワールド)」のDVDは持っております。

そういうわけで、スティーブ・ペリーやジャーニーに他にどんな曲があるのかなって思って調べると(ファンの方すみません)、「Only The Young」がありました。
(Who's Crying NowやOpen Arms、When You Love A Womanなどもありますね。)
「Only The Young」はマドンナの「Crazy For You」とともに、「Vision Quest(日本語名:ビジョン・クエスト/青春の賭け)」という映画の主題歌・挿入歌になった歌なんですね。
「ビジョン・クエスト/青春の賭け」のDVDやサウンドトラックのCDも持っています。
マドンナはほとんどデビューしたばかりで、この映画にも出演しています。
Vision QuestもCrazy For Youも1985年の作品です。

青春の影は1974年
青春の賭けは1985年

2009年は「中年の○○」か・・・
いやいや、「生涯現役」「我以外皆我師」の心意気で生きたいと思います。
2009/09/24(木)
「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。
「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。
尊号真像銘文 本 註釈版聖典 655頁)


〔聖典の脚注〕
仏をほめたてまつるになる
 本願を信じて念仏すれば仏を讃嘆していることになる。念仏は讃嘆の徳をもつ行業として私たちに与えられているので、「…になる」という。


〔現代語訳〕
「称仏六字」というのは、南無阿弥陀仏の六字を称えるということです。
「即嘆仏」というのは、つまり南無阿弥陀仏を称えることは仏を讃えたてまつることになるということです。
(聖典セミナー 尊号真像銘文 白川晴顕著 ISBN978-4-89416-862-6)

〔補足〕
ここで大事なのは、「ほめたてまつるなり」ではなく、「ほめたてまつるになるとなり」と言われているところです。
私たちには名号の値を知る能力も、ほめる資格もないのですが、名号は阿弥陀仏が造られ、回向して下されたものなので、「ほめることになる」のです。

タグ : 尊号真像銘文 称名

2009/09/24(木)
称名」の称も同じことです。
本来、私たち凡夫に阿弥陀仏のお力の値は分かりませんから、はかることも、ほめることもできないのです。
はかることができ、ほめることができるのは、仏だけなのです。
これを「唯仏与仏の知見」と言います。
(なお、唯仏与仏の知見は法華経に出ている言葉で、そこでは仏のみが諸法実相を知ると言われているのです。仏と仏のテレパシーという意味ではありません)
私たち凡夫が称えても、ほめることになる
「南無阿弥陀仏」
「帰命尽十方無碍光如来」
を阿弥陀仏がつくって下さり、与えて下さったのです。
それを称名念仏は簡単だから、誰でもできるからと軽く見ているのはとんでもないことです。
「称」を単に「言う」と説明されているからこうなるのではないかと思います。
念仏は一言一言が、阿弥陀仏の呼び声であり、説法なのです。
そして、自分の声を聞くのですが、聴聞になるのです。

タグ : 称名

2009/09/24(木)
親鸞聖人は「不可称・不可説・不可思議」という言葉をよく使っておられます。(順番は変わることがあります)
このうち、
不可説は「説くことができない」
不可思議は「思議することができない、思議が及ばない」
という意味であることは、すぐ分かるのですが、
不可称とはどんな意味でしょうか。
これを「言うことができない」と説明する人もいますが、これには難があります。
①そもそも、言っている。
②詳しく言うという意味ならば、不可説との区別がない。

不可称の「称」には2つの意味があります。
①称量 「はかる」という意味です。
②称揚 「ほめる」という意味です。


不可称とは「はかることができない、はかりしれない」「ほめることができない、ほめ尽せない」という意味なのです。
2009/09/23(水)
法界身の文によって安心を建てるのは浄土宗西山派の流れであり、浄土真宗では本願成就文によって安心が建てられると言われます。
しかし、それは決して「法界身」の教えが大事ではないということではありません。
もう一度、法界身の文を見てみましょう。
繰り返しますが、大切なところです。
観無量寿経疏には「無礙」の説明もあります。
下に引用する文は、このブログに上げなくても、すべてインターネットで見ることができますし、聖典(註釈版、註釈版七祖篇、現代語版聖典の3冊)があれば分かることですが、一目で見ることができるようにまとめたものです。

☆観無量寿経 第八像観の法界身のところ
【経文:書き下し文】
仏、阿難および韋提希に告げたまはく、
「この事を見をはらば、次にまさに仏を想ふべし。ゆゑはいかん。諸仏如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入りたまふ。
このゆゑになんぢら心に仏を想ふとき、この心すなはちこれ〔仏の〕三十二相・八十随形好なれば、この心作仏す、この心これ仏なり。
諸仏正遍知海は心想より生ず。
このゆゑにまさに一心に繋念して、あきらかにかの仏、多陀阿伽度・阿羅訶・三藐三仏陀を観ずべし。・・・
(注釈版聖典 99~100頁)

〔註〕
○諸仏正遍知海
 正遍知は梵語サムヤック・サンブッダ(samyak-saſbuddha)の漢訳で、如来十号の一。
 等正覚ともいう。
 仏の智慧が広大であることを海に喩えていう。
 正しく完全に真理をさとったあらゆる仏の意。

○多陀阿伽度(ただあかど)
 梵語タターガタ(tathāgata)の音写。如来と漢訳する。

○阿羅訶(あらか)
 梵語アルハット(arhat)の音写。応供・阿羅漢ともいう。如来十号の一 →如来

○三藐三仏陀(さんみゃくさんぶっだ)
 梵語サムヤック・サンブッダ(samyak-saſbuddha)の音写。等正覚、正遍知と漢訳する。正しいさとりを得た者。最高至上の仏。如来十号の一。→如来

○如来
 梵語タターガタ(tathāgata)の漢訳。
 真如(真理)より現れ来った者、あるいは真如をさとられた者の意で、仏のこと。
 十種の称号がある(如来の十号)。
  ①応供(おうぐ)。供養を受けるに値する者。
  ②等正覚(とうしょうがく)。平等の真理をさとった者。
  ③明行足(みょうぎょうそく)。智慧と行とが共に完全な者。
  ④善逝(ぜんぜい)。迷界をよく超え出て再び迷いに還らない者。
  ⑤世間解(せけんげ)。世間・出世間のことをすべて知る者。
  ⑥無上士(むじょうし)。最上最高の者。
  ⑦調御丈夫(じょうごじょうぶ)。衆生を調伏・制御してさとりに導く者。
  ⑧天人師(てんにんし)。神々と人間の師。
  ⑨仏。覚れる者。
  ⑩世尊。世間で最も尊い方。
 この十号は、如来を入れると十一号になる。それを合わせて十号と呼ぶ数え方に諸説がある。

【現代語訳】
釈尊はまた阿難と韋提希に仰せになった。
「この観が終わったなら、次に仏を想い描くがよい。なぜなら、仏はひろくすべての世界で人々を教え導かれる方であり、どの人の心の中にも入り満ちてくださっているからである。
このため、そなたたちが仏を想い描くとき、その心がそのまま三十二相八十随形好の仏のすがたであり、その心が仏となるということになり、そして、この心がそのまま仏なのである。
まことに智慧が海のように広く深い仏がたは、人々の心にしたがって現れてくださるのである。
だからそなたたちはひたすら阿弥陀仏に思いをかけて、はっきりと想い描くがよい。・・・

〔註〕
○三十二相八十随形好
 仏の身にそなわる32の大きな特徴と、80の微細な特徴のこと。

☆観無量寿経疏 法界身の説明
意、有縁に赴く時、法界に臨むことを顕さんと欲す。
「法界」といふは三義あり。
一には心遍するがゆゑに法界を解す。
二には身遍するがゆゑに法界を解す。

三には障礙なきがゆゑに法界を解す。

まさしくは心到るによるがゆゑに、身また随ひて到る。身は心に随ふがゆゑに「是法界身」といふ。
「法界」といふはこれ所化の境、すなはち衆生界なり。
「身」といふはこれ能化の身、すなはち諸仏の身なり。
「入衆生心想中」といふは、すなはち衆生念を起して諸仏を見たてまつらんと願ずるによりて、仏すなはち無礙智をもつて知り、すなはちよくかの想心のうちに入りて現じたまふ。ただもろもろの行者、もしは想念のうち、もしは夢定のうちに仏を見たてまつるは、すなはちこの義を成ずるなり。
(定善義 註釈版聖典七祖篇431頁)

タグ : 法界身

2009/09/23(水)
「法界身」のところで、存覚上人の言葉を引用しましたが、もう一度あげます。
歎異抄第8章の言葉にも通じることがお分かりになると思います。
ここで、『観無量寿経』の「諸仏如来はこれ法界の身」の「諸仏如来」が=「阿弥陀如来」であると説明されています。

光明寺の和尚は「行者の信にあらず、行者の行にあらず、行者の善にあらず」とも釈したまへり。無碍の仏智は行者の心にいり行者の心は仏の光明におさめとられたてまつりて、行者のはからひちりばかりもあるべからず、これを『観経』には「諸仏如来はこれ法界の身なり、一切衆生の心想のうちにいりたまふ」とはときたまへり。諸仏如来といふは弥陀如来なり。諸仏は弥陀の分身なるがゆへに諸仏をば弥陀とこゝろうべしとおほせごとありき。
存覚上人 浄土見聞集 真宗聖教全書3 379頁)

ところで、存覚上人については、一つのエントリーをさいて言及しましたが、蓮如上人がどのように思っておられたかを、御一代記聞書から示します。
引用方法はこれまでと同様です。

(158)
 前々住上人(蓮如)、南殿にて、存覚御作分の聖教ちと不審なる所の候ふを、いかがとて、兼縁、前々住上人へ御目にかけられ候へば、仰せられ候ふ。名人のせられ候ふ物をばそのままにて置くことなり。これが名誉なりと仰せられ候ふなり。

(註釈版聖典 1281頁)

【意訳】
 蓮如上人の御隠居場所である南殿へ、兼縁公がおうかがいして、存覚上人の御製作になった聖教にすこしばかり不審な箇所があるのを書きだして「これはどんなものでありましょうか」と蓮如上人へお見せしてお訪ねになったところ「名人のおつくりになったものは、不審なところがあっても深意のあることであろうから、そのままにしておくことである。そういうところのあるのが、却って名誉とされるところであろう」と上人は仰せられた。


兼縁公とは、蓮悟 蓮如上人の第16子・第7男 1468-1543 母は蓮祐
加賀若松本泉寺を開く

【解説】
 蓮如上人の先徳に対する崇敬があらわれている。小賢しい批議をさしひかえて、謙ったこころもちから、先徳の功績を称陽される床しい風格が、うるわしく描き出されてある。


【私の補足】
北塔光昇師が論文「存覚上人における祖先崇拝と先祖供養」の末尾に次のように書いておられます。

 以上、存覚上人の祖先崇拝、並びに先祖供養に対する立場を考察してきたが、それは作法等を世間に疑似させることはあっても、決して宗祖の立場を離れるものではないことがわかる。ただ、よほど注意をして上人の著作に接しないと、その真意を得ることができないばかりか、時として混乱に陥るものである。

歎異抄後序で唯円が「かまへてかまへて、聖教をみ、みだらせたまふまじく候ふ。」と書いているように、聖教はよくよく注意して拝読しなければならないと思います。
なお、この文の前には「おほよそ聖教には、真実・権仮ともにあひまじはり候ふなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人の御本意にて候へ。」とあります。
「方便」に関するコメントで「権仮方便」という言葉を初めて知られたという人もいましたが、御和讃などにもありますし、身近な歎異抄に、このように「真実・権仮」とペアで出ていますので、申し添えておきます。

タグ : 存覚上人 蓮如上人

2009/09/22(火)
このような解釈を見かけました。
(平成21年8月15日、浄土真宗親鸞会発行の顕正新聞)

無上の信心と善巧方便

釈迦弥陀は慈悲の父母
 種々に善巧方便
 われらが無上の信心を
 発起せしめたまいけり」(高僧和讃)


 弥陀の善巧方便とは19願、20願であり、釈迦の善巧方便とは『観無量寿経』『阿弥陀経』の教えである。
『教行信証』では「それおもんみれば、信楽(無上の信心)を獲得することは如来(弥陀)選択の願心より発起す。真心(無上の信心)を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり」
 われら無上の信心は、弥陀釈迦の善巧方便なくして発起することはあり得ないのである。

この中の、
 弥陀の善巧方便とは19願、20願であり、釈迦の善巧方便とは『観無量寿経』『阿弥陀経』の教えである。
が間違いです。

もし「善巧方便」「願」「経」を使いたければ、
 弥陀の善巧方便とは48願であり、釈迦の善巧方便とは『大無量寿経』、広く言えば『浄土三部経』である。
としなければなりません。

もし「方便」「19願」「20願」「観無量寿経」「阿弥陀経」を使いたければ、
 弥陀の権仮方便とは19願、20願であり、釈迦の権仮方便とは『観無量寿経』『阿弥陀経』の教えである。
とすべきでしょう。
しかし、これでは前後の意味が通らず、御和讃の説明にはなりません。

タグ : 方便 権仮方便 善巧方便

2009/09/22(火)
方便についての、蓮如上人御一代記聞書の言葉を示します。
引用:蓮如上人聞書新釋(梅原眞隆著 本願寺 ISBN4-89416-438-8)
但し、原文は真宗聖典註釈版によります。

(176)
 蓮如上人仰せられ候ふ。方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふと[云々]。
(註釈版聖典 1286頁)

【意訳】
 蓮如上人は仰せられた。
 世間では嘘も方便などといいふらすところから、方便を悪いことのようにおもいなすものもあるが、かかる間違いはあってならないことである。
 方便には権仮方便もあり善巧方便もある。
 まず、権仮方便ということについていえば、方便という権仮(かりもの)を設けて真実を顕す手段にする、さらに真実を顕したなら、方便を廃して真実を立てることであるが、ここに方便の値打ちがあるので、方便は悪いとおもうてはならないのである。
 次に善巧方便ということに、ついていえば弥陀釈迦二尊はいうまでもなく、次第相承の善知識がいろいろと善い巧みなお手廻しをなされて、私どもをみちびき、真実の信心を獲得させてくださるのである。

【解説】
 つねに仰せられる方便ということについて世俗の曲解を是正して、方便の正しい意識と価値を示されてある。
 そして方便を権仮方便善巧方便のふたつの立場から解釈なされてある。
 「方便をもつて真実をあらはす廃立の義」とあるは権仮方便の意味であり、
 「弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうる」とあるは善巧方便の義意である。

【私の補足】
方便については、これまでも述べております。
1→ここ 「観無量寿経 覚書 その7
2→ここ 「方便

また、註釈版聖典の補註15も参照して下さい。

タグ : 方便 権仮方便 善巧方便

2009/09/22(火)
宿善に関して、もう一つ蓮如上人御一代記聞書の言葉を出しましす。
引用:蓮如上人聞書新釋(梅原眞隆著 本願寺 ISBN4-89416-438-8)
但し、原文は真宗聖典註釈版によります。

(234)
 他宗には法にあひたるを宿縁といふ。当流には信をとることを宿善といふ。信心をうること肝要なり。さればこの御をしへには群機をもらさぬゆゑに、弥陀の教をば弘教ともいふなり。
(註釈版聖典 1308頁)

【意訳】
 他宗では法に遇うことは宿世の縁によるというているが、真宗では単に法に遇うというだけでなく、この法をいただいて信心を得ることを、仏の光明に培われて宿善開発するというのである。宿縁というも宿善というも信心を獲得することに結びついて始めて意味をもつのである。そこで、この真実の教法では善人も悪人も、聖者も凡夫も、あらゆる機類をもらさないで悉く信心を獲得させるように、仏の光明によって宿善を開発せしめてくださるところから、弘教すなわち広弘の救いを説く教えともいうのである。

【解説】
 この一条は宿縁と宿善とを区別したのでない。これは同じ意味に使われてある。ここでは他宗と真宗との宿縁即ち原因の味わい方の浅深を識別されたのである。「他宗には法にあひたるを宿縁といふ」は浅い味わい方をのべ、当流には「信をとることを宿善といふ」は深い味わい方をのべられたのである。
 さらに、真宗の広弘の救いは仏力が宿善を培うことまでを包含していることを示して、「群機」のすべてに信心を開発せしむる根底には、宿善を順熟せしめる仏の光明のおはたらきをさとされたのである。

【私の補足】
・以上のように、宿善の説明(味わいの表現方法)も文脈によって異なることがあります。
・基本的に真宗で宿善という言葉が使われる場合は、2つあると思います。
 ①聞法心の意味
   つまり、「宿善がある」とは仏法を聞く気持ちがあるということ。
 ②信心獲得までを含めた阿弥陀仏のはたらきの意味
  (こちらが真宗における本来の意味)
   つまり、「宿善がある」とは信心獲得したということ。
・対機として、他宗が使うような浅い味わいで書かれる場合もあるかもしれませんが、それでも阿弥陀仏のはたらきであることを抜かすと間違いとなります。
・本来の意味では、宿善があるとかないとか、厚いとか薄いとか、我々に分かるものでありません。

タグ : 宿善

2009/09/22(火)
蓮如上人御一代記聞書の言葉を出しましたので、説明を加えます。
引用:蓮如上人聞書新釋(梅原眞隆著 本願寺 ISBN4-89416-438-8)
但し、原文は真宗聖典註釈版によります。

(233)
 蓮如上人仰せられ候ふ。宿善めでたしといふはわろし。御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふよし仰せられ候ふ。
(註釈版聖典 1307-1308頁)

【意訳】
蓮如上人が仰せられた。
「世人は多く宿善をつんでいたことはめでたいというているが、これは悪い。わが真宗においては、宿善のおかげである、ありがたいことであると申すが善い」
と仰せられた。

【解説】
 宿善の順熟によってここに信心をよろこぶことができるのである。
 ところで、その宿善は自力の累積したものと心得ている人々は、自分の過去を是認して「めでたし」と自負するが、真宗においては他力の善巧方便のおかげで宿善が順熟するのであるから「ありがたし」と感佩すべきである。
 宿善の有無ということを重視せられた蓮如上人は、さらにその宿善の味わい方を諭示されたのである。

【私の補足】
善巧方便の意味については、これまで2回説明しておりますので、ご覧下さい。
 上にも「他力の善巧方便」と書かれていますように、善巧方便は真実そのものです。
 「真実と方便」とペアで語られる時の方便は権仮方便であり、善巧方便ではありません。

タグ : 宿善 方便 善巧方便

2009/09/22(火)
『歎異抄 現代語版』(本願寺)の巻末註「奥書の無宿善の機=仏の教えを聞く機縁が熟していないもの」の説明文が、浄土真宗で使われる「宿善」の意味を知る時に分かりやすいと思います。
『歎異抄 現代語訳付き』(本願寺出版社 文庫)も同じです。

宿善とは、「宿世の善因縁」ということで、信心をうるための過去の善い因縁という意味である。
 蓮如上人が『蓮如上人御一代記聞書』に、「宿善めでたしといふはわろし、御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふ」
(『註釈版聖典一三〇七頁』)
といわれたように、宿善の体は如来のお育てのはたらきであるとあおぐべきである。
 過去の世における行いを表すのに宿業の語を用いることがあるが、宿善はもともと、他力の信心をえた上で、過去をふりかえって、仏のお育てをよろこぶ言葉である。
 すなわち、獲信以前になしたさまざまな行善は、そのときは自力のつもりであったが、ふりかえってみると、他力の仏意に気づかせるための如来のお育てであったといただくものである。
 これを宿善の当相は自力だが、その体は他力であるといいならわしている。
 しかしここでいう「無宿善の機」、すなわち宿善のないものとは、真剣に法を聞く気のないものや、真宗に敵対感情をもつもののことを意味する。
 そうした人々がこの書を読めば、真宗の教えを誤解するばかりか、おそらくは念仏を誹謗し、重大な罪をつくることになると恐れて、蓮如上人は『歎異抄』を書写された時に、この一文を添えられているのである。


〔原文:漢文〕
右斯聖教者為当流大事聖教也 於無宿善機無左右不可許之者也

〔原文:書き下し文〕
右この聖教は、当流大事の聖教となすなり。無宿善の機においては、左右なく、これを許すべからざるものなり。

〔現代語訳〕
この『歎異抄』は、わが浄土真宗にとって大切な聖教である。仏の教えを聞く機縁が熟していないものには、安易にこの書を見せてはならない。

タグ : 宿善

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