21世紀の浄土真宗を考える会2009年10月

--/--/--(--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2009/10/31(土)
 一つ前の深川和上の言われることをふまえた上で、では仏教・浄土真宗の勉強はどうすればいいのかということを書きます。
 お聖教の言葉を暗記するだけではダメです。
 受験勉強とは違います。
 さて「浄土真宗の勉強の仕方」なんて大仰なことを書きましたが、立場や環境、目的によっても違いますので、ここは対象を搾りましょう。
 そこで、この記事の対象は
「自分が聞いてきた浄土真宗の教えは正しいのだろうかという疑問を持った人」
としますね。
 また、講演会や法話、またインターネットのサイトはいっぱいありますので、ここでは言及せず、書籍に限って述べます。

 くどいようですが、深川和上の言われるように、まず景色を眺めることが大事です。
 その上で、どうするのがいいかです。
 やはり、仏教を基礎から学ぶのがいいと思います。
 押しつけるつもりはございません。
 私の考えです。
 教科書、参考書はそれこそ数え切れないほどあるでしょうが、西本願寺のテキストは次のものです。

【1.勧学寮真宗講座、宗学院別科でのテキスト】
 釈尊の教えとその展開 インド篇
 釈尊の教えとその展開 中国・日本篇
 浄土三部経と七祖の教え

【2.中央仏教学院の教科書】
 宗教要説
 仏教要説
 インド・中国仏教史
 日本仏教史
 真宗史
 三経要義
 和讃要義(上)(下)
 七祖要義
 仏教各宗要義(上)(下)
 伝道要義

それぞれ1冊1,200円ほどです。
勧学寮のほうが3冊ですみますのでお薦めします。
3冊でも3,600円ですから。
暗記しかしたことのない人にとっては難しいと感じるかも知れませんが、これで「入門書」です。

次に、すでに苦笑さんが指摘していますが(苦笑の独り言)、安心論題を読まれたらよろしいでしょう。
安心論題を読もう!!

安心論題の本には次のものがあります。(私の持っているものです)
 新編 安心論題綱要(勧学寮編)
 安心論題を学ぶ(内藤知康著)
 やさしい安心論題(灘本愛慈著)
 講座 真宗の安心論題(桐溪順忍著)
はじめの3冊は本願寺の発行で、4冊目は教育新潮社刊です。

教育新潮社からは、紅楳英顕師の
 浄土真宗がわかる本
 続・浄土真宗がわかる本

の2冊も刊行されていますので、読まれることをお薦めします。

なお、手もとには
・真宗聖典
・仏教辞典と真宗辞典(何でもいいですが、各1冊あるといいです)
・ふつうの国語辞典、漢和辞典、古語辞典
くらいは置いておかれた方がいいでしょう。

真宗聖典はいろいろあります。
私が持っているのは、
・浄土真宗聖典(註釈版)本願寺出版社
・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)本願寺出版社
・浄土真宗聖典(原典版)本願寺出版社
・浄土真宗聖典(原典版・七祖篇)本願寺出版社
・真宗聖典 東本願寺出版部
・真宗聖典 法蔵館
などです。
西本願寺からは、現代語版の聖典も順次発刊されています。
この中で、最初の2冊は持っておられた方がよろしいかと思います。

【追加】
手もとに無かったので書きませんでしたが、本願寺出版社発行・勧学寮監修の
『真宗の教義と安心』
1冊だけでもいいと思います。
(さっき届いて、さっと読んで、あぁこれテキストにいいなぁと思ったのです)
800円+税ですけど、親鸞会の教学聖典9冊を暗記するより、こっちを読んだ方がいいでしょう。
スポンサーサイト
2009/10/30(金)
親鸞会の教学聖典6-37

問 神に仕えた者の恐ろしい結果を教えられた経文を書け。
答 一度、神を拝んだ者は、五百生の蛇身を受け、現世に福報は更に来たらずして、後生は必ず三悪道に堕す。


「経典」とは何か

参照した文そのものは、たぶん、諸神本懐集(存覚上人)からだと思われます。

諸神本懐集』はそれほどあつくない本で、
最初の方に

 第一には、権社の霊神をあかして、本地の利生を尊ぶべきことを教へ、
 第二には、実社の邪神をあかして、承事の思ひを止むべきこと旨を勧め、
 第三には、諸神の本懐をあかして、仏法を行じ、念仏を修すべき思ひを知らしめんと思ふ。

と書かれ、続いてそれぞれについて述べられています。
問題のところは、
「第二 実社の邪神」についての記述の中に
(中略)
されば優婆夷経には、「一瞻一礼諸神祇、正受蛇身五百度、現世福報更不来、後生必堕三悪道」といへり。この文のこころは、もろもろの神をひとたびも見、ひとたびも礼すれば、まさしく蛇身を受くること五百度、現世の福報はさらに来たらず、後生には必ず三悪道に堕つとなり。
(中略)
神明にうけつかうるもの、この報をうく。如何が、捨てて、弥陀を念じ奉らざらんとなり。まことに現世の福報はきたらずして、かえりて災難を与えん。実社の神に仕えて、一分もその要あるべからず。ひとえに弥陀一仏に付き添いてまもりたまうべきが故に、もろもろの災禍も除こり、一々の願いも満つべきなり。権社の神はよろこびて擁護したまうべし。本地の悲願にかなうがゆえなり。実社の神はおそれて悩まさず(近づかず)。諸々の悪鬼神ををして、たよりをえしめざるがゆえなり。
とあります。
本の最後には

ただねんごろに後生菩提を願ひて、一向に弥陀の名号を称すべきものなり。

と結ばれています。

さて、問題の出典は『諸神本懐集』では『優婆夷経』とありますが、『日本思想大系19』の頭注では「未詳」とあり、現在の大正大蔵経にはありません
現在までに散逸した経典なのか、あるいは偽経なのか分かりません。
大正大蔵経の中では、上記の文はありません

ということで迷宮入りでございます。

内容については浄土真宗の神祇観の問題です。
ここでは取り上げません。
ただ、上の引用を読まれたら、存覚上人が「実社の神」について述べられていることだけは分かると思います。
「都合のいい時の存覚上人だのみ」という感じがします。
親鸞会にとって存覚上人は便利な人なんでしょうか。
都合が悪くなったらポイですけどね。

なお、同じ文が『源平盛衰記』では「或文に云」として出ています。
(これはインターネットで検索すると分かります)
引用している書物は他にもありますので、巷間では伝えられていたのでしょう。

それにしても、素朴な疑問ですが「一切衆生 無間地獄」と「五百生の蛇身を受ける」こととはどういう関係にあるのでしょうか。

タグ : 諸神本懐集

2009/10/30(金)
私は加茂仰順師の本だけを読んでいるのではありませんが、
というよりもほとんど読んでいませんが、一応持っているものは次の通りです。
それにしても、山口県というのは加茂仰順師や深川倫雄師、江戸末期には教専寺の大厳師、お軽さんも出て素晴らしいところです。
(当たり前ですが、お軽さんの善知識・現道師も山口県の人ですね)
そういえば、私の近くにも山口県出身の人がいます。

☆私が持っているもの
【永田文昌堂】
  顕浄土真実信文類講要(第二巻)
  親鸞思想研究
  親鸞教学研究
  親鸞の世界 -信の領解ー
  親鸞<信>
  浄土真宗 信心
  真宗の御法義
  親鸞と人生
【百華苑】
  安心座談 お救いのみち
  真宗安心
  名號不思議の信心
  法話十二ヶ月
【探究社】
  真宗の安心

これ以外に、知人から借りているものに『御安心』があります。
また、別の知人が『西の親里』を求めることができ、いい本が手に入ったと喜んでいました。
加茂仰順師の著作はこれくらいではなく、もっとあるのでしょうが、現在はほとんどが古本としてしか入手できないですね。
永田文昌堂の『浄土真宗 信心』は新しいので、手に入れやすいです。
1冊は持っていたいものです。

タグ : 加茂仰順

2009/10/30(金)
先のエントリーの村上速水師の文の一部を説明します。

 方便とは古来暫用還廃(暫く用いて還って廃す)の意味といわれ、真実に対して誘引をあらわす言葉である。すなわち仏願(弥陀)仏教(釈尊)についていえば、阿弥陀仏が方便の願を設けられ、釈尊がこれを経典に開説されるのは、衆生の根機に応じて誘引される意趣に外ならない。しかし今、親鸞聖人がこれをあらわされるのは誘引のためではなく、仏の本意にあらざることを示してこれを廃捨させるためなのである。


方便については既に何度も書きましたように
 善巧方便
 権仮方便
の2つがあります。
「第19願、第20願は方便願である」とか「観無量寿経や阿弥陀経に説かれている方便」という時の「方便」は権仮方便なのです。
村上速水師の上の文章は、
阿弥陀仏の第19願・第20願、釈尊の観経・小経は「暫用還廃」(権用)の意味で説かれたが、親鸞聖人が化身土巻にこれを示されたのは、「権用」の意味、つまり「やりなさい」「やってみなさい」ということではなく、「簡非」の意味であり、「捨てなさい」ということなのだ。
というものです。

親鸞会は方便に関して
1.善巧方便権仮方便の混同
2.簡非であるべきところを権用として説いている
の2重の誤りを犯しております。

タグ : 村上速水 方便 権仮方便 善巧方便

2009/10/30(金)
『教行信証を学ぶ -親鸞教義の基本構造-』より
村上速水著 永田文昌堂 ISBN4-8162-5036-0 C1015)

化身土文類」の置かれる意味(P225-)
 「化身土文類」がここにおかれるのには二つの意味がある。第一には近く前の「真仏土文類」に対照する意味であり、第二には遠く「教文類」以下の真実五巻に対応する意味である。第一の意味というのは「真仏土文類」の終わりに「仮之仏土者、在下応知(仮の仏土とは、下にありて知るべし)」とあらかじめ示されたように、光寿無量の真仏に対してここでは方便の化身土をあらわすという意味である。第二の意味とは単に果についてのみならず、前五巻に説く四法(教・行・信・証)に対して、今は方便の行信因果をあらわすという意味である。すなわち真実の教義こそが浄土真宗の本質であるからこれを詳しく説かねばならないが、今は権仮方便の教義であるからこれを一巻にまとめて説かれるのである。そして方便の教義を示すのは、非なるものを簡びすてる意味(簡非)であって、これは阿弥陀仏の本意でないことをあらわして、いよいよ第十八願の真実なることを明らかにする意味である。あたかも白の白たることを説明するために、黒をもち来たって白をきわだたせるようなものである。だから親鸞聖人が方便の教義を示すといっても、これに誘引するためではなく、かえってこれに陥ることを誡められるのである。
 方便とは古来暫用還廃(暫く用いて還って廃す)の意味といわれ、真実に対して誘引をあらわす言葉である。すなわち仏願(弥陀)仏教(釈尊)についていえば、阿弥陀仏が方便の願を設けられ、釈尊がこれを経典に開説されるのは、衆生の根機に応じて誘引される意趣に外ならない。しかし今、親鸞聖人がこれをあらわされるのは誘引のためではなく、仏の本意にあらざることを示してこれを廃捨させるためなのである。このことは前の「真仏土文類」に対して真仮対弁の釈をおかれる意趣が、仮を捨てて真に入らしめんがためであったことでも知られるが、また本巻の内容がそうであって、要門釈の結びには
 此皆辺地胎宮懈慢界業因。故雖生極楽、不見三宝、仏心光明不照摂余雑業行者也
  これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども、
  三宝を見たてまつらず、仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり
とあり、真門釈の結びに
 真知専修而雑心者、不獲大慶喜心。
  まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。
とあり、「三宝を見たてまつらず」、「大慶喜心を獲ず」と、要門・真門の失を示されていることなどによって明らかである。
 つまり『教行信証』六巻は、前五巻では真実を直接あらわし(表顕)、第六巻では非なる方便を示すことによって真実をあらわす(遮顕)のであって、全六巻ただ真実をあらわすのみである。したがって坂東本の終わりには第六巻の尾題として「顕浄土真実教行証文類六」と、第六巻も顕真実の書であることを示しておられるのである。

著者紹介(発刊時)
 大正8年1月20日 岡山県生
 龍谷大学研究科(真宗学科)卒
 本願寺勧学 龍谷大学名誉教授

タグ : 村上速水 化身土文類

2009/10/29(木)
参照:
○浄土真宗本願寺派 山陰教区HP 山陰の妙好人

○『御安心』(加茂仰順著)より ↓お味わい下さい
 石州(石見国、島根県)の履善和上は、その若い時7年間、聞法に打ちこんで歩かれたそうです。そのことについてその足跡をたどってみますと、わが家を出て5年目に帰ってきました。
 父仰誓和上は、履善が玄関に立っていることを知らせに来た家内に、「草鞋の紐をとかず玄関で待っておれ」と言いつけました。しばらく出て来られた仰誓和上は、「その方の領解を述べてみよ」と申されます。
 履善は「私は堕ちる者であるが、それを参らせるとあるから、参らせて頂きますと聴聞させて頂いております」と答えます。
 仰誓和上は「そういうことであろうと思ったから、そのままで待っておれと言うたのである。ここへ上がることはならぬ。求めて真実の他力を聞け」と厳しく諭しました。お茶一杯も頂けず、履善はまた旅に出ました。
(こういうお方もあったということで、我々もまたこのようにせねばならないというのではない。)
 履善は聞いて聞いて歩いて2年して、ある山寺の老院を訪ねました。その老院は大層ご法義のあついお方でありました。
 履善は今までのことをお話ししました。そして「真の他力を教えて下さい」と言いました。老院は「あなたは7年間聞いて、今嘆かれるが、聞いて来いよのお慈悲でない。そのまま来いよのお慈悲である。現に今聞かれんあなたに聞いて来いとの注文ではない。」と諭されます。
 すると、履善は「ではこのままですか」と申せば「ちがう」との言葉。「凡夫はみな聞いてとろうとする。…」
 履善は「もう一度聞かせて下さい」と言えば、
 老院は「聞いて来いよのお慈悲ではない。そのまま来いよのお慈悲である」と繰り返される。
 履善は「そのままと仰せられるから、このままですか」と言えば、「あかん」との言葉。
 そうすること三度、そのあげく、「それでは助かりようがないではありませんか。私はもうそのようなことは聞き得ませんから、聞かずに帰ります」と言う。
 その時、老院は「高いぞな。高いぞな」と仰せられる。舎利弗でも聞く力はないと申されるが、ここのこと。下がった頭は上がりませんでした。滝の如く念仏がこぼれ出ました。聞こうと思えば聞きうるように思っていたが、どれほどたっても助かる縁の無いのが私であった。如来のご威徳でこそ聞かされるのでありました。
 履善は家へ帰って来ましたら、仰誓和上は飛んで出てきて、「よう帰った。早く上へあがれ」とやさしく申されました。今度はどう聞いたかもありません。「えらかったろう」と言われました。履善の手をしっかり握って喜ばれました。父仰誓和上には、何もかもその心の中が分かっていたのでした。
 私には聞く力はありません。他力のお仕上げの法を聞かせてもらうことです。永劫かけて沈む私、逃げ場のない本願のお手際のよさをよろこぶばかりです。
 後に履善和上は、これを詩にあらわしていられます。「久しく妄心に向かって信心を問う 断絃を撥して清音を責むる如し 何ぞ知らん微妙梵音の響 劉亮として物を悟さしむ 遠且つ深」と。
 聞くうちにはそういうお慈悲かいなと目が覚めるであろうと思っていた私でした。何ぞ知らん微妙梵音の響で、摂取不捨と変えてしもうて下されます。自分の勝手聞きではありません。他で聞かせてもらうなら、聞きました、頂きましたというものが残るものではありません。領解をたのむのではない。弥陀をたのむのであります。一から十まで、南無の二字のご威徳でありました。安らかな世界へ安住するは、ひとえに法体成就のご威徳でありました。
 地獄一定の私を助けてやるでない。なぜなら、地獄一定といっても私には堕ちる気はないのです。地獄といっても口だけです。ねじのかからん機とはこの私のことです。破れ常前とは私のことです。自身は現にこれ罪悪生死の凡夫であり、出離の縁のない私です。とかくこういうあさましい者を助けて下さると言うておりますが、私があさましいと問題にした者が助かるのではない。私がつまらんからお助けではない。あさましいからお助けではない。助かろうと、助かるまいと、弥陀の本願の前にはすべて否定されるのです。小経には舎利弗が叩かれています。つまっても、つまらんでも、六字で否定しつくされるのです。
 如来この我となって「とりえなし」とあらわして下さるのです。自力無功とあらわして下さるのです。はたらきにふれるからこちらの自力が負けたのです。私の理解や概念が破られる。思う思わんに用事のない法を、用立てしようとしていた私、まったく当てのはずれたことであります。六字はいつも私のところへ来て下さいますから、私の計らいが一切負けです。私が聞いたから破られるのではない。如来のはたらきで破られる。破るはたらきが南無に仕上がっている。聞いたものでやっているのはあかんことであります。そのようになろうとするには、法を眺めものにしていること。六字の法を聞くほかはありません。思うも思わぬも見られた立場に立つのが信知の世界です。さきの話ではないが、頭の上がらんものの前に立つのです。背中を向けている自己が知らされるのですから、一生涯頭が上がらんのです。助かりたい一杯が自力一杯。助からん私とは、私の本来の姿です。それは如来がすべてをはぎとって、その通りのままにせしめてしもうたことです。助からんという心境になろうと思うたからなったのではありません。六字が我になってしもうたのです。
 親の見た本当の私であること、それは親が来た姿です。その意味で、助からぬとは言わせての親の声です。私はなりたい一杯ですが、それを破られたから、こちらが負けです。親が来ておりますから、たのまずにはいられないのです。信ぜずにはいられないのです。称えずにはいられないのです。これ雑行すてて弥陀たのむのです。念仏したら、信じたらではありません。念仏せずにはいられない身であります。
 なんと高大な仕掛けがあったものです。弥陀のはたらきは、まったく不思議というほかはありません。こんな不思議はまたと世にはありませんでしょう。

タグ : 加茂仰順 履善 仰誓

2009/10/29(木)
親鸞会で語られる妙好人に関する話は間違っているのが結構あります。

・大和の清九郎は仏法を聞く前は手のつけられない荒くれ者だったというのは間違いで、初めから親孝行なまじめな青年でした。
・六連島のおかるが、主人の葬式を親戚にまかせて仏法を聞いたというのは間違いで、ともに念仏者になっています。

他の人の伝承が混ざり合ってしまい、それを検証することもなく使われているのでしょう。
これは妙好人の話に限ったわけではありませんが・・・

タグ : 妙好人

2009/10/29(木)
ある方がコメントで書いて下さっていましたが、
妙好人のことば』(梯 實圓著 法蔵館 ISBN978-4-8318-2313-7 C0015)
もいい本です。
さきに紹介した市原栄光堂の妙好人物語の梯師のもので、この本と同じ人物の場合は、梯師はこの本の文章を朗読している形を取っているのもあります。(全部ではないです)
ではCDはいらないではないかと思いもしますが、

本は目を開けていないと読めませんが、CDは目を閉じて聞けます。
(↑これは非常に大事。途中で目を開けていられなくなるのです)
本は一人でしか読めませんが、CDは多くの人と一緒に聞けます。
本はそれに集中しなければなりませんが、CDはこうやって原稿を書きながらでも聞けます。
CDを携帯プレイヤーに落とせば(やってませんけど)、どこででも聞けます。

など、CDの利点はあります。
持っていない人もおられるでしょうから、ちょっとだけ抜き書きします。

 その頃の事情を、現道師の「日記」には、
「今日もおかるがたずねてきて、いろいろと話をしたが、お慈悲がわからんと、泣きながら帰っていった。私に力がないばっかりに、なっとくのいくように教えてやることができない、すまんことだ」
という意味のことが記されているそうです。「お慈悲がきこえません」と悲痛なさけびをあげて帰るおかるのうしろすがたに、合掌しながら自分の力なさをあやまっている住職の姿もまた、こよなく美しいものでございます。妙好人のうしろには、世間的には知られていなくても、尊い善知識がいたことを忘れてはなりません。

(六連島のおかる P58)

現道師みたいな人を「善知識」っていうんですね。

タグ : 梯實圓 妙好人 お軽

2009/10/28(水)
『無量寿経ガイド』(山口教区基幹運動推進委員会編 探究社刊)の説明
(ISBN4-88483-682-0 C0015)

  三輩段は、人天の機類を上輩・中輩・下輩の三種類に分けて、それぞれに往生のための因行と往生の姿が示されています。
  上輩には、因行は「家を捨て欲を離れて修行者となり、さとりを求める心を起して」という諸行と「ただひたすら無量寿仏を念じ」という念仏が挙げてあります。往生の姿は、臨終来迎と彼土不退転と神通力が説かれてあります。
  中輩には、因行は「この上ないさとりを求める心を起し」「八斎戒を守り、堂や塔をたて、仏像をつくり、修行者に食べ物を供養し、天蓋をかけ、灯明を献じ、散華や焼香をして」という諸行と、「ただひたすら無量寿仏を念じる」という念仏が挙げてあります。往生は、化仏の来迎と彼土不退転等が説かれています。
  下輩には、因行は「この上ないさとりを求める心を起し」という発菩提心という諸行と、「十念」の念仏を挙げています。往生は、夢のごとくに仏を見て往生と説かれています。
  この三輩段は、このように三輩ともに諸行と念仏とを挙げてあります。これを法然上人は「選択集」三輩章に、「三輩念仏往生の文」と標挙して引用されてありますから、この三輩を念仏往生の文と解釈されたということができます。つまり三輩は第十八願の十方衆生、諸有衆生を開いたと見られたのです。
  これに対して、御開山さまは、『本典化巻』に第十九願を引用して、後、「此の願成就の文は、すなわち三輩の文これなり」として「『大経』にいはく」として三輩の文を引用されていますので、三輩段は十九願諸行往生の文と見られたということになります。
  なぜこのような異なった解釈が出てくるかということは、法然上人の三輩章の解釈に、諸行と念仏の取り扱い方を三種類に分けてあるところから来るのです。その三種類の立場とは「廃立・助正・傍正」です。
  第一に、廃立とは、念仏は本願の行であるから立て、諸行は非本願の行であるからこれを廃するという立場です。この場合、念仏一法を修するのですから、諸行が示されてあるのは、機類を示すだけであって、実際に修するのではないということになるのです。すなわち、かつて諸行を修していた機類に上中下の差別があることを表し、これらの差別の機類もみな念仏の一法によって救われることを説いているのです。この立場は非本願の諸行を廃し、本願念仏を立てるのですから、三輩段の文は弘願の念仏往生を示すことになるのです。
  助正とは、諸行をもって念仏を助け、この助けをもって往生の因行に擬するのです。この立場は要門に属することとなり、三輩段の文は自力諸行往生となります。
  傍正とは念仏と諸行を相い並べて、いずれも往生の行として取り扱いつつ、その中に傍正を分ける扱いです。この場合、念仏は諸行と同格で、万行超過の弘願念仏ではなく、万行随一の念仏ということになります。この立場でいうと傍正とは要門諸行往生となるわけです。
  以上、三輩の廃・助・傍の扱い方に従えば、廃立の立場では、弘願念仏往生となり、助正、傍正の立場では、要門諸行往生となります。三輩段の取り扱いを法然上人が念仏往生の文とされるのは廃立の立場であり、宗祖がこれを諸行往生の文とされるのは真仮をたてるからにほかなりません。
(以上)

これをまとめますと
【廃立の立場 弘願念仏往生】
上輩 諸行 捨家棄欲而作沙門発菩提心→廃
    念仏 一向専念無量寿仏→立
中輩 諸行 当発無上菩提之心
       多少修善奉持斎戒起立塔像飯食沙門懸燃燈散華焼香→廃
    念仏 一向専念無量寿仏→立
下輩 諸行 当発無上菩提之心→廃
    念仏 一向専意乃至十念念無量寿仏→立

これが分かりにくければ、並び変えると次のようになります。
どちらがいいでしょうか。

諸行→廃
  上輩 捨家棄欲而作沙門発菩提心
  中輩 当発無上菩提之心
     多少修善奉持斎戒起立塔像飯食沙門懸燃燈散華焼香
  下輩 当発無上菩提之心
念仏→立
 上輩 一向専念無量寿仏
 中輩 一向専念無量寿仏
 下輩 一向専意乃至十念念無量寿仏

【助正・傍正の立場 要門諸行往生】
三輩とも念仏は万行随一の念仏で、諸行と同格

となります。

タグ : 大無量寿経 三輩段

2009/10/27(火)
先日、西本願寺で購入したCDです。
全部、市原栄光堂のものです。
ほとんど1枚税込2,100円でした。
(1枚は2,310円、1枚は2,200円、他16枚は2,100円)
何度でも聞けますし、いいですよ。
※市原栄光堂のサイトからも求めることができます。

梯 實圓師
 二河白道のたとえ
 生と死に想う
 教行証文類講讃② 總序のこころ
 教行証文類講讃⑥ 行信の利益
 教行証文類講讃⑦ 浄土真宗の信心
 他力こころ
 親鸞のみあと慕いて⑨ すばらしき出遇い
 やさしい浄土真宗入門⑤ 南無阿弥陀仏のこころ
 妙好人物語 六連島のお軽・三河のお園
 妙好人物語 浅原才市
 妙好人物語 讃岐の庄松
 妙好人物語 大和の清九郎
 妙好人物語 名僧列伝その1(香樹院徳竜師、一蓮院秀存師、見敬院針水師)
 妙好人物語 名僧列伝その2(陳善院僧樸師、円成院南渓師、専精院鮮妙師)

三宮義信師
 妙好人物語 因幡の源佐
 妙好人物語 赤尾の道宗
 妙好人物語 和泉の吉兵衛
 妙好人物語 三河の七三郎
2009/10/27(火)
下に「興福寺奏状 第六 浄土に暗き失」を書きます。
(コピー&ペーストしたのではありませんよ)
簡単に言えば、
阿弥陀仏の力を信じ、専修念仏だけでどんな者でも往生できると説き、諸行往生・兼修を否定するのは因果の道理を無視した愚痴の輩である。
となります。

第六に浄土に暗き失。観無量寿経を勘ふるに、云く、「一切の凡夫、かの国に生ぜんと欲せば、まさに三業を修すべし。一は、父母に孝養し、師長に奉仕し、慈心にして殺さず、十善の業を修す。二は、三帰を受持し、衆戒を具足して、威儀を犯さず。三は、菩提心を起して、深く因果を信じ、大乗を読誦すべし」と云云。また九品生の中に上品上生を説いて云く、「諸の戒行を具し、大乗を読誦すべし」、中品下生に、「父母に孝養し、世の仁愛を行ふべし」と云云。曇鸞大師は念仏の大祖なり。往生の上輩において五種の縁を出せり。その四に云く、「修諸功徳」、中輩七縁の中に、「起塔寺」「飯食沙門」と云云。また道綽禅師、常修念仏三昧の文を会して云く、「念仏三昧を行ずること多きが故に常修と言ふ、全くに余の三昧を行ぜずと謂ふにはあらざるなり」と云云。善導和尚は、見るところの塔寺、修葺せずといふことなし。しからば、上、三部の本経より、下、一宗の解釈に至るまで、諸行往生、盛んに許すところなり。しかのみならず、曇融、橋を亘し、善晟、路を造り、常旻、堂を修し、善冑、坊を払ひ、空忍、花を採み、安忍、香を焼き、道如、食を施し、僧慶、衣を縫ふ。おのおの事相の一善を以て、皆順次の往生を得。僧喩の阿含を持し、行衍の摂論を論ぜし、小乗の一経と雖も、おのおの感応あり、実に浄土に詣す。沙門道俊は、念仏隙なくして大般若を書せず、覚親論師は、専修他を忘れて釈迦の像を造らず。皆往生の願を妨げて、大聖の誡を蒙る。永くその執を改めて、遂に西方に生ず。まさに知るべし、余行によらず、念仏によらず、出離の道、ただ心に在り。もし夫れ法花に即住安楽の文ありと雖も、般若に随願往生の説ありと雖も、彼はなほ惣相なり、少分なり。別相の念仏に如かず、決定の業因に及ばずとならば、惣は則ち別を摂して、上は必ず下を兼ぬ。仏法の理、その徳必ず然なり。何ぞ凡夫親疎の習を以て、誤って仏界平等の道を失はんや。もし往生浄土は、行者の自力にあらざれば、ただ弥陀の願力を憑む。余経余業においては、引摂の別縁なく、来迎の別願なし。念仏の人に対して及ぶこと能はざるにおいては、弥陀の所化として来迎に預かるべし。あに異人ならんや、是の人なり。釈迦の遺法に遭ひて、大乗の行業を修す、即ちその体なり。もしかの尊に帰せざれば、実に無縁と謂ふべし。もし念仏を兼ねざれば、かつは闕業たるべし。既に二辺を兼ねたり、何ぞ引摂に漏れん。もし専念なき故に往生せずとならば、智覚禅師は毎日一百箇の行を兼修せり、何ぞ上品上生を得たるや。およそ造悪の人は、救ひ難くして恣に救ひ、口に小善を称するは、生じ難くして倶に生ず。「乃至十念」の文、その意知るべし。しかるに近代の人、あまつさへ本を忘れて末に付き、劣を憑みて勝を欺く。寧ぞ仏意に叶はんや。かの帝王の政を布くの庭に、天に代わって官を授くるの日、賢愚品に随ひ、貴賤家を尋ぬ。至愚の者、たとひ夙夜の功ありと雖も、非分の職に任せず。下賤の輩、たとひ奉公の労を積むと雖も、卿相の位に進み難し。大覚法王の国、凡聖来朝の門、かの九品の階級を授くるに、おのおの先世の徳行を守る。自業自得、その理必然なり。しかるに偏に仏力を憑みて涯分を測らざる、是れ則ち愚癡の過なり。なかんづく、仮名の念仏、浄業熟し難く、順次往生、本意に違失あり、戒恵倶に闕く、恃むところ何事ぞや。もし生を経て漸く成就すべくは、一乗の薫修、三密の加持。あにまたその力なからんや。同じく沈むと雖も、愚団の者は深く沈み、共に浮むと雖も、智鉢は早く浮む。況や智の行を兼ぬるは、虎の翅あるなり、一を以て多を遮す。仏宜しく照見すべし。ただし此のごときの評定、本より好まず。専修の党類、謬って井蛙の智を以てし、猥しく海鼈の徳を斥ふの間、黙して止み難く、遂に天奏に及べり。もし愚癡の道俗、この意を得ず、或いは往生の道を軽んじ、或いは念仏の行を退け、或いは余行を兼ねずして、浄土に生ずることなくは、全くに本懐にあらず、還って禁制すべし。たとひまたこの事によって、念仏の瑕瑾たりと雖も、その軽重を比するに、なほ宣下に如かざるか。
(日本思想大系15 鎌倉旧仏教 興福寺奏状)
2009/10/26(月)
親鸞会のHPに掲げられている次の文章を、一つ前のエントリーの加茂仰順師の言葉と読み比べられるといいでしょう。

聞法の決勝点

「仏法は聴聞に極まる」と蓮如上人は道破される。
 では、どこまで聞けばよいのか。聞法の決勝点を親鸞聖人は、こう明示されている。
「仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを『聞』と曰うなり」(教行信証)
「仏願の生起・本末」を聞いて、疑いの全く無くなった時が決勝点との確言だ。
「仏願」とは阿弥陀仏の本願。「本願」は「誓願」ともいわれ、お約束のことである。
 約束には必ず相手がある。弥陀の誓願はどんな者を相手に建てられたのか、本願のお目当てを「生起」という。
(中略)
「弥陀が見抜かれたとおりの、絶対助からぬ逆謗でありました」
「自身は、現に、これ罪悪生死の凡夫、昿劫よりこのかた、つねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし、と深信す」と機の深信が立つと同時に、その逆謗を生かす「若不生者」の誓いに疑いが晴れるのだ。
 そこまで聞き抜け、と聖人は仰せなのである。

「雑行」が分からぬのは なぜか

 一生造悪の自己を徹見すれば、後生に恐ろしい結果が惹起することは必定だ。
 この一大事に驚けば必ず、悪をやめ善をしようと「廃悪修善」の心が起きる。ここで初めて「雑行」が出てくるのだ。
 釈迦の大雄弁をもってしても、ここまで導くのは並大抵ではなかった。
 信仰が進んで後生が問題になった人でなければ、自力も雑行も分からず、雑行が廃って助かることもあるはずがない。
 捨てよと言われる「雑行」を知るには、まず後生の一大事を知らねばならないのだ。
 これが仏法の出発点である。


上の2つの文章は両方とも間違っています。
(間違いについてはすでに指摘しました)
間違っているついでに互いに矛盾しています。

自分のすがたを知ることは「決勝点」なのか「出発点」なのか。
出発点に立つ為に、仏法を聞いているのか。
雑行を知る為に、仏法を聞いているのか。
今救われたいのに、「まず後生の一大事を知らねばならない」と難題をふっかけるとはどういうことか。

これでは確かに50年くらいで合点できるはずはありません。
2009/10/26(月)
 私の形や心にあらわれるすべての模様を、弥陀は、ほんのそのときの有様であると見て、そんなことにはおかまいなく、私の気のつかない、どうしても落ちねばならない私の素地にお眼をつけさせられたのでした。そしてこの望みの絶えた素地こそが弥陀の目当てである。その素地のためゆえに、五劫の思惟、永劫の修行の元手をおろしたぞ。それだから後生にかけての心配ならどれほどあってもかまうことはない。案ずるな、世話やくなとの仰せです。
 しかるにこの私はそれとは知らないで、どうでもよいはずの心の有様にこれでよかろうか、これではいけませんかと心痛しています。この心の有様がたとえ「有難い」とか、「安心した」とか、「うれしいことよ」とかになれたとしても、そんなことでおよろこびになる弥陀じゃありません。私の知らない、少しも気のつかない、後生にかけてはまじめさのない、大事のかからない私。勿論お浄土へは参る望みもない、それかと云って地獄へ行くことも何ともない、とたとえてみれば、目の形も、鼻の形もない、本当にしようしかたのない、この素地が、見抜いたときと少しも変わりがなかったら、わが六字がまるまる役に立つゆえ、この弥陀はうれしい。
 要するに「有難い」も「うれしい」も「ほんまかしらん」も、みんな心の模様です。「それならばおかしなことぢゃ」と思うことも心の模様。そんなことはあってもよい。いよいよ駄目な素地を見抜いて、それをめがけていのちがけでおひきうけくださってある弥陀であります。
 弥陀いつも「直ちに来れ」と喚びたまうてあります。その「直ちに」とは何一つも用意はいらないということ。親の待つ前には土産も、着物もいらぬ、いまのすがたのままぞよ。欲も怒りも、愚痴も、捨ててではない。地獄行きのまま、いのち終わり次第、連れてかえるのお助けであります。この私が仏くさくなってからではない。見抜かれた私の素地のまんまが喚ばれておるのです。そして与えられたままのものから南無阿弥陀仏と口から出て下さるのです。

タグ : 加茂仰順

2009/10/25(日)
昨日は、京都へぶらっと行ってきました。
と言いましても、西本願寺⇒谷書店⇒法蔵館と書籍の物色だったのですが、やはり浄土真宗関係の本は東京より京都の方が多くていいですね。
先日、谷書店で梯師の
 玄義分抄講述 ― 幸西大徳の浄土教
 法然教学の研究
を買いましたが、まだ置いてありました。
(さすがに2冊目は買いませんでしたけど))
谷書店では「こんなのが欲しい」と店長さんにも探してもらいながら何冊か買いました。
勧学の人達もよく店に来られていたそうです。
店に積まれた仏教書を見て、一生涯かかってもとても読めないだろうと思いながら、とりあえず
 梯 實園師
 深川倫雄師
 加茂仰順師
の本をめあてに谷書店はじめ3箇所を回りました。
その他では
 稲城選恵師
 桐渓順忍師
の本などのも少々を求めました。
梯師の本は可能なものはほとんど持っていますので、今回買ったのは主に市原栄光堂のCDです。
それでも法蔵館には
「生死を包むもの」(百華苑)
という100ページほどのまだ持っていない本がありました。
谷書店の店長でさえも梯師の「西方指南抄序説」は見たことがないと言っておられました。

夜は、ほぼ30年ぶりに大学の先輩と会いました。
もうこの世では会うこともないと思っていたのですが、再会がかなって良かったです。
古い都への出逢いとはいつもこうして始まるものだといいです。(伊勢正三ふう)
いやぁ、人生って本当に面白いもんですね。
(水野晴朗ふう)
2009/10/24(土)
親鸞会の公式HPの“現代に生きる仏教”に“「雑行」が分からぬのは なぜか”の文が載っていました。
http://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20091020zougyou.htm

私が、10日ほど前に“顕正新聞を読んで”で指摘した論説です。
「阿弥陀仏の本願」と「自力」とが完全に分離した内容だということがお分かりになると思います。
この理屈だと、比叡山で修行をしていても「雑行が出てくる」ことになるのですが、そういうことが全く分かっていないのがこの文章を書いた人です。
親鸞会がもはや浄土真宗でないことがよく分かる文章です。
2009/10/24(土)
季刊 せいてん №3(1988 夏の号)
「対談 浄土真宗の信心」より、梯實圓師の言われていることを抜き書きしました。
以下、引用です。


 如来さまは称名念仏を決定往生の行と選び定め、「お願いだから、お念仏してくれよ」と願っておられる。そこで念仏するということは、如来さまのお心に随順することであり、決定往生の行であると信知されました。したがってじつは念仏往生と領解するとこのほかに信心はないんですね。念仏往生と信ずることが本願に対する絶対の信順なのです。そして、行というものの意味がこのときに変わるわけなんです。

 従来の仏教でしたら、善い行いをすれば悟りが開け、悪い行いをすれば地獄に堕ちるというふうに、善悪の行によって迷いと悟りを決定しようとします。したがって悪人に救いはありえません。ところが法然聖人の宗教は決定的にちがいまして、念仏往生の本願を信ずるか疑うかによって迷いと悟りを決定しようとします。それを信疑決判といいます。そのことを示したのが、「信ずるがゆゑに涅槃に入り、疑ふがゆゑに生死にとどまる」という有名な言葉です。その意味で法然聖人の浄土教は、本質的に信心の仏教なのです。
 つまり念仏という行は、わたしが煩悩を断ち切るために行ずるものではなく、煩悩あるがままを救う阿弥陀仏のいますことを信知する行であり、如来の平等の大悲の表現であるような行であるとみられたわけです。

 浄土宗(浄土真宗)とは、阿弥陀仏が万人を平等に救うために選び定められた、念仏という本願の行を説く宗教である、ということをはっきりさせるために、念仏往生の旗印をかかげられたわけです。しかしそれはそのまま、念仏往生を誓われた「本願を信じて念仏せよ」と教えることになりますから、信心を勧めたことになるわけです。
 法然聖人はそれについて、「衆生称念必得往生としりぬれば、自然に三心を具す」(称名念仏すれば必ず往生を得ると心得れば、おのずから信心はそなわっている)と示されています。つまり、念仏申せば必ず助かると思っていることは、念仏往生を誓われた本願を信じていることにほかなりません。
 本願の信心が念仏の声となって表れている以上は、念仏申すほかに信心をわが心の中にさがし求めるな、とさえいいます。これは隆寛律師の『後世物語聞書』の中にはっきり出てきます。また法然聖人は「南無阿弥陀仏と申せば声につきて決定往生のおもひをなせ」ともいわれています。「なんまんだぶ・なんまんだぶ・なんまんだぶ」と聞こえているその声を聞けば、念仏の衆生を摂取して捨てないと誓われた本願がたのもしく味わわれるということでしょう。

 たしかに法然聖人は念仏往生を強調されており、親鸞聖人は信心の形而上学といっていいほど信心の徳を強調し、信心が大菩提心であり、成仏の正因であるといわれています。しかしそれは力点の置き方にちがいがあるだけで「本願を信じ、念仏申さば仏になる」という基本的な信条はまったく同じです。
 だから法然聖人は念仏往生で、親鸞聖人は信心往生である、というふうに二つの立場に分けてしまう考え方には、わたしは賛成ではありません。もともと念仏往生と信心往生とは行法を語るか、機受をあらわすかのちがい、つまり、どのような行をなすべきかを明らかにする立場と、念仏を疑いなくいただいていく立場のちがいで、一つのことがらをあらわしていました。
 前にもいいましたように念仏は善悪、賢愚のへだてなく、万人がそれによって生死を超えるべく、如来が成就された普遍の行法であり、信心とは、その南無阿弥陀仏が、わたしの助かる道であると疑いなく聞き開いたことです。この信によって行がわたしの道になるのですから、信心を肝要とするといわれるわけです。親鸞聖人はこれを行信とよばれています。

タグ : 梯實圓

2009/10/23(金)
釈尊の沈黙の意味については既に一度書きました。
観無量寿経 覚書 その2
ところで
「私は仏法を聞いているのになぜ救われないのだろうか?」
という疑問を持っている人もいるでしょう。
先の「極難信」に引いたこととは違った観点から言いますと、それは、
「あなたの聞いている“仏法のようなもの”が正しくないからです。つまり、正しい仏法を聞いていないからです。」
とも言えます。
(某ブログなどに書かれている「因果の道理」などはとても仏の教えとは言えません)
「釈尊の沈黙の意味」一つをとっても、真逆の意味で説明している人もいます。
これでは阿弥陀仏、釈尊の心を知ることはできないでしょう。
『観経疏散善義講讃』深川倫雄著 320頁より引きますので、読んで下さい。

捨てて流転せしむべからずとは、仏の慈悲の心である。罪業の衆生を救うという如来は決して罪業の奨励も許可もしない。人はみな現在を生きる。未来に向かって生きる。過去はそれが善悪の何れであれ、どうすることも出来ない。
 例えば『観経』の序分、韋提希夫人の王宮に降臨された世尊は、怨を子に致して、悶絶号哭し、何等因縁と問い奉るに対して、黙然として語りたまわず。過去を解明してもどうすることも出来ない。現在の苦を知らんと欲せば過去の因を見よという言葉(註⑦)は、理かは知らねども慈悲なき言葉である。過去が現在を救いはしない。夫人の心が未来に向い、我を教えて清浄業処を観ぜしめよと請い奉ると、忽ちに光台現国以下、身業、口業の説法が始まった。太子、父王、夫人、その他の織りなした逆悪など、既に造れる罪業を問責するものではないことを示している。ことは未来にある。
既に造った罪業は、その苦報を思うにつけ捨ててはおけないのが如来の慈悲である。それが五劫思惟の時、一切衆生の曠劫流転の姿をみそなわした慈悲の心である。


註⑦ この語は伝聞して『因果経』にありというが、因果経は現存せず、文を検し得ない。

タグ : 深川倫雄 観無量寿経

2009/10/23(金)
加茂仰順師 『親鸞<信> -本願の念仏-』(永田文昌堂)より ②
極難信 352頁
(一部漢字、かなを変えてあります)
大切なのでよく読まれることをお薦めします。

 もしも真宗のおみのりは聞けば聞くほど難しいという者があるならば、それは理屈を知ろうと思うからです。真宗は、無上の妙果に至らせていただくのですが、その無上の妙果に至るのは易いが、真実の信心を得ることが難しい。なぜ難しいのかというと、真実の信心は、如来の加威力によるからである。また如来の大悲広恵の力によるからである。つまり、如来から与えて下さるものだから難しいのであります。
 それはまたなぜでありましょうか。与えて下さるものを私がつかもうとするから難しいのであります。
 与えて下さる如来の名号の親心を私がすなおに聞けばよいのですのに、それを私がしっかり信じてとか、称えてとか手を出します。ここに難しいといわれるところがあります。聞けば聞くほど難しいのではありません。聞いて信じて、しっかりなってと私が難しくしているのです。聞いて、こういうおかげでと理屈で知ろうと思うのです。私が信ずるということ、しっかりなろうとすることに力を入れるから難しいのです。
 如来はしっかり信じたら、称えたら、しっかりなったらというのではありません。よい加減のことであればどうでもよいのですが、弥陀のおさとりの得られるだけのものだとなると、私ごとき者に出来るものではありません。だから、こちらからどうにかなってではなく、如来からそのお助けがあらわれて下さらねばなりません。
 それは私が見とどけてとか、それをしっかり仕とおせとかいうものではありません。
 如来のお助けはよびごえとなって、私の中へあらわれて下さるのであります。如来のお助けのはたらきが声となってあらわれて下さるのであります。この私のあさましさに泣いているのであればまだしもですが、今のすがたが悪いとも気付かず、これでよいのだという日暮しをしております。それゆえこの私に慈悲の涙を流されているのです。
 この私のために本願をたて、それを仕上げていま南無阿弥陀仏となって、私を喚んで下されてあるのです。あさましい私を知って、その知った私を助けて下さるのが南無阿弥陀仏だとなると、罪福信ずる行者になります。お助けも代償になってしまいます。私は自分のことも問題とせず、しらぬ顔の者だそうですが、私が問題とせねばならぬことを、如来が心配して下さるのが真宗であります。私の助けられてゆく法までを如来が心配下されて、成就して下されたのが南無阿弥陀仏であります。それゆえ南無阿弥陀仏を向こうに置いて信じにかかるのではなく、南無阿弥陀仏のはたらきが、私にあらわれて下さるのであります。(中略)そういういわれの南無阿弥陀仏を、信じよう、いただこうとと手を出すものですから、いただけないのです。難信の法とは、ここのところを仰せられたのです。難しいのは法ではありません。ゆきやすい、こころえやすい法を私の計らいをもって、いただきにかかるところに、難信の法にしてしまっているのであります。

タグ : 加茂仰順

2009/10/23(金)

すなはちみづから思念す。「われいま回らばまた死せん。住まらばまた死せん。去かばまた死せん。一種として死を勉れずは、われむしろこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり。かならず度るべし」と。

自ら思念すらくとは要門の機、信罪福の行者の自らの思案の仕所である。
迴らば亦死せん、住まらば亦死せん、去かば亦死せんとは、俗にこれを三定死という。
定死とは定んで死せんの語による。
迴えるとは、世間に交って、道徳の世界に安住するをいう。
これは曠劫以来繰り返して来た三途流転の道である。
住るとは煩悩の二河の前、東岸で左右する、即ち南北すること。
ここかしこに三乗の道を求め、ある種の宗教的世界に止まっても、所詮それは出離は難く流転は免れない。
とは人天、とは聖道、とは浄土とする解もあって佳し。
去くとは諸の善根を積植して西方へ往生を願じても、己の水火二河の煩悩の罪の重さに打ち勝つ自信はない。
即ち、進むも、流転に帰する。
この三定死は、今日、真剣な求道と称する者の自覚の時点であって、この時点では、この人は自力要門、信罪福の者である。

(『観経疏散善義講讃』深川倫雄著 254頁より)
※強調は深川師によるものです。見やすいように改行のみ変更してあります。

タグ : 深川倫雄 三定死

2009/10/22(木)
加茂仰順師『親鸞<信> -本願の念仏-』(永田文昌堂)より
 それは、昔、鮮妙和上さんがある所でお手洗いにゆこうと思って、その入口の戸を右に引いても左に引いても開かないので、こまっていられました。幸い主人が来たから、戸が開かぬと申されたら、むこうに開く戸ですから、おいでなさればひとりでに開くと申しますから、その言う通りにされたら何の事もなく通れたということであります。
 自分の計らいを、右に引いたり、左に引いたり、こちらへ引っ張ったりしておれば、難中の難これにすぎたるはなしであります。そのまま来いよのお言葉に従うて、はいと従えば、どうして戸が開いたやら、どこで疑いが晴れたやら、往生一定、たしかな信心の戸が開いて、何の様もなく参れる。ささいなたとえでありますが、和上さんの身にふかく感じられたということであります。

タグ : 加茂仰順 利井鮮妙

 | Copyright © 21世紀の浄土真宗を考える会 All rights reserved. |  Next

 / Template by パソコン 初心者ガイド
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。