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21世紀の浄土真宗を考える会2010年06月

2010/06/05(土)
豊島學由師の著作より
豊島師は中央仏教学院講師で本願寺派の布教師さんですが、いくつかの著作もあり、総会所でも時々説法されています。
稲城選恵和上とのご縁が深いようですね。
いくつかの著作を読ませていただきましたが、大変わかりやすくお薦め致します。
(「法話集」「小話集」という形を取っていることが多いので、1冊の本の中でも重複した話が掲載されていますが、それはまたそれでよろしいかと思います)

『死はかねて生のうちにあり』(豊島學由著 自照社出版刊 平成20年)118頁~
 安心とは、文字通りに解釈すれば、横になって寝る状態です。だから安静ともいいます。確かな「信心」を落としたり失ったりしないようにしっかり握っているようなのとは逆で、まったく力みのない状態であります。ある作家は、「親鸞聖人の信心は簡単に獲得したのではなく、疑って疑ってどこまでも疑って、疑い切れなくなった上での自力の極限において獲得した信心であるから、どんなことがあってもくずれるような信心ではない、そんな浅い信心ではない」といっておりますが、それは硬心であって、それこそ自力心の状態であります。また「信ずる一つで救われる」という表現をよく耳にしますが、これを聞く側にとりましては、信じたら救われるというふうに、信じるのはこちらのすることのように誤りやすい表現であります。

 このような立場に立つとどうなるかを考えてみますと、「私は如来の救いを信じております」となって、絶対間違いないと思い込んだ状態なのであります。今この原稿を大雨のさなかで書いておりますが、私は「大雨であることを信じております。大雨を疑っておりません」と少しも言う必要がありません。天気予報で明日は多分大雨ですなどど聞けば、私は雨に間違いないと思います。しかし、それはあくまでも明日のことであります。真宗のご信心は、来世のお浄土参りに間違いないと信じこむことでなく、今現在必ず救うの本願成就の名号の聞こえたままがご信心であります。蓮如上人が「行者のをこすところの信心にあらず」といわれたのは、こちらが信ずることではないと言われたものと窺います。

 小山法城和上のご生前中、機会あるごとに布教の心得をお教え頂いたのでありますが、和上のいつもおっしゃっることは「お同行は寝かせておいてもいいから、お名号を寝かせておくようなご法話はするなよ」のご注意でした。お同行に、よく聞いたら、信じたらと、聞き手を力ませるような話は、たいていお名号を向こうに置いたままおいわれと称して説明や解説に力を入れてお名号のご讃嘆を忘れているからだよと言われました。

 それにしても親鸞聖人の最大の問題は、自力心にあったことはその主著『教行信証』の構造を拝見しても伺えるのであります。自力心は、救いについて善悪を問題にする心です。人間である限り、この自力心を克服することは、最も困難な行であります。分別理性をもつ人間にとって、難中の難と言わざるをえません。

 一般に信心というと、自分の方に救われるものがらを作ることのように思い、信心を頂くといえば何か頂いたものを予想しますが、聴いて間違いない手ごたえのあるものができたのなら、それは正真正銘の「聴き癌」です。本願成就のお名号はその「癌」を取り除いてくださるのですから、聴いてできた「聴き癌」のとられたのをご信心と申すのであります。妙好人はいろいろなタイプの人がおられますが、

「胸にさかせた信の花、弥陀にとられて今ははや、信心らしいものはさらになし、自力というても苦にゃならぬ、他力というてもわかりゃせぬ、親が知っていれば楽なものよ」

なんとみごとな、そしてさわやかなご信心の表現でしょう。

「ナンマンダブツにうたがいとられて、才市うたがいどこにいった、六字の中でごおんよろこぶ」

ここに信心正因・称名報恩に生きるお同行の尊い人生があります。
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タグ : 豊島學由 信心

2010/06/05(土)
『認められた人生』(豊島學由著 自照社出版刊 平成20年)47頁より
(強調は私がつけました)

 利井鮮妙和上が
  ああ辛と言うは後なり唐辛子
と言って、真宗のご信心を表しておられます。舌の上に唐辛子が乗った時が確かにあるのです。けれども私が辛いと思ったのは、乗ったその後なのです。
 しかし、辛いとわかったときに救われるのだと、時刻に固執する聴き方、説き方をした人が、以前、和上さんにおられたのです。そういうことを「一念覚知」といって騒がれた時代があったのです。それほど人間というものは、「異安心」と呼ばれようとも、確かなものがほしいという心があるのです。
「たすかるか、たすからないかわからないような教えを聴いていて、そのまま死んでいくのでは心もとない」という人があるのですけれども、それは確かなお六字をお留守にして、聴き心のほうに確かなものをもたなければ救われないと思っているからです。

タグ : 豊島學由 利井鮮妙 一念覚知

2010/06/04(金)
久堀弘義師の著作から引用します。
久堀師は人間魚雷回天の特攻隊長出身だそうです。
本願寺出版社や自照社出版からの本があります。
自照社の本は梯和上との共著が多いですね。
村上速水師と同様、大江淳誠和上の薫陶を受けられたようです。

『阿弥陀仏と浄土 ――曇鸞大師にきく――』
久堀弘義著 本願寺出版社刊 昭和59年 ISBN4-89416-108-7)
失礼な言い方になってしまいますが、なかなかいい本です。

二 教材について
(3)伝統と己証
 宗祖の教義が形成されていく中で、宗祖の思考に大きな影響を与えた二つの流れがあった。七祖を上三祖と下四祖に分け、上三祖をもって「大経ずわり」といい、下四祖をもって「観経ずわり」とすることについては、かなりの異論があることも知っている。
 しかし、私は、この見方は正しいと思っているので、あえてこれに従えば、二つの流れとは、この上三祖と下四祖の流れである。曇鸞は竜樹・天親の思想を統一的に継承しているので、上三祖を代表するものと考えていい。
 又、宗祖にとての面受の師であるから、法然をもって下四祖の代表と考えられるけれども、法然自らが、「偏依善導一師」といっているのであるから、下四祖は善導に代表されるといえるだろう。
 端的にいえば、宗祖の思想が形成されるに当っては、この曇鸞の思想と善導の思想が、大きな影響を与えている。しかも、その二つの流れが、宗祖において巧に綜合されて、真宗教義が形成されていると考えられる。
 しかし、その与えた影響については、曇鸞と善導とは、いささかその趣を異にしているようである。曇鸞教義においては、後に詳述するように、「一如顕現」という一点に立ち、「阿弥陀仏」も「浄土」も、又、「信心」も「念仏」も、すべて一如に還源せしめ、その本体論的解釈をもって、その特質とする。
 これに対して、善導教義においては、「専修念仏」という一点に立ち、すべてを実践論的(行信論をも含めて)に解釈することを、その特質としている。この二つの流れが宗祖の思想に影響を与え、しかも、それが巧に宗祖によって融合されていったことに、大きな意味がある。
 すべてのものごとは、ただその現象にのみに心を奪われて、その本音を見究めることを忘れてはならない。そこに、本体論的解釈に思考を集中した曇鸞の教学が、評価される。けれども、本質を論ずる場合、それはともすれば抽象論、もしくは観念論へ傾斜していく危険性をはらんでいるようである。
 曇鸞の教学をもって、観念論といっているのではない。その教学を教学するわれわれの側のことをいっているのである。現に、『二種法身』のあの解釈を、「法性法身」にのみに捉われて、阿弥陀仏信仰を持って偶像崇拝であるなどと誇らしげにいった学者もいる。又、阿弥陀仏も浄土も信心の上に現成する世界であるなどと、観念論をまき散らした学者もいる。
 曇鸞の思考の方向においては、全く考えられないことが、それを教学する側に結果として出てくることを思うとき、本体論的解釈の持つ危険性は、充分意識しておくべきである。
 ともあれ、この曇鸞の本体論的解釈は、もろに宗祖の中に受けつがれていった。このことは、やがて明らかになる筈であるが、しかし、ただそれだけであるならば、宗祖は思想家としての親鸞ではあっても、宗教家としての親鸞ではあり得なかったにちがいない。
 宗祖が宗祖たり得たのは、曇鸞を受けつぐとともに、法然との出あいを通して、善導との出あいを果たしたからである。単なる思想としての浄土教ではなくて、専修念仏というひたすらなる実践において、万人の救いを成立せしめるという浄土教が、善導によって開かれていた。
 法然を通して、この善導教学を受け容れた宗祖は、曇鸞の教学における本体論的解釈の持つ観念論への傾斜を、見事に克服し、浄土真実の教えを開顕していったのである。
 曇鸞の「一如顕現」に立つ本体論的な解釈と、善導の「専修念仏」に立つ実践論的な解釈が、宗祖において巧に統一されて、浄土真宗が開かれているのであるから、私たちは教えを説き、法を伝えんとするとき、宗祖教義におけるこの特質を、先ず確実に押さえておくべきである。
(中略)
 今、私たちにとって、必要なことは、現代人に向かって、胸を張って阿弥陀仏を説き、浄土往生を説くことのできる自信を回復することである。そのためにこそ、先に述べた宗祖教義の原点に帰らねばならない。それは又、曇鸞・善導の教学に帰ることであろう。
 両者は中国における、又、千年から千三百年以前の思想である。それでいて、現在なお私たちに、新鮮さと躍動感をもってせまってくるのを覚える。『往生論註』と『観経四帖疏』は、現代の書であり、現代の思想であり、現代の宗教である。両書から与えられる深い宗教的感動にゆり動かされた宗祖は、『高僧和讃』曇鸞讃に三十四首、善導讃に二十六首、その感動をうたいあげている。
 私たちは、この宗祖と感動を共にしたとき、初めて自信をもって教えを説くことができるだろう。阿弥陀仏不在、浄土不在の伝道から脱却すること、信心・念仏の原理的立場を回復することは、何をおいても今、伝道者としての私にとって最も必要なことではないか。

タグ : 久堀弘義 曇鸞大師 善導大師

2010/06/03(木)
 村上師は末尾に「今後さらに親鸞教義を深く研究される場合には…」と書いておられますが、親鸞聖人の教えを理解する時に、曇鸞大師善導大師の教えられたことの学習は欠かせないと思います。
 以下、『親鸞教義とその背景』(村上速水著 永田文昌堂刊 昭和62年)からです。

第二節 七祖の教え
 序 七祖の選定

  七祖選定の基準
 (略)

  七祖の著作
 (略)

  七祖の発揮
 (途中まで略)
 また、昔の学者の講録などには、「終吉」という言葉が出てくることがありますが、これは善導大師と源空上人との教義が非常に類似しているところから、「終南」と「吉水」とを一連にして、簡略に呼んだものであります。

  曇鸞大師善導大師の地位
 以上、七祖に関する全体的な、そして基本的な事柄について述べてきましたが、次に親鸞教義における七祖の教学の位置づけを考えてみたいと思います。私の率直な気持ちを申しますと、親鸞教義の骨格を形成するものは、曇鸞大師善導大師の教義であるといってよいと思います。このことは『高僧和讃』において、曇鸞大師を讃えられる和讃は三十四首あって最も多く、次いで善導大師の二十六首であることに端的にあらわれていると思いますが、殊に『教行信証』において重要な解釈のところには、必ずといってよいほど曇鸞大師の『往生論註』、善導大師の『観経疏』が引用されているという事実、またその引用の回数が多いことによって論証することができると思います。
 『教行信証』は親鸞聖人における仏教概論であるといってもよい書物ですから、全体にわたって大乗仏教の原理が説き述べられています。しかもその原理を踏まえて、他宗とちがった浄土真宗独自の教義が説かれています。このように見る時、親鸞聖人は、仏教の原理的な面は主として曇鸞大師の『往生論註』によって説かれ、真宗独自の実践的な面を述べられるところは、善導大師の『観経疏』によっておられるといってもよいと思います。もしこれを喩えるならば、『往生論註』という縦糸と、『観経疏』という横糸とで織りなされた一反の織物が、『教行信証』であるということができましょう。そういう意味で、今後さらに親鸞教義を深く研究される場合には、『往生論註』と『観経疏』との研究が、特に重要であることを心得ていただいたらと思います。

タグ : 村上速水 曇鸞大師 善導大師

2010/06/02(水)
村上速水師の本を読みました。
今後の指針となるような文がありましたので、書きとめておきます。

『親鸞読本』(村上速水著 百華苑刊 昭和43年)
一二 弟子一人ももたず
<親鸞の伝道方式>
 ところで彼の伝道の方式はどのようなものであったであろうか。彼の伝道は、地方の小堂や、あるいは民家を改造した程度の場所で行われた。またその布教の様式は、いわゆる談合という形で行われた。一見、平凡に見えるこの伝道布教の様式は、しかし、寺院という場所において、唱導という形式で行われた当時の伝道方式に対して、注意されなければならない。

 というのは、当時の寺院は特権階級の人々によって建立されたものが多く、貴族の手によって建てられた寺院の如きは、別荘の感を呈して特定の人に独占され、一般の民衆には閉ざされたものだったからである。そういう事情を思いあわせるならば、親鸞が寺を建てなかったということは、経済的な理由もあったかもしれないが、それ以上に重要な理由として、彼の非僧非俗の精神の現われとして理解されるのである。なぜならば、弥陀の本願はある特定の人に独占されるべきものではなく、広く一般大衆に宣布されなければならぬというのが、彼の本願に対する信仰であったと考えられるからである。

 のみならず、法然と弟子信空との次の問答を想起するならば、親鸞のこの伝道方式の中には、法然の精神が如実に継承されていることをよみとることができるように思われる。

 法蓮坊信空問う
  古来の先徳みなその遺蹟あり。しかるにいま精舎一宇も建立なし。
  御入滅の後、いづくをもてか御遺蹟とすべきや。
 上人(法然)答えていう
  あとを、一廟にとどむれば、遺法あまねからず。
  予が遺蹟は、諸州に遍満すべし。
  ゆへいかんとなれば、念仏の興行は愚老一期の勧化なり。
  されば念仏を修せんところは、貴賤を論ぜず、
  海人魚人がとまやまでも、みなこれ予が遺跡なるべし
(近藤註:「いとー日記」に説明がありますので、「いとー日記」のここも読んで下さい。いとーさん、勝手に借りますよ)

その長い生涯に一箇の寺院も建立しなかった親鸞の心情も、これと同じものがあったにちがいない。

 ところでこのことは、彼の布教が談合という形で行われたこととも無関係ではない。唱導という形をとらず、民衆とともに親しく仏法を語り合ったところに、彼の宗教の庶民性が見出される。いいかえれば、彼は伝道者、教化者としてではなく。同朋同行として民衆と接したのであった。

タグ : 村上速水

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