21世紀の浄土真宗を考える会2010年12月

--/--/--(--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2010/12/27(月)
梯實圓和上の「聖典による学び」の中で、ご本人も「ややこしい」とおっしゃっていることに同一性の説明があります。
http://goo.gl/TirKz

この「同一性」について理解を深めるために、山内得立氏の説明を紹介します。

第二 ロゴスの展開
(略)
 同一性の判断は、事物がそれ自らをそれ自らとして、それ自らに於いて断定することである。事物は時々刻々に変化してやまぬものであるが、それにも拘らずそれ自らを維持し、それ自らとして有らんとする。この自己同一性なしには事物は存在し得ぬ。事物が有るというのは或るものとして自らを保持することであり、変化の中に不変なるものを失わぬことによってそれ自らであり得る。自己同一的であり、自同性を保つことによってそれ自らとしてあり、決して他でないものとして有りうるのである。しかしそれと同時に自己が自己でありうるのは他と区別することによってであり、自他を分別することなしには自己を堅持することができない。自己とは他者に非ざるものであり、他者は自己ならざるものである。自他の分別なきところに他者はなく、自己もまたあり得ない。自が自であるのはそれが他でないことによってであり、他が他でありうるのはそれが自に非ざる故にである。有るものを或るものとして決定するのはそれ故に却って否定の上に立っている。omnis determinatio est negatioということは茲に於いて妥当するが、我々にとっては、ロゴスが単に肯定ではなく常に否定を伴って初めて、その機能を完うするということが大切である。ロゴス的であるというのは否定すべきものを否定し、肯定せらるべきものが肯定せられるということであった。その執れが先であり、根本的であるかということよりも、肯定は否定なしには、否定は肯定なくしては共に成立しないということがより肝要なのである。それはロゴスが先ず肯定と否定とに分別せられ、この分別なしにはロゴスは論理として働くことができない。論理とは正しい判断であり、判断は肯定か否定かの執れかでなければならなかった。(以下略)
『ロゴスとレンマ』(山内得立著 27頁)


omnis determinatio est negatioはスピノザの言葉で、「すべての規定は、否定である」という意味です。
スポンサーサイト

タグ : 梯實圓 山内得立

2010/12/14(火)
 昔、猟師が喧嘩をしていて、そのあげく、一方が他方に押されて川に落ちてしまい、いまにも死にそうになっていた。そこへ金色の鹿が通りかかり、身を挺してその溺れる人を救った。その後、森の中に金色の鹿がいることを知った王妃が、人々に探させたが、なかなか見つからないでいた。溺れていたところを救われた男は金色の鹿に恩を感じていたので、自分がその鹿に出会ったことを王に告げるべきか否か迷っていた。しかし、自分が溺れるということはこの世ではもうないだろうから教えてしまおう、そうすれば褒美も貰える、と打算的な心を起こす。男は王に鹿の居場所を告げ、森の中を案内して、あそこに金色の鹿がいると教えた。ところが鹿を指した途端、男の手が地に落ちた。その様子を見た王が、どうしたのかと尋ねる。男は自分が溺れていたところをその鹿に助けられたことを打ち明けた。おまえは恩知らずな男だといって、王はその男を処罰した。その金色の鹿こそ釈尊の前生の菩薩であった。
(中略)
 動物に救われた人間が恩を仇で返すということ、動物でさえ恩を忘れないのに、人間は自分を助けてくれた者の恩を忘れてしまう。そのようなことが、人間そのものに大きな問題を投げかけている。

『原始仏教から大乗仏教へ』(中村元著 春秋社)62頁より
出典は
『根本説一切有部毘奈耶破僧事』第十五巻
『仏典Ⅰ』(世界古典文学全集第六巻 筑摩書房)
『六度集経』第一巻
など

 六牙象ジャータカも同じような話ですね。
2010/12/09(木)
(黒崎 宏『ウィトゲンシュタインと禅』哲学書房、1987年、17‐19ページ)より

 ウィトゲンシュタインに最も近かった弟子の一人マルカムは、その著『ウィトゲンシュタイン――ある回想』(原文51ページ)において、次のように言っています。

 或る日、我々〔ウィトゲンシュタインとマルカム〕が一緒にいたとき、彼は哲学についてハッとするような所見を述べた。彼は次のように言ったのである。
「哲学的混乱に陥っている人は、或る部屋の中に居てそこから脱出しようとしているが、しかしどうしていいか解らないでいる人、に似ている。彼は窓から脱出しようとするが、窓は高すぎる。彼は煙突から脱出しようとするが、それは細すぎる。しかし、もし彼が振り向きさえすれば、ドアはずっと開け放されていたのだ、という事に気づくであろう!」

-----------------------------引用は以上です

 ウィトゲンシュタインが言ったことは「哲学的混乱」に限ったことではないと思いますね。いろいろな事象に当てはまるのではないでしょうか。

 | Copyright © 21世紀の浄土真宗を考える会 All rights reserved. | 

 / Template by パソコン 初心者ガイド
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。