アンビリーバボツ

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2009/09/03(木)
長嶋茂雄氏の真似をして、英語と日本語のちゃんぽんの題名にしました。
(英語・日本語教育に携わっている方にはお詫び申し上げます。)
長嶋氏は「わが巨人軍は永久に不滅です」と言いましたが、永久なものなどこの世にあるはずがないですよね。
(私は巨人ファンでもアンチ巨人でもありません。なお、購読している新聞は、なりゆきで今のところ「読売」です。)

ただ念仏のみぞまことにておはします
です。

ところで、昨日の記事がいつもよりは多く読まれたようですので、今日は親鸞会会長の最近の言葉を一つ御紹介しましょう。

●はずがない
 他人に決めてもらう自力の人工信心ならいざ知らず、
 他力真実の浄信が、20年や30年で獲られるものなら、
 「億劫にも獲がたし」とか
 「身を粉に骨を砕きても」とか
 聖人が仰有るはずがないのだ。


「身を粉に骨を砕きても」は恩徳讃の意ですね。
それをどうしてここに使うのでしょうか。
「他力真実の浄信が、20年や30年で獲られるものなら」に至っては、何と言ってよいやら・・・。
親鸞会は法相宗にでもなったのかと思ってしまいました。
本当に信じられません。
こんなのが浄土真宗であるはずがないですね。
この文は「ボツ」にした方がいいと思います。
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この記事へのコメント
うらみ 呪えば 身の破滅

と、自分で思っているかどうか わかりませんが、

恩徳賛でさえ、感謝の言葉、を 命令っぽい言葉で 上から目線で語るところは、どうかと思うのですが。

会にいると、感謝、や法悦とは全く逆の、苦しみ、悲しみ、うらみ、のろいのオーラがどんどん増していましたね。 

それにしても

「他人に決めてもらう自力の人工信心ならいざ知らず、」

って、誰のことをさしているか知りませんが、被害妄想まるだし に 私は感じます。

質問ですが、 他力は 一念 と思いますが、違うのでしょうか。
自力いっぱい求めないといけないものか。あるいは言い方がダメなのか。

2009/09/03(木) 10:24 | URL | たか #mBxDMQRw[ 編集]
たか様

コメントありがとうございます。

ご質問
「他力は一念と思いますが、違うのでしょうか。」

お答え
「他力」とは阿弥陀仏の本願力ですが、このご質問の意味はそういうことではなくて、信心獲得することと理解しました。
親鸞聖人が「それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。」と仰せのように、阿弥陀仏に救われるのは一念です。
一念の説明をしていったら、それこそ論文・説明文がいくつもできますが、ここに書かれているような「20年や30年で獲られるものではない」は、間違いであることは言うまでもありません。

ご質問
「自力いっぱい求めないといけないものか。あるいは言い方がダメなのか。 」

お答え
自力とは阿弥陀仏の本願に向かった時に出てくる心で、そもそも「自力いっぱい求める」ということが意味をなしません。
自力を疑情と置き換えてみれば、「疑情いっぱい求める」という表現があり得ないことがお分かりになると思います。
言い方以前の問題です。
2009/09/03(木) 22:20 | URL | 近藤智史 #-[ 編集]
明快なるご返答 有難うございました。

会では今まで当たり前のこと、よく似た表現も耳にしてきました。

しかし、こうして冷静に考えてみるに、いかに言葉を軽く、浅く、とらえていたか。

ホント、間違って理解していることがたくさんありそうですね。

聞くきっかけをもらったとはいえ、会長が悪知識だったことの事実は許しがたい。

これは詐欺であり、多くの人を迷わして一族は偉そうにしている。

よくも今までだましとおしてきたと、あきれています。

本当に怒りが大変こみあげるこのごろです。




2009/09/04(金) 05:44 | URL | たか #mBxDMQRw[ 編集]
……。
私は最近心に思ったことは出した方が良いということを知りました。今まで言えないところにいたのだということにも気付かされた次第です。言うまでもない感想を一言書かせていただいてもいいでしょうか。

●はずがない
 他人に決めてもらう自力の人工信心ならいざ知らず、
 他力真実の浄信が、20年や30年で獲られるものなら、
 「億劫にも獲がたし」とか
 「身を粉に骨を砕きても」とか
 聖人が仰有るはずがないのだ。

何を仰りたいのかよく分からないのです。一生懸命考えてみました。読んだ人がどう受け止めるのかも考えてみました。
普通に考えれば、「他力真実の浄信は20年や30年では獲られない」「20年や30年で獲られるというものは他人に決めてもらう人工信心ではないか」「その理由は聖人が億劫にも獲がたしとか身を粉に骨を砕きてもと仰っているからだ」→「真実の浄信は20年や30年で獲られる『はずがない』」
そんな風に聞こえました。私の誤解かも知れませんが、教える人はなるべく誤解のないような表現をしていただきたいと思います。

他人に決めてもらう自力の人工信心(というものがどういうものなのかよく分かりませんが土蔵秘事みたいなものでしょうか)が20年や30年でとどうして結びつくのかが分かりません。

「20年や30年で獲られるとか獲られない」とか言われるのが分かりません。今において信心獲得は年月に関係ないと思います。億劫にも獲難しだから何十年でも獲られないということなら今生では到底無理になってしまいます。

それに20年や30年で獲られたと言っている人を私は聞いたことがありません。遠く宿縁をよろこべ、億劫にも獲難し、と親鸞聖人が仰っているように、私には計らいようもありませんが、遠い過去からの如来のお働きかけによって、遇い難きご縁におあいすることができ、獲難き信心を獲させていただくことができたのではないでしょうか。果てしない過去から迷い続けてきたであろうことを思えば、今日まで長い年月、阿弥陀仏にご苦労をおかけしたと偲ばれることは当たり前のことだと思います。

他人に決めてもらう信心というものも私は知りませんが、他人に決めてもらってそれで安心できるとは思えません。すぐにまた疑いが出てきて元の木阿弥じゃないでしょうか。疑情は、阿弥陀仏のお力によらなければ、自分や他人に決めてもらったくらいでは晴れません。
それに「私は何十年の苦労によって信心を獲ました」と仰っている方を私は聞いたことがないのです。「ひとえに阿弥陀仏のご苦労によるもの、私の力は一切及ばなかった」と言われるのです。彌陀の一人働きであったと知らされているならば、自分の長年の苦労や努力で獲られたなどとは言われないと思います。一切は阿弥陀仏の本願、他力によるものなのです。だからこそ、こんな私ですらなのです。自分の力が少しでも必要ならば、無理でした。私の力では20年30年どころか永遠に浮かばれることはないのです。

こんな私ですらなのですから、他に「今既に獲たり」と言われる人があったとして、どうして「そんな20年や30年で獲られるものではない。真実信心であるはずがない」などと言えるのでしょうか。私はそんな気持ちにはなりません。逆の立場に立ったとしてもたとえ人から「そんなの人工信心で真実の信心であるはずがないだろう、私はそんな信心認めない」と言われたとしても、何ともないんですよ。人に認めてもらう必要はないのですから。阿弥陀仏と私の世界です。

だから、誰に何の為にこのようなことを言われるのかが分からないのです。どうして、はずがないとか、20年とか30年とか出して、今の救いを遠ざける心を起こさせるようなことをわざわざ言われなくてはならないのでしょうか。過去を振り返れば長い間迷ってきたのは間違いのないことです。億劫にも獲難しのとおりと思います。でも今求める上においては年月とは関係ない、今の一念の救いが阿弥陀仏の本願です。
「20年や30年でも獲られるものではないからこれから長い年月がかかる」と思わせるのは、一息切れたら今にも後生へと旅立っていかねばならないはかない命の私を、今救わんと命懸けの阿弥陀仏の御心を反故にする恐ろしい行為ではないでしょうか。「今」と聞いてすらなかなかそういう心になって聞き抜くことは難しいのに、「何十年後」と先延ばしにするような心でどうして聞き抜くことができるでしょうか。「一念だから今だ」とは聞いても、実際は「そんな今なんて無理だろうと思う心」を破らなくてはならないのに、説く人がむしろそんな誤りを助長するようなことを言っていただきたくないと思うのです。

「皆々信心決定あれかし」の心からは出てくる「はずがない」言葉と思いました。皆様の心の中だけでも、「ボツ」にしてくださるようお願いしたい気持ちになって、言うまでもない当たり前のことと思いながら書いてしまいました。一言と言いながら長くなり申し訳ございません。ご迷惑でしたら削除してくださいませ。
2009/09/06(日) 22:39 | URL | 163 #VkVTiyLo[ 編集]
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