いきなり第8章

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2009/09/10(木)

歎異抄第8章
念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと[云云]。


親鸞会の公式HPに『歎異抄をひらく』の文章がありましたので、歎異抄第4章について書いている途中ですが、第8章について、少し書きます。

弥陀に救われた人の称える念仏を「他力の念仏」という。(中略)
「他力の念仏」は、これら自力の計らい一切が粉砕され、称えさせる弥陀の力強い誓いの念仏である。
 ゆえに「他力の念仏」は、自分の思慮や分別で励む行でも善でもないから、非行・非善、「行にあらず」「善にあらず」と解説されるのだ。(『歎異抄をひらく』237ページ)


この文章は正しいように見えます。
しかし、3番目の文章
 ゆえに「他力の念仏」は、自分の思慮や分別で励む行でも善でもないから、非行・非善、「行にあらず」「善にあらず」と解説されるのだ。
を見ましょう。
この文章では、“自分の思慮や分別で励む行でも善でもないから”は、あとの文節の理由ですから、省略または位置を変えることができます。
するとこの文章で言いたいことは、
 「他力の念仏」は、非行・非善、「行にあらず」「善にあらず」と解説されるのだ。
となります。
確かに第8章は「非行非善章」とも言われますが、そうかと言って、わざわざ誤解させるような書き方をするのは良くないと思います。
省略していい言葉と、省略してはいけない言葉があるのです。
この場合、「行者のために」は省略してはいけません。

参考として、親鸞聖人の御消息を引きます。

『宝号経』にのたまはく、「弥陀の本願は行にあらず、善にあらず、ただ仏名をたもつなり」。名号はこれ善なり行なり、行といふは善をするについていふことばなり。本願はもとより仏の御約束とこころえぬるには、善にあらず行にあらざるなり。かるがゆゑに他力とは申すなり。本願の名号は能生する因なり、能生の因といふは、すなはちこれ父なり。大悲の光明はこれ所生の縁なり。所生の縁といふはすなはちこれ母なり。
(親鸞聖人御消息 42 註釈版聖典807頁)


“名号はこれ善なり行なり”とおっしゃっていますね。

頁は前後しますが、先程の文の前には

 ところが八章では、念仏は「行者のために」は善でもなければ、励むべき行でもないと、意外なことが言われている。(『歎異抄をひらく』237ページ)


と書かれています。
これも正しいように見えます。
しかし、原文ではどこにも「励むべき」に当たる語はありません。
親鸞聖人は念仏は励むべき行でないとおっしゃった人だと言う誤解を与えます。
(というか、この本にはそう書いてあるのですが・・・)

参考として、親鸞聖人の御和讃を引きましょう。

弥陀大悲の誓願を
ふかく信ぜんひとはみな
ねてもさめてもへだてなく
南無阿弥陀仏をとなふべし
(正像末和讃 54)

親鸞聖人の“念仏は行者のために非行・非善なり”のお言葉は、決して“励むべき行ではない”とおっしゃったものではありません。

今回は2点の指摘のみで、歎異抄第8章については、後日改めて説明をしたいと思います。

念仏誹謗の有情は
阿鼻地獄に堕在して
八万劫中大苦悩
ひまなくうくとぞときたまふ
(正像末和讃 42)
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