『歎異抄をひらく』の第4章を読む

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2009/09/11(金)
【ものとはなにか?】
まず、第1部『歎異抄』の意訳 第4章(58-60頁)からです。
「聖道の慈悲というは、ものを憐み愛しみ育むなり。」の中の「もの」の訳が問題です。
この「もの」「他人や一切のもの」と訳されています。
本来、この「もの」は一切衆生という意味ですから、「一切の生きとし生けるもの」「すべての人」「すべてのもの」あるいは単に「人」と訳すべきです。
しかし、ここでは「他人」「一切のもの」区別していますから、後者の「一切のもの」は「一切の生きとし生けるもの」ではないことが分かります。
もし「一切のもの」=「一切の生きとし生けるもの」ならば、前者の「他人」という言葉は無意味だからです。
では「一切のもの」の「もの」とは何でしょうか?
通常「他人」と並べる言葉は「自分」「家族」「親類」などでしょうが、ここではそういう意味ではないでしょう。
すると、この表現から考えるに、無生物(いわゆる非情のもの)を指しているのだと思われます。
たとえば、現代ならば「家」「自家用車」「貯金通帳」「壁画」「壺」「靴下」「カレーライス」などのことでしょう。
これら非情のものに対する「慈悲」とはどのような慈悲でしょうか?
これらのものを大事にするということなのでしょうか?
はなはだ疑問です。
以上のように、この部分の意訳は間違いです。

【仏になりてとは?】
次に、第2部『歎異抄』の解説(10)(204-213頁)です。
意訳では「念仏して急ぎ仏になりて」「はやく弥陀の本願に救われ念仏する身となり、浄土で仏のさとりを開き」と訳されています。
ところが、本文では「急ぎ仏になりて」「急ぎ、仏になれる身になりて」であり「はやく弥陀の救いに値って」の意味であると書かれています。
これだと、「念仏して急ぎ仏になりて」は「念仏してはやく弥陀の救いに値って」となりますが、意訳の中では「念仏して」「弥陀の本願に救われ念仏する身となる」ことですので、同じ意味を重ねて言われたことになります。
「仏になりて」から見ると、意訳では「浄土で仏のさとりを開き」ですが、本文ではそれが変えられています。
ここに二重構造があります。
わずか3頁にも満たない文の中で、意味が錯綜しています。
文中「明らかに誤り」とか「明白だろう」と何度も言われていますが、全く分かりません。
どちらかに統一してもらえばよいのですが、違う意味で訳されているということです。
これでは解説になるどころか、余計混乱することになるでしょう。

【結局、浄土の慈悲とは何か?】
最後の3行で、

 聖人の、“急ぎ仏になりて”の「浄土の慈悲」は、
“はやく仏になれる身になれよ”
の勧めであることを、ユメ忘れてはならないだろう。

と書かれていますが、これだと、せっかく親鸞聖人が「浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏になりて、大慈大悲心をもつて思うがごとく衆生を利益するをいふべきなり。」とおっしゃっていることを全く理解されていない気がします。第1部の意訳(59頁)にはきちんと書かれているのに、なぜ二重構造になっているのか不可解です。第1部を書く時と第2部を書く時と考えが変わったのでしょうか?
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