歎異抄第6章を読む

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2009/09/12(土)
歎異抄第6章についてはカウフマン氏がご自身のブログで語っておられますので、ここでは簡単にしておきましょう。
http://kauffman0521.blog88.fc2.com/

【歎異抄第6章の構成】
1.親鸞聖人が耳にされた「わが弟子、ひとの弟子といふ相論」の誤りであること
2.その理由
 ①「親鸞聖人は弟子一人も待たず」の言葉とその理由
 ②誤った考えに対する誡め
 ③付言

【弟子一人も持たず の意】
親鸞聖人が「弟子一人も持たず」とおっしゃった心を、梯實圓師の著作に分かりやすく書いてありましたので、抜粋します。
精読・仏教の言葉 親鸞(大法輪閣 ISBN4-8046-4102-5)です。
比較的入手しやすいので、お薦めします。
歎異抄第6章の一節については、79-82頁です。
三つあげてあります。

①自分はあくまでも法然上人の弟子であって、その教えを取り次ぐだけのものであるから、門弟たちとは法然門下の兄弟弟子であるという思いを持っておられた。

②念仏者はすべて釈迦、諸仏の弟子であるという考えを持ったおられた。

③念仏者は、根源的には阿弥陀仏の本願力に育てられて念仏者になっている阿弥陀仏の御子であり弟子であるということの確認があった。


そして最後に

こうして念仏者とは、互いに如来の御子として兄弟であり同朋であることに気づき、そこから互いに敬意をもって対応し、深い親愛の情をもって交際しようとするものである。それが浄土の旅をともにする同行の倫理である。こうして浄土真宗の念仏者とは、つねに聞法者、弟子の座にあって、仏恩、師恩を仰ぐものであり、決して自身を師の位置に上げて傲慢な振る舞いをすることなく、同行あい敬愛しながら浄土を目指して生きようとするものである。

と結んであります。

【『歎異抄をひらく』の第6章を読む 】
この本の中では、第6章について書かれている部分を、一番読むべきではないかと思います。
前半 寺の現状      2頁分
後半 弟子一人も持たず 4頁分
       内 御和讃  2頁分
の構成になっています。

前半では、
・門徒や檀家を財産のように考え、離れていくと資産が減るように思って、ビクビクしている僧職が多い。
・門徒の少ない寺ほど、各家の「割り当て」が多くなるのもうなずける。「布施は自由意志といいながら…」
・参詣者は減るばかりだから寺院経済はどこも火の車で、(中略)、どちらが本職かわからない有様だ。
・著名な布教使が地元に来ると、門徒を取られはしないかと戦々恐々、その布教使を中傷し、悪口雑言を門徒衆に吹き込んで追い出そうと画策する。

などと書かれています。
どうして「ケロリと、こんなことを、いいのける。」ことができるのかと、「カンシンさせられる。」し、
「開いた口が、ふさがらないとは、こういう、ことだろう。」
「余りにも、無神経な」
「まさに、つける薬がない。さすがと、言うべきか。」

本当に「情けなく、思うだけ。」です。

ところでこの「著名な布教使」とは誰のことなのでしょうか。
通常、著名な布教使が来て門徒を取られはしないかと思う人はいないでしょう。
もし、これを著者自身のことだと思って書いているならば、「極めたる荒涼のこと」と思います。


後半は一読すると大きな間違いはないように思えますが、実は、一つ一つの文章にかなりのバイアスがかかっています。
(特に和讃3首、「生死の一大事に驚き、聞法に燃え」の表現、最後の「燃える同朋愛の発露」など)
一応無難なところでまとまっているように見えるのは、批判をかわすための「配慮かと、カングルほかない」と言いたくなります。

【補足説明】
上の文章中、青色の部分は同じ著者による「本願寺 なぜ答えぬ」から引用しました。

私の言葉ではありません。
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