『歎異抄 現代語訳付き』(本願寺出版社 文庫)も同じです。
宿善とは、「宿世の善因縁」ということで、信心をうるための過去の善い因縁という意味である。
蓮如上人が『蓮如上人御一代記聞書』に、「宿善めでたしといふはわろし、御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふ」
(『註釈版聖典一三〇七頁』)
といわれたように、宿善の体は如来のお育てのはたらきであるとあおぐべきである。
過去の世における行いを表すのに宿業の語を用いることがあるが、宿善はもともと、他力の信心をえた上で、過去をふりかえって、仏のお育てをよろこぶ言葉である。
すなわち、獲信以前になしたさまざまな行善は、そのときは自力のつもりであったが、ふりかえってみると、他力の仏意に気づかせるための如来のお育てであったといただくものである。
これを宿善の当相は自力だが、その体は他力であるといいならわしている。
しかしここでいう「無宿善の機」、すなわち宿善のないものとは、真剣に法を聞く気のないものや、真宗に敵対感情をもつもののことを意味する。
そうした人々がこの書を読めば、真宗の教えを誤解するばかりか、おそらくは念仏を誹謗し、重大な罪をつくることになると恐れて、蓮如上人は『歎異抄』を書写された時に、この一文を添えられているのである。
〔原文:漢文〕
右斯聖教者為当流大事聖教也 於無宿善機無左右不可許之者也
〔原文:書き下し文〕
右この聖教は、当流大事の聖教となすなり。無宿善の機においては、左右なく、これを許すべからざるものなり。
〔現代語訳〕
この『歎異抄』は、わが浄土真宗にとって大切な聖教である。仏の教えを聞く機縁が熟していないものには、安易にこの書を見せてはならない。
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このような意味だったのですね。。いただく、あじわう、それは振り返ってからの事ならば、よく分かります。三願転入を言われた親鸞聖人のお言葉も
納得できます。
何か自分でその頂き物を、よーし!おれがやってやる!というような、宿善を自分でこしらえるような、ものでは無いという事が分かりました。
謙虚に聞かせて頂きます。
宿善という事で何かのご縁にでもと思ったのですが、
和上の先生が、南無阿弥陀仏は完全無欠の南無阿弥陀仏です、行を離れた信は無く信を離れた行は無い、機を離れて法はなく法を離れて機はない、とすごい迫力でした。少しでも、という気持ちが恥ずかしくなって、南無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏と了解?しておる者が幾人か、という感じの迫力でした。つい宿善とか、御縁とか、ふっとんで聞いていました。お世話になりました。