(平成21年8月15日、浄土真宗親鸞会発行の顕正新聞)
この中の、無上の信心と善巧方便
「釈迦弥陀は慈悲の父母
種々に善巧方便し
われらが無上の信心を
発起せしめたまいけり」(高僧和讃)
弥陀の善巧方便とは19願、20願であり、釈迦の善巧方便とは『観無量寿経』『阿弥陀経』の教えである。
『教行信証』では「それおもんみれば、信楽(無上の信心)を獲得することは如来(弥陀)選択の願心より発起す。真心(無上の信心)を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり」
われら無上の信心は、弥陀釈迦の善巧方便なくして発起することはあり得ないのである。
弥陀の善巧方便とは19願、20願であり、釈迦の善巧方便とは『観無量寿経』『阿弥陀経』の教えである。
が間違いです。
もし「善巧方便」「願」「経」を使いたければ、
弥陀の善巧方便とは48願であり、釈迦の善巧方便とは『大無量寿経』、広く言えば『浄土三部経』である。
としなければなりません。
もし「方便」「19願」「20願」「観無量寿経」「阿弥陀経」を使いたければ、
弥陀の権仮方便とは19願、20願であり、釈迦の権仮方便とは『観無量寿経』『阿弥陀経』の教えである。
とすべきでしょう。
しかし、これでは前後の意味が通らず、御和讃の説明にはなりません。
「般舟讃」の冒頭をそのまま和讃にされています。
ご消息の30で、しのぶの御房の問い合わせについてご返事されてます。
親鸞会では七祖聖教を読まないから解からないのかな。
ありがとうございます。お恥ずかしい事に、今まで知らない事がありすぎて、すみません。勉強させていただいてます。またお教えください。
絶対しなければ助からない、という思いがありましたが、権化方便、という事が言葉も聞いたことはないし、善が
善巧方便なのだ、と漠然と思っていました。
昔は信心は、ご信心といって自分のものでない事の意を表現していたのですが、時代ですかね (笑
浄土真宗では古くから「信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう」という言葉がありますが、下記のブログにUPしてある講義録の一部は参考になるかもです。
http://hongwan.net/4ab7fee1bb462