これを聞といふなり。
(親鸞聖人)
「仏願の生起本末」については以前書きましたので、今日は「疑心あることなし」についてです。
これを「疑いの心が全く無くなった」と解釈するのも一概に間違いとは言えないのですが、よくよく親鸞聖人のお言葉を読んでみると、「疑いの心が無い」と書かれています。
つまり“「疑心」という物があったのだが、それが無くなった、これが聞である”という言い方もできなくはないのですが、それよりも“「疑心」が無いのが聞なんだよ”と仰っていると言った方が正確なんですね。
聞いて疑いが無くなるのというよりも、疑いが無いのが聞なのですね。
(疑いが無くなるというのが間違いと言っているのではないですよ)
さらに言うと、
疑いの無い法(南無阿弥陀仏)を聞かせて頂くから、疑いが無いのです。
弥陀のお慈悲を聞いてみりゃ
聞くより先のお助けよ
聞くに用事はさらにない
用事なければ聞くばかり
(お軽同行)