この記事へのコメント
私も聞きました。
「聴いてさえおれば助かる」は間違い。
けれども「聴いていかねば聞と聞こえるときは来ない」
…
聴いて「いか」ねば…聴いて「いったら」…聴いて「いけば」…聴いてさえ「おれば」…
法にあることに対して自分の本心はどう思っているのか、心を問い詰めてありのままに見るのはそんなに難しいことでしょうか…。でもできないことはないと思いますしやめたらいけないと思います。考えるということは大切なことだと、だからそのような会の名前にされたのかなと最近思いました。
2009/09/25(金) 13:18 | URL | #-[
編集]
聞法の場所へ行く、という行為で何か安心していた気がします。いくら、行っても、結局「信心決定」しなければ助からない、と知りながら、1回より100回の方が絶対いいし、違うという考え方がとれません。一回でも100回でも念仏となえる身にさせていただかなくては、ならない事を完全に忘れていました。長い事、神社へいくような気持ちで悪いことにはならないだろうと、思ってきましたが、今助かろうという気持ちはありませんでした。立派な聞法者になります、など言っていたのをとても恥ずかしく、おろかな行為と知りました。
2009/09/25(金) 20:22 | URL | #-[
編集]
この話はまだ納得できましたが、このあと聞く一つということと、諸善の関係に(善をしないとこの道進めない)ついての質問が出て、それに対する話を一日かけて話していましたが、なんか納得出来なかったことを思い出しました。思えばあのとき既に破綻していたのですね。考えてみたら訳がわからなかったので後輩にも話が出来ませんでした。ようするに言ってる本人もよく判っていないというか、誤魔化してたんですね。何千人もその場にいたと思いますが、誰も疑問を口にすることさえなかった。勇気ある人が声をあげてもそれを許容するかどうかがその代表が正気かどうかを判断するひとつの目安になるような気がします。(声を出さないのは日本人の美質でもありますが、こういう場合は見事にマイナスに働きますね。)
2009/09/25(金) 22:31 | URL | ヒロ #-[
編集]