宿善の厚薄 唯信鈔の言葉

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2009/09/26(土)
宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。
という唯信鈔の聖覚法印の言葉をもって、宿善の厚い人と薄い人がいるという説明をしている人がいます。
しかし、この聖覚法印の言葉はそういうことを言うためのものではありません。

下に、その前後の文と訳を示します。
宿善」という言葉の意味が、前半と後半で微妙に(と言いますか、実は本質的に)違っています。
つまり、前半では単純に「過去世の善根」という意味で語られ、後半では「阿弥陀仏の方からの御縁」の意味になっています。


聖覚法印はすばらしいですね。
そしてまた、この唯信鈔を自ら何回も書かれ、同行に読むことを薦められた親鸞聖人の心を拝察します。

つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生することを得んや」と。
これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。
(註釈版聖典 1353-1354頁)
〔意訳〕
次にまたある人が言うには「五逆罪を犯したような罪の深いものでも、10回の念仏で浄土に往生するというのは宿善(過去世の善根)によるものだ。私の場合、過去世に善根を積んできたとは思えない。どうして往生することができましょうか」と。
これもまた愚かなはからいによって、いたずらに阿弥陀仏の本願を疑っているのです。それはどうしてかというと、過去世の善根の積み重ねが多かった人は、今生においても善根を修め悪業を造ることを恐れますし、過去世に善根を積み重ねることが少なかった人は、今生においても悪を好み善をしようとしません。その人の過去世に善をしてきたかどうかは、今生のありさまから、明らかに知られるのです。我が身を振り返ると、善い心がありません。宿善が少ないということが思い知らされます。しかし、そんな罪の深い者ですが五逆の重罪は犯していませんし、善根が少ないといっても、阿弥陀仏の本願を信じさせて頂いています。五逆の者の10回の念仏でさえも宿善のおかげです。ましてや一生涯念仏を称えさせて頂けるのは宿善(阿弥陀仏の方からのお手廻し)のおかげであり、有り難いことです。五逆の重罪を犯した者が10回の念仏を称えるのが宿善によるとし、私たちが念仏を称えるのは宿善が浅いと思うのはどういう訳でしょうか。浅薄な分別心が往生成仏の妨げになるというのはこういう考えのことでしょう。

補足
 単純に考えて、「すべての人が一つの善もできない極悪人」ならば、過去世はもちろん今生においても「宿善を厚くする」ことは不可能ですよね。
 聖道の教えと浄土の教えをまぜこぜにすると、混乱して訳が分からなくなります。
 だから、唯信鈔ではまずはじめに聖道と浄土の違い、浄土門の中でも諸行往生と念仏往生の違い、念仏往生の中でも専修と雑修の違いを詳しく説明してあるのだと思います。
 なお、唯信鈔は法然聖人とのかかわりで言うと、聖覚法印が法然聖人没後に異義のはびこる状態を歎いて書かれたものです。
 「法然聖人と唯信鈔」は「親鸞聖人と歎異抄」と同じ位置関係にあるのです。
 歎異抄を理解する時は、唯信鈔と唯信鈔文意を読むことが大切です。

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