唯信鈔の言葉 その2

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2009/09/26(土)
前回の記事で、「五逆の罪人、十念によりて往生す」という言葉がありましたが、これは観無量寿経の下品下生段の言葉です。
唯信鈔には、この下品下生段の言葉と第18願文とを引かれて、称名念仏を薦められた章もありますので、この機会にお示しします。
なお、第18願文の意味については、
尊号真像銘文(註釈版聖典 643-644頁)
を読まれるといいでしょう。
尊号真像銘文では、唯信鈔を薦められていますね。

つぎに本願の文にいはく、「乃至十念 若不生者 不取正覚」(大経・上)といへり。いまこの十念といふにつきて、人疑をなしていはく、「『法華』の〈一念随喜〉といふは、ふかく非権非実の理に達するなり。いま十念といへるも、なにのゆゑか十返の名号とこころえん」と。
この疑を釈せば、『観無量寿経』(意)の下品下生の人の相を説くにいはく、「五逆・十悪をつくり、もろもろの不善を具せるもの、臨終のときにいたりて、はじめて善知識のすすめによりて、わづかに十返の名号をとなへて、すなはち浄土に生る」といへり。これさらにしづかに観じ、ふかく念ずるにあらず、ただ口に名号を称するなり。「汝若不能念」(同)といへり、これふかくおもはざるむねをあらはすなり。「応称無量寿仏」(同)と説けり、ただあさく仏号をとなふべしとすすむるなり。「具足十念 称南無無量寿仏(観経では 称南無阿弥陀仏) 称仏名故 於念々中 除八十億劫 生死之罪」(同)といへり。十念といへるは、ただ称名の十返なり。本願の文これになずらへてしりぬべし。 善導和尚はふかくこのむねをさとりて、本願の文をのべたまふに、「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃)といへり。十声といへるは口称の義をあらはさんとなり。
唯信鈔 註釈版聖典 1350-1351頁)
〔意訳〕
次に阿弥陀仏の第18願文に「乃至十念 若不生者 不取正覚」と誓われています。いまこの「十念」ということについて疑いを抱いている人がいます。「天台宗では、完全に法に帰依し、信従し、法と信をよろこぶ身になるというのは、中道実相の教えを究めたことを言います。本願文に十念とあるのは、念仏を十回ほど称えることではないでしょう」と言うのです。
この疑いに対してお答えしましょう。
『観無量寿経』の下品下生段にこの逆悪の人の浄土往生の相が説かれています。
「五逆とか十悪の重罪ばかりか、その他の諸々の悪を重ねた人が、臨終にはじめて善知識のすすめで、わずか10回、念仏を称えて浄土に往生した。」
ここに説かれている念仏は、心を静めて阿弥陀仏とその浄土を念ずる念仏ではありません。
ただ口に名号を称えるのです。
観無量寿経の「汝もし念ずることができなければ」のお言葉は、臨終に苦に逼められて、心を静めて行う念仏などできないことをあらわしています。
だからこそ、ただ無量寿仏のみ名を称すべしと説かれたのです。
観無量寿経には「具足十念 称南無無量寿仏(実際には 称南無阿弥陀仏) 称仏名故 於念々中 除八十億劫 生死之罪」と説かれていますが、この十念も10回の念仏です。
本願の「乃至十念」も同じく10回の念仏と言えるでしょう。
(乃至とありますので、十念の前後を含む、一念~無量念です)
善導大師はこのことを深く知られて、往生礼讃に本願の文を「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」と示されました。
ここに十声とおっしゃっているのは、口に南無阿弥陀仏と称えることをあらわしておられます。
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