作家の宮城谷昌光氏が語っていました。
後で調べたところ、NHK教育テレビで2008年10月、11月に放送された「NHK 知るを楽しむ 歴史に好奇心 『孟嘗君と戦国時代』」の再放送だったようです。
その時の話は、番組名の孟嘗君のことではなく、宮城谷昌光氏が感動した中国古典のことでした。
氏は「孟子」の「井戸を掘る」「木に縁って魚を求む」のふたつの言葉について説明しておられました。
このうち「井戸を掘る」は福田康夫前首相が明治時代の篤農家であり「聖農」と言われた石川理紀之助の言葉を引用したことで有名ですが、そのさらにルーツは孟子にあります。このことについては、また縁がありましたら後日語るかもしれません。
今日は「木に縁って魚を求む」のお話。
この「縁って」というのは「近づいて」という意味ではなく、「登って」という意味ととる方が適当でしょう。
ある男が一生懸命、木に登っています。どんどん、どんどん登って高い所まで行きました。下にいる友達に
「おーい、ここまで登ったぞぉ」
と叫びます。友達は
「すごいねぇ。ところで君はなぜ木に登っているのかい?」
と尋ねました。すると彼は
「ああ、魚を捕ろうと思っているんだよ。でもなかなか捕れないなぁ。もっと高く登ったら捕れるかもしれないから、もっと登るよ。まあ見ててくれ。」
と言いました。
「……」
(こんな話が「孟子」に出ているわけではありませんよ。分かりやすく言うとこうなるということです。)
創元社の「ことわざ・名言辞典」には「魚をとりたいと思えば、河や海に行くべきであるのに、木によってとろうとするということから、自分の欲することを達し得ない手段をとって、そのことが成功しないことをたとえた句」とあります。
もっと簡単に言うと「方法・手段が間違っていると目的は果たせない」ということですね。
ここまではある意味当たり前の話です。
では「目的が果たせない」のは「方法・手段が間違っている」からだけでしょうか。
実は「目的が間違っているから、(本来の)目的が果たせない」場合もあるのです。
最近直接お話したり、例の「安心問答」を見ていると
「真剣になることが目的」
「真面目になることが目的」
「求道することが目的」
「立派な求道者と言われることが目的」
「まずは後生に驚き立つことが目的」
エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ
といった人達に気が付きます。
「それでいいんじゃないの?」
と思う人もおられるかもしれませんが、「違います!」
「信心決定・信心獲得・雑行を棄てて、本願に帰すことが目的」なのですから。
ここを間違えていますと、1000年求めても信心決定はできません。
よーく考えてみて下さいね。
そして聞き抜いて下さい。
(ん?「コペルニクス的転回のすすめ」ってのはどこへ行ったのかですって?まあ、これは愛嬌ということで。)
【訂正】
敢えて苦言を呈する様のご指摘がありましたので、元記事を検討致しました。
敢えて苦言を呈する様の思っておられるところと違うかもしれませんが、下記のように訂正致します。
またお気づきの点がございましたら、ご指摘下さい。
「信心決定・信心獲得・雑行を棄てて、本願に帰すことが目的」なのですから。
↓
「信心決定が目的」なのですから。
近藤さん、こんないい加減な言い方しちゃっていいの?
この文章を読んで、「近藤さんの言動は信心決定してるみたいだ」とか「この言葉は鋭い指摘だ」と思う親鸞会の人がいたとしたら、その人はもっと真宗を勉強したほうがいい。
ご指摘有難うございます。
私も勉強中ですので、もし誤りがございましたら、どうぞおっしゃって下さい。
訂正致します。