「縁木求魚」と「コペルニクス的転回のすすめ」

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2009/01/20(火)
過日、とある駅の待合室でテレビを見ていました。
作家の宮城谷昌光氏が語っていました。
後で調べたところ、NHK教育テレビで2008年10月、11月に放送された「NHK 知るを楽しむ 歴史に好奇心 『孟嘗君と戦国時代』」の再放送だったようです。
その時の話は、番組名の孟嘗君のことではなく、宮城谷昌光氏が感動した中国古典のことでした。
氏は「孟子」の「井戸を掘る」「木に縁って魚を求む」のふたつの言葉について説明しておられました。
このうち「井戸を掘る」は福田康夫前首相が明治時代の篤農家であり「聖農」と言われた石川理紀之助の言葉を引用したことで有名ですが、そのさらにルーツは孟子にあります。このことについては、また縁がありましたら後日語るかもしれません。
今日は「木に縁って魚を求む」のお話。
この「縁って」というのは「近づいて」という意味ではなく、「登って」という意味ととる方が適当でしょう。

ある男が一生懸命、木に登っています。どんどん、どんどん登って高い所まで行きました。下にいる友達に
「おーい、ここまで登ったぞぉ」
と叫びます。友達は
「すごいねぇ。ところで君はなぜ木に登っているのかい?」
と尋ねました。すると彼は
「ああ、魚を捕ろうと思っているんだよ。でもなかなか捕れないなぁ。もっと高く登ったら捕れるかもしれないから、もっと登るよ。まあ見ててくれ。」
と言いました。
「……」
(こんな話が「孟子」に出ているわけではありませんよ。分かりやすく言うとこうなるということです。)

創元社の「ことわざ・名言辞典」には「魚をとりたいと思えば、河や海に行くべきであるのに、木によってとろうとするということから、自分の欲することを達し得ない手段をとって、そのことが成功しないことをたとえた句」とあります。
もっと簡単に言うと「方法・手段が間違っていると目的は果たせない」ということですね。

ここまではある意味当たり前の話です。

では「目的が果たせない」のは「方法・手段が間違っている」からだけでしょうか。
実は「目的が間違っているから、(本来の)目的が果たせない」場合もあるのです。
最近直接お話したり、例の「安心問答」を見ていると
「真剣になることが目的」
「真面目になることが目的」
「求道することが目的」
「立派な求道者と言われることが目的」
「まずは後生に驚き立つことが目的」
エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ
といった人達に気が付きます。
「それでいいんじゃないの?」
と思う人もおられるかもしれませんが、「違います!」
信心決定・信心獲得・雑行を棄てて、本願に帰すことが目的」なのですから。
ここを間違えていますと、1000年求めても信心決定はできません。
よーく考えてみて下さいね。
そして聞き抜いて下さい。
(ん?「コペルニクス的転回のすすめ」ってのはどこへ行ったのかですって?まあ、これは愛嬌ということで。)

【訂正】
敢えて苦言を呈する様のご指摘がありましたので、元記事を検討致しました。
敢えて苦言を呈する様の思っておられるところと違うかもしれませんが、下記のように訂正致します。
またお気づきの点がございましたら、ご指摘下さい。

信心決定・信心獲得・雑行を棄てて、本願に帰すことが目的」なのですから。

信心決定が目的」なのですから。

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この記事へのコメント
あ~ん?(苦笑)

近藤さん、こんないい加減な言い方しちゃっていいの?

この文章を読んで、「近藤さんの言動は信心決定してるみたいだ」とか「この言葉は鋭い指摘だ」と思う親鸞会の人がいたとしたら、その人はもっと真宗を勉強したほうがいい。
2009/01/20(火) 06:59 | URL | 敢えて苦言を呈す #JalddpaA[ 編集]
敢えて苦言を呈す様

ご指摘有難うございます。
私も勉強中ですので、もし誤りがございましたら、どうぞおっしゃって下さい。
訂正致します。
2009/01/20(火) 07:17 | URL | 近藤智史 #-[ 編集]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2009/01/21(水) 01:15 | | #[ 編集]
MCというのは、思った以上に恐ろしいことだと思った。私 自身の知らないところで、(その人には全く悪気はなく、むしろ、好意的に接してくださっていたので、御本人が一番、ショックだろうと思う。)つまり、今、何を自分がしたのか、全く認識がないのである。善&悪のものさしが、まるきり違う。あえて、ここでは混乱するので、仏法についてのものさしは、書かないようにする。まず、私が驚いたのは、いきなり<触り方も知らない、書き方も知らない、音声など、到底扱えない私が、いきなり、はあ???という結果で、私がその音声をアップ、つまりはパソコンにあげる作業をしたことになっている>この言自体の是非は、ともかくとして、いつの間にそういう話になったのだ???という内容に出来上がっている事だ。そのように、言った張本人は、全く善良な人であり、まったく、人を貶めるような人ではない。無いがゆえに、MCとは、こんなにも、人の思考回路を奪うのか?という事だった。一番、害のなさそうな人へ、音声を送ったことにしておこう、という単純な計らいから、私の名前を出し(光栄ですが)しかも、念書にハンコまで、押していた。でも、この人は、単なる、問い詰められて、よくわからないが、切り抜けるために、一番、ありえない人の名前をだせば、さすがにそれはできないと、思っただろう、という。確かに、できないが、そもそも、問い詰められるような事をこの人はしてない、というから驚く。それでも、何かを言わねばならない雰囲気とは一体何であろうか?私は、その人の性格を非常によく知ってるわけで、まったく、売られたとは思ってはいないし、私が違う!と怒れば、結果的に損をするのは、ほかならぬ御本人であることに、気づくまでに、なんと1ヶ月も必要としていた。私は、この一連の出来事が、誰が、どうとは、全く知らない。けれども、自分の知らないところで、結果がとんでもない事になっていたのに、驚く。なによりも、一番、そう言った御本人が、一番損をすることになる。なんとか、しない、いかがなものか・・と思う。
2009/01/22(木) 18:44 | URL | 飛び入り投稿NO1 #-[ 編集]
管理者様から、ひよこが きえた☆ と言われたので、今いちど、思い出しながら、書いています。あの時、何を言おうとしてたのかを思い出しますが、根幹は同じですが文章は変わっていると思います。21世紀の・・・に期待したのは、やはり今の時代には、昔と違って、教育も非常に徹底されて、高い学問をそれぞれの分野で身につける人も多くなってきました。それが、いいとか、悪いとかではなくて、現代の人にも受け入れやすい、形を有る程度は示していただきたいなあ、と思いました。勿論、温かい雰囲気で、いかなる人をも受け入れてくださるのは大前提ではありますが、現代においては、その伝え方も変わってきていいのではないかと思います。確かに「理屈では通れないものであります」それを承知の上で、ただ、<ありがたい、ありがたい>、では何をありがたいのか、わからない。<申し訳ありません、申し訳ありません>では何を申し訳ないのか、わかりません。<しあわせです、しあわせです>では、何をどう、よろこばれているのか、わかりません。あまりにも、難しい専門用語は、分からないとしても、ある程度そこに、きちんと筋道が通ったものをあえて示していただきたいなあ、と思います。当然の事ですが言葉は100%を表しませんが、だからといって、あまりにも、体験重視でしたら、聞いているほうは意味が不明になります。そこは、知識では通れないとは言いながら、ある程度知識も、学問も、知っている内容も、打ち出して自由に語れるような形がいいのかなあ、と思いました。聞いているほうが、真実かもしれないが、相手の言おうとしている内容がわからない、となれば、会話が成立しませんから、そこは知っている人がある程度、仏法の言葉で、表現するように教えてあげてもいいのかなあ、と思います。今までの、切り口だけで、いいんだ、とかたくなになる必要は無く、全ての人を温かく受け入れる中にも、現代の人が、受け入れやすい知識も、あっていいのではないかと思います。
2009/01/22(木) 20:23 | URL | ひよこ #-[ 編集]
飛び入り投稿さんの文章読みました。それならば、被害の責任は、その元講師部員にあるのですから、その上司を訴えたらそれでいいんではないでしょうか?監督不行き届き以外の何者でもないと思いますが・・・・MCを解こうとするならば、一度目の前に、訴えがきて初めて自覚するのではないですか?念書を不用意に書いた人は当然おかしいですが、・・・・
2009/01/22(木) 23:22 | URL | それならば #-[ 編集]
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