法然聖人と親鸞聖人の教えは違う!? 乃至一念について

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2009/09/28(月)
あるところで、
「法然聖人と親鸞聖人の教えは違う」
と言われていました。
その理由として、第18願成就文の「乃至一念」の一念を、法然聖人は行の一念と釈され、親鸞聖人は信の一念と釈されたからというものでした。
ちなみに、大無量寿経には「一念」という言葉が数回出てきますが、往生の因に関する一念は3箇所です。
①本願成就文(註釈版聖典 41頁
②三輩段中の下輩(同 43頁
③弥勒付属の文(同 81頁

これらの一念についての親鸞聖人の釈は、
①本願成就文の一念は「信の一念」と言われ、
②三輩段中の下輩の一念は、直接の言及はなく、
③弥勒付属の文の一念は「行の一念」(教行証文類行巻 註釈版聖典187頁)とも「信の一念」(一念多念証文 註釈版聖典685頁)とも言われています。

法然聖人は3箇所の一念のいずれも行の一念と言われています。

覚如上人は、①と③ともに信の一念と言われています。
口伝鈔(21)一念にてたりぬとしりて、多念をはげむべしといふ事
註釈版聖典 911頁

蓮如上人は、③の一念は信の一念と言われています。
御文章5帖目第6通 一念に弥陀
一念に弥陀をたのみたてまつる行者には、無上大利の功徳をあたへたまふこころを、・・・
註釈版聖典 1192頁

このように、大無量寿経の中の往生の因をあらわされた一念を、「信の一念」と釈されるか「行の一念」と釈されるかでは、「教えが違う」ことにはなりません。

本願成就文の一念については、存覚上人が『浄土真要鈔 本』に説明しておられます。
この一念について隠顕の義あり。顕には、十念に対するとき一念といふは称名の一念なり。隠には、真因を決了する安心の一念なり。
註釈版聖典 967頁

また親鸞聖人は、『御消息』に、
信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
註釈版聖典 749-750頁
とおっしゃっていますので、「法然聖人と親鸞聖人の教えは違う」と言うのはとんでもない間違いです。
もし、このことを法然聖人や親鸞聖人が聞かれたならば、お二人とも悲しまれ、怒られるのではないでしょうか。
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