六要鈔と存覚上人 そして蓮如上人

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2009/09/29(火)
なぜいきなり六要鈔を出したのかといいますと、以下の記事を目にしたからです。
カラーの強調は私によるものです。

『御文章』を排した“近代教学”
(浄土真宗親鸞会 顕正新聞 平成21年9月15日号)
『御文章』はいかにして書かれたか、『山科連署記』にはこう記されている。
「教行信証文類、六要抄、表紙のやぶれ候ほどご覧じ候て、その後御文を御作りなされ候、これ千のものを百にえり、百のものを十にえり、十のものを一にえりすぐりて、凡夫直入の金言をいかなるものも、聞き易く、やがて心得候うようにあそばし候」
 蓮如上人は『教行信証』を表紙が破れるほど読み込まれ、その中の大事なこと、千の中から一つ選りすぐるようにして『御文章』をお書きくだされた。まさに凡夫往生の手鏡なのである。
(以下省略 大谷派のことについて書かれています)

*山科連署記……蓮如上人の法語や言行を記したもの

教学聖典に学ぶ
(浄土真宗親鸞会 顕真 平成21年9月号)
 この聖人の教えを破ったわが子・存覚を、覚如上人は断固、勘当されている。
 存覚は『報恩記』などに、「父母の死後は、追善供養を根本とする仏事を大切にして、親の恩に報いるつとめをはたすべし」「追善のつとめには、念仏第一なり」とまで言い切っている。
 先祖の追善供養を徹底排除された親鸞聖人の教えを、明らかに破壊するものであり、破門されて当然だろう。

(『歎異抄をひらく』より)

蓮如上人は教行信証や六要鈔を表紙が破れるほどまでに読み込まれて、御文章を書かれたと記されています。
蓮如上人が、存覚上人に対してどのようなお気持ちであったかは、御一代記聞書にも何箇所か書かれています。

一 前々住上人(蓮如)、南殿にて、存覚御作分の聖教ちと不審なる所の候ふを、いかがとて、兼縁、前々住上人へ御目にかけられ候へば、仰せられ候ふ。名人のせられ候ふ物をばそのままにて置くことなり。これが名誉なりと仰せられ候ふなり。
(蓮如上人御一代記聞書158 註釈版聖典 1281頁)

一 存覚は大勢至の化身なりと[云々]。しかるに『六要鈔』には三心の字訓そのほか、「勘得せず」とあそばし、「聖人(親鸞)の宏才仰ぐべし」と候ふ。権化にて候へども、聖人の御作分をかくのごとくあそばし候ふ。まことに聖意はかりがたきむねをあらはし、自力をすてて他力を仰ぐ本意にも叶ひまうし候ふ物をや。かやうのことが名誉にて御入り候ふと[云々]。
(蓮如上人御一代記聞書304 註釈版聖典 1331頁)

一 存覚御辞世の御詠にいはく、「いまははや一夜の夢となりにけり 往来あまたのかりのやどやど」。この言を蓮如上人仰せられ候ふと[云々]。さては釈迦の化身なり、往来娑婆の心なりと[云々]。わが身にかけてこころえば、六道輪廻めぐりめぐりて、いま臨終の夕、さとりをひらくべしといふ心なりと[云々]。
(蓮如上人御一代記聞書306 註釈版聖典 1331頁)

ところが同時に一部の会員に渡される顕真には、『歎異抄をひらく』を引用して、存覚上人を「存覚」と呼び捨てにし、勘当されて当然だと言い切っています。
(御一代記の中で「存覚」と書かれているのとは意味が違います)
存覚上人の追善供養に対する考えについては、以前の記事で少言及しましたので、そこをご覧下さい。
それに、六要鈔を何度も読まれた蓮如上人が『報恩記』などを読んでおられなかったとは考えられませんよね。
蓮如上人が「勢至菩薩の化身」「釈尊の化身」「名人」とまで敬われた存覚上人を貶すとはどういうことなのか、理解に苦しみます。
とにかく
もし、このことを存覚上人や蓮如上人が聞かれたならば、お二人とも悲しまれ、怒られるのではないでしょうか。
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