唯信鈔文意と歎異抄を読む

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2009/09/30(水)
唯信鈔文意の第2章 法照禅師の『浄土五会念仏略法事儀讃』巻本中漢讃4句のさらに最初の1句を説明されたところです。

【原文】
「如来尊号甚分明 十方世界普流行 但有称名皆得往 観音勢至自来迎」
(五会法事讃)
 「如来尊号甚分明」、このこころは、「如来」と申すは無碍光如来なり。「尊号」と申すは南無阿弥陀仏なり。「尊」はたふとくすぐれたりとなり、「号」は仏に成りたまうてのちの御なを申す、名はいまだ仏に成りたまはぬときの御なを申すなり。この如来の尊号は、不可称不可説不可思議にましまして、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまふ大慈大悲のちかひの御ななり。この仏の御なは、よろづの如来の名号にすぐれたまへり。これすなはち誓願なるがゆゑなり。「甚分明」といふは、「甚」ははなはだといふ、すぐれたりといふこころなり、「分」はわかつといふ、よろづの衆生ごとにとわかつこころなり、「明」はあきらかなりといふ、十方一切衆生をことごとくたすけみちびきたまふこと、あきらかにわかちすぐれたまへりとなり。
註釈版聖典 699-700頁

【現代語訳】(浄土真宗聖典 現代語版より)
 『五会法事讃』に、「如来尊号甚分明 十方世界普流行 :但有称名皆得往 観音勢至自来迎(如来の尊号は、はなはだ分明なり。十方世界にあまねく流行せしむ。ただ名を称するのみありて、みな往くことを得。観音・勢至おのづから来り迎へたまふ)」といわれている。
 「如来尊号甚分明」について、この文の意味は、「如来」というのは無礙光如来である。「尊号」というのは南無阿弥陀仏である。「尊」は尊くすぐれているということである。「号」は仏になられてからの後のお名前をいい、「名」はまだ仏になっておられないときのお名前をいうのである。この如来の尊号は、たたえ尽すことも、説き尽すことも、思いはかることもできないのであって、すべてのものをこの上なくすぐれたさとりに至らせてくださる、大いなる慈悲のお心があらわれた誓願の名号なのである。この仏の名号は、あらゆる如来の名号よりもすぐれている。なぜなら、この名号は、誓願そのものだからである。「甚分明」というのは、「甚」は「はなはだ」ということであり、すぐれているという意味である。「分」は「わける」ということであり、あらゆる凡夫を一人一人見分けて救うという意味である。「明」は「あきらかである」ということである。すべてのものをことごとく助けてお導きになることが、明らかであり、一人一人を見分けて救うのであり、それがすぐれているというのである。

【補足といいますか、味わいといいますか】
ここで、親鸞聖人は「甚分明」について詳しく説明しておられます。(青の強調箇所)
歎異抄「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」のお言葉に通じるものがあります。
阿弥陀仏は十方衆生を助けるという本願を建てておられますが、それは「私一人」を助けるための本願なのです。
その本願・名号を「私が」聞くことを、本願成就文には「聞其名号」と言われ、親鸞聖人は「聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」と釈されたのであって、他人のことを言われたのでありません。
歎異抄の先程の言葉の少しあとにある
「まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり」

をかみしめたいと思います。
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