願に相応するゆゑに
教と仏語にしたがへば
外の雑縁さらになし
(高僧和讃 善導讃 註釈版聖典592頁)
「願に相応する」を
「弥陀が見抜かれたとおりの、絶対助からぬ逆謗でありました」と疑いが晴れる。
と思っていたら、いつまでたっても願に相応しません。
「願に相応する」とは
「名号を聞く」ことであり、
「本願を信じ念仏申す者を往生成仏させる という弥陀の本願のとおりになる」ことです。
※御文章5帖目第5通「信心獲得」を読まれたらよろしいでしょう。
フター弥陀の本願(逆謗と見抜かれた)
ミー自分(逆謗でありました)
これがミとフタが相応したということで、
フタとミがあっていないから、願に相応していない。
だから、フタとミを相応させる為に、方便が教えられるというように、
理解を長らくしていたと思います。
そして、その方便は、諸善である。
それは相応させる為である。
おそらく、皆の理解も大方そのようだと思います。
それはそれで、結構な事にも思いますが、
よく考えてみれば、
法も機も、本願の名号の働き、信心の相でした。
往生に於いて、自分が知らされた事など、何の役にも立ちません。
機も法も如来廻向の信心の相なのに、その信心を自身が建立させようとしていたと思いました。
函蓋相応というのであるならば、フタは、如来から賜る真実信心、ミは行者、私。
私の信心が、機の深信になるというよりも、弥陀の信心が機の深信である、ということではないかと丁度思いましたところです。
今は、行者の起こす信心とは、ただ、弥陀の名号を受け取る、一つになる。それだけで、その信心の内容はすべて、弥陀の名号である、としか理解します。
機の深信の内容は、私が知らされるというよりも、如来の名号、信心、開けば二種深信を私が観させて頂くというか、そういう事であろうと思いますので、ただ、名号を受け取る一つでありました。
自分で善が出来るか、といよりも、凡夫が自分の悪が分かるのか、と、最近は思います。
自分の小善を自惚れて、人の善を妬む。
環境が整えられれば、今よりは出来る、あの人は、仕事がああだから、ああいう活動が出来る、私は誰よりかはやっている、そんな心持ちでしか生きられない私は、とても、千年かかっても何も知らされない事が分かりました。
ただ、何も知る智慧も持ち合わせていない自分だと分かりました。
私のする善があっても邪見驕慢にしか思えません。
とても、救われるとか、因縁になるとかのレベルではありません。
法然上人ではありませんが、「往生難しと思えり」です。
往生浄土の方便の善を否定するつもりは更々ありませんが、心がどこかで、弥陀の救いに向かう、名号に向かう、というように転換していかなければ、それこそ、釈迦の方便を無にしてしまうと思います。観無量寿経の目的はそこにあったのですから。
そして、確かに必ず名号に、阿弥陀如来の救いに思いをかけずにはおれなくなりました。
弥陀の浄土に生まれたいと願う人は必ずそのような心になるのではないでしょうか。
それは、弥陀の願力によってと思わずにおれません。
諸善万行から、弥陀の名号に向かおうとされている方を、騙されている、楽をしようとしている、善を否定している、三願転入が分かってない、仏教の根幹を否定している、と妨げてしまう方達がいるのは、とても残念なことです。
それは絶対に間違っています。もっとも悲しいことです。
これでは、救われたいと願う人ほど、去らざるを得ないと思います。
親鸞聖人のみ教え通りに弥陀の救いに遇うことを目指す団体に於て、これは痛恨の極みと言わざるを得ません。
まさに違うまじきぞ、人往かずともで、そんな私にも善友がある事を感謝致します。
私は、親鸞聖人の仰せ通りに、弥陀の本願を聞信しようとされる全ての方を御同行、御同朋と思っています。
我弟子、人の弟子という争いはあってはならないと思っています。
それがまた、弥陀の御心であると信じていますし、親鸞聖人のみ教えであると信じます。
自障障他ばかりですが、違うまじき。
ありがとうございます。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%87%BD%E8%93%8B%E7%9B%B8%E7%A7%B0
高森先生の言われるところの函蓋不相応でいったら、ということで書きました。
結構よく話されますね。
本来の函蓋相称とはどういうことか、この機械に知っておこうと思います。
ずっと、高森先生は浄土真宗の教えを正しく教えていると信じてきましが、6月の降誕会で”屈折”した解釈を聞かされて、さすがにおかしいと気付きました。調べてみると、以前発刊された正定聚に、過去の説法記録がありました。やはり、同じような屈折した解釈でした。これでは何百年聞いても同じことだと思い、訣別することを決めました。以前は気付かなかったことでも、気付くことがあるものですね。
屈折した解釈とはピッタリする表現と思いました。
高森教のように考えながらお勤めをするのと、近藤師の言われるようにするのとでは、本当に違いますね。
過去の過ちですが、恐ろしいです。