浄土門の因果の道理

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2009/10/07(水)
浄土真宗親鸞会の講師の人が自分のブログで、「因果の道理」を書こうとしています。
「書けば書くほど浄土真宗から離れていきますので、ほどほどになされた方がいいでしょう。」と警告を発しましたが、懲りずに続けておられます。
梯實圓師の著書から引用させて頂きますので、これでも読んで勉強して下さい。


 ともあれ信と疑をもって、迷悟を分判するということは、従来の仏教の因果論を超越した、新しい仏道領域の枠組みを提供されているとしなければならない。生死の苦果は、無明煩悩に縁って起こっている。それゆえ、生死の苦を滅して、涅槃の果をうるためには、八正道(あるいは六波羅蜜等)の行を実修して無明煩悩を断じなければならないというのが、苦集滅道の四諦の教説が示す迷悟の因果論であった。それはたしかに迷悟の事実を示していた。従来の仏教体系はこの四諦の因果を座標軸として成立していたのである。それを法然は自力断証の聖道門と名づけられたのであった。
 しかし阿弥陀仏の本願力によって一毫未断の凡夫が報土に往生し涅槃を証せしめられるという本願力の救済体系が成就している以上、凡夫が生死海にとどまっているのは、必ずしも煩悩があるからではなくて、本願を信じないからであるといわなければならない。それは自力断証の四諦の因果を認めながらも、それを包んで越えるような思議を絶した救済の因果であった。法然によれば阿弥陀仏の成仏の因果の徳は、すべて名号に摂在せしめられ、それを称える衆生の往生成仏の因となっていくように選択されており、それが本願の念仏であった。いいかえれば本願の不思議力によって如来の成仏の因果が、衆生の往生の因果を成就していくのであって、このような法門を法然は浄土門と名づけられたのであった。

ー中略ー
こうして自力の断証という自行の因果を座標軸として構築されていた聖道門に対して、本願他力の不思議を信じて念仏するという本願他力の信を座標軸の原点とする新しい宗教的世界観を樹立していかれたのであった。聖道門的世界観にあっては、自己の行為の善悪によって宗教的世界が形成されていくのであるから、善悪が価値の基準となっていたが、浄土教的世界観においては、不可思議なる本願を信ずるか疑うかという信疑が価値観の基準となっていた。
ー中略ー
(正如房に与えられた法語)
(唯信鈔の言葉)
(歎異抄の言葉)
 かくて法然、聖覚、親鸞によって確立し展開せしめられた浄土教においては、行為の善悪よりも本願への信疑が最大の問題となっていたことがわかる。如来に対する最大の反逆は、仏智をうたがうことであった。親鸞が「誡疑讃」において「仏智うたがふつみふかし、この心おもひしるならば、くゆるこゝろをむねとして、仏智の不思議をたのむべし」といわれた所以である。
梯實圓著 永田文昌堂刊 『法然教学の研究』pp298-300 ISBN8162-2108-5 C3015)
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2009/10/08(木) 12:53 | | #[ 編集]
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