観無量寿経のこころ その1 定善

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2009/10/13(火)
8月中旬に「観無量寿経 覚書」として数回にわたり記事を書きました。
一つ一つが長く、難しかったので、再度書きたいと思います。
(唯信鈔・唯信鈔文意や歎異抄についても並行して少しずつ書いていきます)

観無量寿経 覚書 その1」では定善について述べましたが、今回もやはり定善について書きます。
(観無量寿経に書かれている順番とか、重要な順ということではありません)

定善観には13種類あり、定善十三観と言います。
定善十三観は「依報観」と「正報観」に分けられます。
依報観とは阿弥陀仏の浄土の様相を観察すること
正報観とは仏や菩薩などを観察すること
です。
・依報観 日想観、水想観、地想観、宝樹観、宝池観、宝楼観、華座観
・正報観 像観、真身観、観音観、勢至観、普観、雑想観

それぞれに「仮観」と「真観」があります。
仮観とは私たちが実際に目に見えるものを思い描くことであり、真観への導入に当たります。
日想観、水想観、像観の三観が仮観です。
真観とは浄土の荘厳を観察することです。
以下は以前の記事の再掲です。

○依報観
 [仮観]     日想観(十三観に対する準備)、
          水想観(地想観に対する準備)
 [真観]
  《通依報》   地想観、宝樹観、宝池観、宝楼観
  《別依報》   華座観
○正報観
 [仮観]      像観
 [真観]
  《仏荘厳》   真身観
  《菩薩荘厳》 観音観、勢至観
  《自往生観》 普観
  《その他》   雑想観(仏荘厳、菩薩荘厳ができない人のために説かれた)

真観>仮観であり、
正報観>依報観であり、
仏荘厳>菩薩荘厳ですので、
第九真身観が一番勝れており、定善十三観の中心なのです。

さて、
「韋提希夫人は定善をやった」
あるいは
「韋提希夫人は定善をやろうとした」
と思っている人がいますが、
韋提希夫人は定善をやってもいませんし、やろうともしていません。

【理由】
1.韋提希夫人は釈尊に「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」とお願いして、その答えとして釈尊は定善を説かれました。
 つまり「私はお釈迦様のおかげで浄土を見ることができましが、未来の衆生はどうすれば見ることができるのでしょうか」と質問しているのですから、既に浄土を見た韋提希夫人にとって、定善をする必要はありません。
2.そもそも、韋提希夫人には定善はできません。
 日想観をやろうとしてできなかった韋提希夫人に水想観、地想観・・・と順番に易しくして導かれたと勘違いしている人がいますが、上に述べたように、定善十三観の中心は第九真身観です。
 日想観は雑想観とともに一番易しい方に入ります。
 もし韋提希夫人がやろうとしてできないために、他の定善をすすめられたとするならば、それはちょうど、4段の跳び箱を飛べない子供に、「では5段をやってみなさい」「そうかできないか、では6段をやってみなさい」「では7段」「8段」・・・と言う体育の先生のようなもので、いるはずがないのです。

 世の中にはやってみなけらば分からないことと、やらなくても分かることがあります。
 たとえば、ハーバード大学に入学するということはやってみなければ分からないとも言えます。
 しかし、国際宇宙ステーションに歩いて行くことは、それがどこにあるかを聞けば、やってみなくてもできないことは分かります。
 定善がどういうものか聞けば、できないことは分かります。
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タグ : 定善

この記事へのコメント
獲信したら定善が出来るようになる
という人がいましたが本当でしょうか?
2009/10/13(火) 18:36 | URL | ヒロ #-[ 編集]
ということは、親鸞会が作成した王舎城の悲劇のアニメの内容は間違っているということでしょうか。
高森会長は知らずに作ってしまったのでしょうか。それとも、あえて何かを意図して、誤った内容を作製したのでしょうか。もし、そうだとすると、何を伝えたかったのでしょうか。
2009/10/13(火) 21:48 | URL | 元会員A #ZE/C2eN.[ 編集]
親鸞会発行のアニメって、買ったんですけど、やっぱり間違ってる?と思います。どうみても、イダイケ夫人は「やったから」救われた、と描かれています。やっぱり、おかしいですね。
やったから、なんて。
2009/10/13(火) 23:10 | URL | 明石 #-[ 編集]
>ヒロ様
出鱈目ですね。
また、そのようなことは聞いたことがありません。

>元会員A様
はい。間違っています。
製作意図などについては、申し訳ありませんが、私は高森氏ではありませんので分かりません。
2009/10/13(火) 23:12 | URL | 近藤智史 #-[ 編集]
Fです。先日は失礼しました。
私は、現会員です。
少し質問させて頂きたいと思います。

>韋提希夫人は定善をやってもいませんし、やろうともしていません。

>【理由】
>1.韋提希夫人は釈尊に「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」とお願いして、その答えとして釈尊は定善を説かれました。
つまり「私はお釈迦様のおかげで浄土を見ることができましが、未来の衆生はどうすれば見ることができるのでしょうか」と質問しているのですから、既に浄土を見た韋提希夫人にとって、定善をする必要はありません。


(1)>既に浄土を見た韋提希夫人にとって、定善をする必要はありません。
上記のようにイダイケ夫人が釈尊に質問したのは、定善示観縁の一段ですが、善導大師の教えによると、この時はまだイダイケは救われておらず、救われたのは、第七華座観の前の住立空中尊の所です。したがって、イダイケは定善を実践する必要があったのではないのでしょうか。
実際、日想観の第一文は、
「仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢおよび衆生、まさに心をもつぱらにし念を一処に繋けて、西方を想ふべし。」」
ですが、釈尊はイダイケ(なんぢ)に、「日想観をしなさい」と仰っています。

(2)また、イダイケのことは置いておいて、私たちのことだけを考えてみるに、私たちは「仏滅後のもろもろの衆生等」なのですから、「定散二善を行ないなさい」、というのが定善示観縁の所の釈尊のお言葉の御心ではないでしょうか。そして、実際、日想観の第一文は、「なんぢおよび衆生」となっています。

(1)(2)のいずれから考えてみても、私たちに対して、定散二善(具体的には散善?)を実践しなさい、というのが観無量寿経の教えではないでしょうか。
2009/10/14(水) 12:46 | URL | F #-[ 編集]
一部分、以下のように訂正させて頂きます。


(2)また、イダイケのことは置いておいて、私たちのことだけを考えてみるに、私たちは「仏滅後のもろもろの衆生等」なのですから、「定散二善を行ないなさい」というのが定善示観縁の所での釈尊の御心ではないでしょうか。そして、実際、日想観の第一文は、「なんぢおよび衆生」となっています。
2009/10/14(水) 13:26 | URL | F #-[ 編集]
F様
先日は有り難うございました。

おっしゃる通り、善導大師は、韋提希夫人は第七華座観の前の住立空中尊の所で得忍したと書いておられます。
このことが何をあらわすのかというと、韋提希夫人の得忍と定善観法の実践とは無関係であり、阿弥陀仏の願力によるものであるということなのです。
つまり、もし得忍が定善の実践によるものであれば、定善十三観の後か、少なくとも第九真身観の後に得忍したとあるはずです。

次に「なんぢおよび衆生」とあるのはおっしゃる通り、表向きは定散二善の対機は聖者や賢者ではなく凡夫だということです。
しかし、観無量寿経には隠顕があり、定散二善は権仮方便として説かれたのです。
権仮方便の教説は「実践しなさい」ですが、それがそのまま我々が「実践できる」「実践する」「実践しようとする」ことにはなりません。
なお、浄土真宗において権仮方便という場合、聖道門、要門、真門が入ります。
いずれも「相手の根機を見て一時的に説かれたものであり、捨てるもの」です。
2009/10/14(水) 14:00 | URL | 近藤智史 #-[ 編集]
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