どこかで「信心の沙汰」をしていた記録だそうです。
テーマは
三願転入を説き「善をしなければ、信仰は進みませんよ」といえば、みな「善が間に合う」と聞く。そんな間違いやすいことを話してよいのか。
という《非難》についてどう答えるかでした。
いろいろと話し合われた最後に、司会者の「支部長」という人が
非難者は結局、善をしたくないんでしょう。「弥陀は、『おまえをすぐ助ける』と誓っておられるから、18願に飛び込め。方便なんかいらん。善の勧めなんかいらん。弥陀の本願を聞いて、すぐにそれを信じればいいんだ」と。
方便からしか真実に入れないのに、自分は方便を通らずに18願へ転入できると、とんでもなくうぬぼれている。弥陀の御心を、少しも分かっていないのです。善の勧めを否定する腹底は、そこにある。決して惑わされてはいけません。(強調は原文)
と締めくくっておられました。
どうしてこのような締めになるのかは分かりませんが、それはさておき、
「弥陀は、『おまえをすぐ助ける』と誓っておられるから、18願に飛び込め。方便なんかいらん。善の勧めなんかいらん。弥陀の本願を聞いて、すぐにそれを信じればいいんだ」
という文章は間違いであると言っています。
この人は願海真仮ということが分かっていないんだなぁと思います。
用語をまとめますと
真実ー真実ー他力
権仮ー方便ー自力
という対応になります。
ここで注意すべきは「方便」とは「権仮方便」であって「善巧方便」のことではありません。
先程の言葉の中の「方便」を自力に置き換えたり、補ったりすると
「弥陀は、『おまえをすぐ助ける』と誓っておられるから、(他力の)18願に飛び込め。方便(=自力)なんかいらん。(自力の)善の勧めなんかいらん。弥陀の本願を聞いて、すぐにそれを信じればいいんだ」
となります。
これ正しいんですけど・・・
自力が捨てられなくて困っている人が多いんですけど・・・
なんでわざわざ否定するのかよく分かりません。
言葉としてはここまで分かっている(真逆なんですけど)ことは立派だと思います。
残念ですね。惜しいですね。
でも結局、全く間違っています。
この支部長という人は、弥陀の御心を、少しも分かっていないと思います。
なお「方便からしか真実に入れないのに、自分は方便を通らずに18願へ転入できる」ということは前の言葉とは同じではありません。
生れた時から救われている人はいないのです。
○このように教えて頂きますが、いまひとつ、混乱して理解ができていないと思います。よろしくお願いいたします。
ここと↓
http://wikidharma.org/4ad5a926b6bf6
ここからのリンク(補註15)
をご覧下さい。
それでも分からない場合は、また質問して下さい。
よろしくお願いします。
以下、O支部長とY支部長とのやりとりです。
子牛「善をしなければ信仰は進みませんよ」
私「信仰が進んだ先に救いがあるのですか?」
子牛「進めば分かります」私「ではあなたは信仰が進んで分かりましたか?」
子牛「私はまだ進んでないので分かりません」
これでお分かりの通り、行学が大事と言っておきながらやってないのが実情です。言葉だけ模範回答を与えられて、信心はおろそかになっています。
支部長が「進んでないので分かりません」では会員の信心は推して知るべしです。実際私の教義上のメールは無視か削除されていて返信がありません。
『破邪顕正せざる者は仏弟子にあらず、仏法中の怨なり』ではなかったのかな?
仏法中の怨が親鸞聖人のお名前を語って外道の教えを説かないでもらいたいです。