改邪鈔(17)

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2009/10/17(土)
週末出かけますので、記事を書くことができません。
失礼します。

さて、覚如上人が「深信因果」について書かれています。
聖道門と浄土門の違いが分かると思います。
読まれたらよろしいでしょう。

改邪鈔(17)おなじく祖師(親鸞)の御門流と号するやから、因果撥無といふことを持言とすること、いはれなき事。
註釈版聖典937-940頁

 なお、私が仏教・浄土真宗に関連して書いた記事も150を超えていますが、調べてみますと、覚如上人の書かれた文は2つしか引いておりません。口伝鈔の19と21です。今日の改邪鈔17で3つ目です。
(「覚如上人」という名前を出したのは他にもあります。)
 浄土真宗の教学の歴史において覚如上人、そしてその長男の存覚上人はターニングポイントに当たる人なのですが、いずれあらためて述べたいと思います。

 ちなみに、親鸞会を知る上で覚如上人の教学や活動を知ることは重要だと思っております。
(このことは関係のない方、興味のない方もおられるでしょう。一応、私にとっては関心の範囲内です)
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この記事へのコメント
前からその改邪鈔(17)にはどのようなことが書かれてあるのか気になっていたのですが、
「深信因果」について聖道門と浄土門の違い
が書かれてあるのですね。それは分かりました。
ただどのような意味なのか知りたくて現代語訳なども取り寄せて読んでみたのですが、最初と最後の「因果撥無ということを持言とする」…「因果撥無の機あるべし」…のところがよく分からないのです。自分では

「祖師のご門流と言っている人達は、因果の道理を否定するということを持言とするのは、理由のないことだ。」(←よく意味が分からないです)

「…だから何を理由に「因果の道理を否定している人がいる」ということが言えようか。この言葉は、他力の宗旨をもっぱらにする当流にそむいている。まだよく伺い知らないためであろうか。はやく停止すべきである。」

と書かれてあるのかなと思うのですが、
凡夫が往生するのは仏因仏果の因果関係によるのであり、その仏になるための因は阿弥陀仏から与えられる仏智の一念であり、その果は仏になるという、これは仏の力による因果関係でありそれをみだすことはできないし否定するべきではない。だから浄土真宗の中で因果の道理を否定するのも、浄土真宗の中に因果の道理を否定している人がいると言うことも、理由がないから止めなさい、というようなことを言われているのでしょうか??結局ここでは何を停止すべし、と言われているのでしょうか?
2009/10/17(土) 23:44 | URL | h #VkVTiyLo[ 編集]
h様
この文章の流れからいうと、hさんの解釈でいいのではないかと思います。
つまり「因果撥無」という言葉を積極的・肯定的に使って、造悪無碍になるのもいけませんが、かといって、聖道門の説く因果に従って他力の救いを聞き誤る専修賢善計も間違いです。
この改邪鈔の文章は、メインの部分で専修賢善計を誡められ、最後に少し造悪無碍を牽制してあるように思えます。
2009/10/19(月) 09:20 | URL | 近藤智史 #-[ 編集]
改邪鈔の解説本が中々見つからなくて困っています。17を口語訳して解説して頂けないでしょうか?
2009/11/29(日) 14:48 | URL | 真偽検証 #-[ 編集]
改邪鈔の口語訳は、石田瑞麿氏のものがあるのですが、私としましては、石田瑞麿氏の訳は「どうも??」という印象を受けます。
頑張ってみますが、少々時間を頂きたく思います。
2009/11/30(月) 06:34 | URL | 近藤智史 #-[ 編集]
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