一向専念の意味 『真宗大辞典』(永田文昌堂)より

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2009/10/22(木)
仮名遣い、段落は少し変えてあります。
七祖の文は註釈版聖典七祖篇所収のものはそちらを参照しました。

 一向に専ら南無阿弥陀仏の名号を称念するを云う。大経下巻の三輩往生を説く文には「一向専念無量寿仏」とある。彼の三輩往生段の経文は多義を含むが、故に列祖の経文解釈は一様ではない。解釈の如何によって一向専念の意義も相違点を生ずるのである。
 先ず曇鸞大師は浄土論註下に「王舎城所説の『無量寿経』(下)を案ずるに、三輩生のなかに、行に優劣ありといへども、みな無上菩提の心を発さざるはなし。この無上菩提心とは、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生心とは、すなはち衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。」と言って、三輩ひとしく無上菩提心に由って往生を得ることを示されてある。
 次に善導大師は観念法門に「またこの経下巻(意)の初めにのたまはく、仏説きたまはく、〈一切衆生の根性不同にして上・中・下あり。その根性に随ひて、仏(釈尊)、 みな勧めてもつぱら無量寿仏の名を念ぜしめたまふ。その人、命終らんと欲する時、仏(阿弥陀仏)、聖衆とみづから来りて迎接して、ことごとく往生を得しむ〉」と言えり。是は三輩往生段の経文に拠って専念仏名を以て往生を得ることを述べたものである。
 次に源信和尚は往生要集下本の念仏証拠文に「双巻経の三輩の業、浅深ありといへども、しかも通じてみな一向専念無量寿仏と云えり」と述べ、又諸行往生を説く中に観経の九品往生を列ね終わって「双巻経の三輩の業もまたこれを出でず」と言い、
 源空聖人は選択集上に「三輩念仏往生之文」と票章して三輩往生段の経文を引き「これに三の意あり。一には諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。二には念仏を助成せんがためにしかも諸行を説く。三には念仏・諸行の二門に約して、おのおの三品を立てんがためにしかも諸行を説く」と言い、又同聖人は大経釈(漢語燈録一)に「今の三輩の文に但念仏往生の輩あり、助念仏往生の義ありまた諸行往生の義あるなり」と言う。
 次に宗祖は曇鸞の解釈を稟承して信巻にその文を引き、又善導源信の三輩念仏往生の釈を稟承して行巻の往生要集の念仏証拠門の文を引き、又源信源空の三輩諸行往生の釈を稟承して化土巻に第十九願の文を引いて「この願成就の文は即ち三輩の文これなり」と言い、三経往生文類に至る。

 要するに三輩往生段の経文には第十八願の他力念仏往生の意味と、第十九願の諸行往生の意味とを含むものとするのである。これ即ち一文両義の例である。

 よってもし他力念仏往生を説いた経文として一向専念の語を解すときは、一向とは阿弥陀如来一仏を信仰して他仏を信仰せず、彼の如来の願力に乗じて往生をうることを深信して諸行諸善に心意を向けざることであり、専念とは専一称念の義で専ら南無阿弥陀仏の名号を称えることである。
 もし諸行往生を説く経文として一向専念の語を解するときは、一向とは心意を阿弥陀如来一仏に向けて他の諸仏に向けざること、専念とは専ら彼の名号を称えその称功を積んで自分の往生の因にそえることである。然るに諸行往生の人は、専ら仏名を称うといえども、その称名は諸行と同等価値とみなすものである。故に古来先輩はこの種の称名を呼んで万行随一の念仏と名づけてある。
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