極難信

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2009/10/23(金)
加茂仰順師 『親鸞<信> -本願の念仏-』(永田文昌堂)より ②
極難信 352頁
(一部漢字、かなを変えてあります)
大切なのでよく読まれることをお薦めします。

 もしも真宗のおみのりは聞けば聞くほど難しいという者があるならば、それは理屈を知ろうと思うからです。真宗は、無上の妙果に至らせていただくのですが、その無上の妙果に至るのは易いが、真実の信心を得ることが難しい。なぜ難しいのかというと、真実の信心は、如来の加威力によるからである。また如来の大悲広恵の力によるからである。つまり、如来から与えて下さるものだから難しいのであります。
 それはまたなぜでありましょうか。与えて下さるものを私がつかもうとするから難しいのであります。
 与えて下さる如来の名号の親心を私がすなおに聞けばよいのですのに、それを私がしっかり信じてとか、称えてとか手を出します。ここに難しいといわれるところがあります。聞けば聞くほど難しいのではありません。聞いて信じて、しっかりなってと私が難しくしているのです。聞いて、こういうおかげでと理屈で知ろうと思うのです。私が信ずるということ、しっかりなろうとすることに力を入れるから難しいのです。
 如来はしっかり信じたら、称えたら、しっかりなったらというのではありません。よい加減のことであればどうでもよいのですが、弥陀のおさとりの得られるだけのものだとなると、私ごとき者に出来るものではありません。だから、こちらからどうにかなってではなく、如来からそのお助けがあらわれて下さらねばなりません。
 それは私が見とどけてとか、それをしっかり仕とおせとかいうものではありません。
 如来のお助けはよびごえとなって、私の中へあらわれて下さるのであります。如来のお助けのはたらきが声となってあらわれて下さるのであります。この私のあさましさに泣いているのであればまだしもですが、今のすがたが悪いとも気付かず、これでよいのだという日暮しをしております。それゆえこの私に慈悲の涙を流されているのです。
 この私のために本願をたて、それを仕上げていま南無阿弥陀仏となって、私を喚んで下されてあるのです。あさましい私を知って、その知った私を助けて下さるのが南無阿弥陀仏だとなると、罪福信ずる行者になります。お助けも代償になってしまいます。私は自分のことも問題とせず、しらぬ顔の者だそうですが、私が問題とせねばならぬことを、如来が心配して下さるのが真宗であります。私の助けられてゆく法までを如来が心配下されて、成就して下されたのが南無阿弥陀仏であります。それゆえ南無阿弥陀仏を向こうに置いて信じにかかるのではなく、南無阿弥陀仏のはたらきが、私にあらわれて下さるのであります。(中略)そういういわれの南無阿弥陀仏を、信じよう、いただこうとと手を出すものですから、いただけないのです。難信の法とは、ここのところを仰せられたのです。難しいのは法ではありません。ゆきやすい、こころえやすい法を私の計らいをもって、いただきにかかるところに、難信の法にしてしまっているのであります。
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