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観無量寿経のこころ その5 釈尊の沈黙の意味

2009/10/23(金)
釈尊の沈黙の意味については既に一度書きました。
観無量寿経 覚書 その2
ところで
「私は仏法を聞いているのになぜ救われないのだろうか?」
という疑問を持っている人もいるでしょう。
先の「極難信」に引いたこととは違った観点から言いますと、それは、
「あなたの聞いている“仏法のようなもの”が正しくないからです。つまり、正しい仏法を聞いていないからです。」
とも言えます。
(某ブログなどに書かれている「因果の道理」などはとても仏の教えとは言えません)
「釈尊の沈黙の意味」一つをとっても、真逆の意味で説明している人もいます。
これでは阿弥陀仏、釈尊の心を知ることはできないでしょう。
『観経疏散善義講讃』深川倫雄著 320頁より引きますので、読んで下さい。

捨てて流転せしむべからずとは、仏の慈悲の心である。罪業の衆生を救うという如来は決して罪業の奨励も許可もしない。人はみな現在を生きる。未来に向かって生きる。過去はそれが善悪の何れであれ、どうすることも出来ない。
 例えば『観経』の序分、韋提希夫人の王宮に降臨された世尊は、怨を子に致して、悶絶号哭し、何等因縁と問い奉るに対して、黙然として語りたまわず。過去を解明してもどうすることも出来ない。現在の苦を知らんと欲せば過去の因を見よという言葉(註⑦)は、理かは知らねども慈悲なき言葉である。過去が現在を救いはしない。夫人の心が未来に向い、我を教えて清浄業処を観ぜしめよと請い奉ると、忽ちに光台現国以下、身業、口業の説法が始まった。太子、父王、夫人、その他の織りなした逆悪など、既に造れる罪業を問責するものではないことを示している。ことは未来にある。
既に造った罪業は、その苦報を思うにつけ捨ててはおけないのが如来の慈悲である。それが五劫思惟の時、一切衆生の曠劫流転の姿をみそなわした慈悲の心である。


註⑦ この語は伝聞して『因果経』にありというが、因果経は現存せず、文を検し得ない。
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この記事へのコメント
たしか深川倫雄和上の平成六年の安居の講本ですね。
同じ年の副講が梯實圓和上の『玄義分鈔」-幸西大徳の浄土教-だったと思う。
このお二人には感謝してもあまりあるお育てを受けた御恩があります。

それにしても蒐集の範囲が広いですね。たぶん今が一番楽しい時なんだろうな。
ちょっとうらやましいので、再度お聖教を引っ張り出して勉強しようかな(笑
2009/10/23(金) 16:29 | URL | 林遊@なんまんだぶつ #n53L/O22[ 編集]
皆さんに追いつこうとやっとやっとです。(研究者になることを目指しているわけではありませんが)
深川和上は林遊さんに薦められてで、加茂師は知人に著作を借りたことがきっかけです。
梯和上は有名ですし・・・
とにかくできる時に勉強しなければと思っております。
2009/10/23(金) 18:32 | URL | 近藤智史 #-[ 編集]
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