念仏往生と信心往生

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2009/10/24(土)
季刊 せいてん №3(1988 夏の号)
「対談 浄土真宗の信心」より、梯實圓師の言われていることを抜き書きしました。
以下、引用です。


 如来さまは称名念仏を決定往生の行と選び定め、「お願いだから、お念仏してくれよ」と願っておられる。そこで念仏するということは、如来さまのお心に随順することであり、決定往生の行であると信知されました。したがってじつは念仏往生と領解するとこのほかに信心はないんですね。念仏往生と信ずることが本願に対する絶対の信順なのです。そして、行というものの意味がこのときに変わるわけなんです。

 従来の仏教でしたら、善い行いをすれば悟りが開け、悪い行いをすれば地獄に堕ちるというふうに、善悪の行によって迷いと悟りを決定しようとします。したがって悪人に救いはありえません。ところが法然聖人の宗教は決定的にちがいまして、念仏往生の本願を信ずるか疑うかによって迷いと悟りを決定しようとします。それを信疑決判といいます。そのことを示したのが、「信ずるがゆゑに涅槃に入り、疑ふがゆゑに生死にとどまる」という有名な言葉です。その意味で法然聖人の浄土教は、本質的に信心の仏教なのです。
 つまり念仏という行は、わたしが煩悩を断ち切るために行ずるものではなく、煩悩あるがままを救う阿弥陀仏のいますことを信知する行であり、如来の平等の大悲の表現であるような行であるとみられたわけです。

 浄土宗(浄土真宗)とは、阿弥陀仏が万人を平等に救うために選び定められた、念仏という本願の行を説く宗教である、ということをはっきりさせるために、念仏往生の旗印をかかげられたわけです。しかしそれはそのまま、念仏往生を誓われた「本願を信じて念仏せよ」と教えることになりますから、信心を勧めたことになるわけです。
 法然聖人はそれについて、「衆生称念必得往生としりぬれば、自然に三心を具す」(称名念仏すれば必ず往生を得ると心得れば、おのずから信心はそなわっている)と示されています。つまり、念仏申せば必ず助かると思っていることは、念仏往生を誓われた本願を信じていることにほかなりません。
 本願の信心が念仏の声となって表れている以上は、念仏申すほかに信心をわが心の中にさがし求めるな、とさえいいます。これは隆寛律師の『後世物語聞書』の中にはっきり出てきます。また法然聖人は「南無阿弥陀仏と申せば声につきて決定往生のおもひをなせ」ともいわれています。「なんまんだぶ・なんまんだぶ・なんまんだぶ」と聞こえているその声を聞けば、念仏の衆生を摂取して捨てないと誓われた本願がたのもしく味わわれるということでしょう。

 たしかに法然聖人は念仏往生を強調されており、親鸞聖人は信心の形而上学といっていいほど信心の徳を強調し、信心が大菩提心であり、成仏の正因であるといわれています。しかしそれは力点の置き方にちがいがあるだけで「本願を信じ、念仏申さば仏になる」という基本的な信条はまったく同じです。
 だから法然聖人は念仏往生で、親鸞聖人は信心往生である、というふうに二つの立場に分けてしまう考え方には、わたしは賛成ではありません。もともと念仏往生と信心往生とは行法を語るか、機受をあらわすかのちがい、つまり、どのような行をなすべきかを明らかにする立場と、念仏を疑いなくいただいていく立場のちがいで、一つのことがらをあらわしていました。
 前にもいいましたように念仏は善悪、賢愚のへだてなく、万人がそれによって生死を超えるべく、如来が成就された普遍の行法であり、信心とは、その南無阿弥陀仏が、わたしの助かる道であると疑いなく聞き開いたことです。この信によって行がわたしの道になるのですから、信心を肝要とするといわれるわけです。親鸞聖人はこれを行信とよばれています。
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タグ : 梯實圓

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