加茂仰順師『御安心』より 直ちに来れ

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2009/10/26(月)
 私の形や心にあらわれるすべての模様を、弥陀は、ほんのそのときの有様であると見て、そんなことにはおかまいなく、私の気のつかない、どうしても落ちねばならない私の素地にお眼をつけさせられたのでした。そしてこの望みの絶えた素地こそが弥陀の目当てである。その素地のためゆえに、五劫の思惟、永劫の修行の元手をおろしたぞ。それだから後生にかけての心配ならどれほどあってもかまうことはない。案ずるな、世話やくなとの仰せです。
 しかるにこの私はそれとは知らないで、どうでもよいはずの心の有様にこれでよかろうか、これではいけませんかと心痛しています。この心の有様がたとえ「有難い」とか、「安心した」とか、「うれしいことよ」とかになれたとしても、そんなことでおよろこびになる弥陀じゃありません。私の知らない、少しも気のつかない、後生にかけてはまじめさのない、大事のかからない私。勿論お浄土へは参る望みもない、それかと云って地獄へ行くことも何ともない、とたとえてみれば、目の形も、鼻の形もない、本当にしようしかたのない、この素地が、見抜いたときと少しも変わりがなかったら、わが六字がまるまる役に立つゆえ、この弥陀はうれしい。
 要するに「有難い」も「うれしい」も「ほんまかしらん」も、みんな心の模様です。「それならばおかしなことぢゃ」と思うことも心の模様。そんなことはあってもよい。いよいよ駄目な素地を見抜いて、それをめがけていのちがけでおひきうけくださってある弥陀であります。
 弥陀いつも「直ちに来れ」と喚びたまうてあります。その「直ちに」とは何一つも用意はいらないということ。親の待つ前には土産も、着物もいらぬ、いまのすがたのままぞよ。欲も怒りも、愚痴も、捨ててではない。地獄行きのまま、いのち終わり次第、連れてかえるのお助けであります。この私が仏くさくなってからではない。見抜かれた私の素地のまんまが喚ばれておるのです。そして与えられたままのものから南無阿弥陀仏と口から出て下さるのです。
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タグ : 加茂仰順

この記事へのコメント
親鸞会では阿弥陀仏を親に譬える事を嫌います。
信心数え歌も、わざわざ書き直した程です。
私達と阿弥陀仏とは親子ではないからふさわしくない、という理由だったと思います。
しかし、その想いが阿弥陀仏を遠い存在にして、救いから遠ざかっているのでは、と思う様になりました。
庄松同行も他の妙好人も、親様と言われています。
もっと阿弥陀仏を身近な存在に感じる為には、たとえ本来そうでなくても、親子と思う様にしていきたいと思います。
2009/10/26(月) 12:49 | URL | ひろし #-[ 編集]
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