しかるにこの私はそれとは知らないで、どうでもよいはずの心の有様にこれでよかろうか、これではいけませんかと心痛しています。この心の有様がたとえ「有難い」とか、「安心した」とか、「うれしいことよ」とかになれたとしても、そんなことでおよろこびになる弥陀じゃありません。私の知らない、少しも気のつかない、後生にかけてはまじめさのない、大事のかからない私。勿論お浄土へは参る望みもない、それかと云って地獄へ行くことも何ともない、とたとえてみれば、目の形も、鼻の形もない、本当にしようしかたのない、この素地が、見抜いたときと少しも変わりがなかったら、わが六字がまるまる役に立つゆえ、この弥陀はうれしい。
要するに「有難い」も「うれしい」も「ほんまかしらん」も、みんな心の模様です。「それならばおかしなことぢゃ」と思うことも心の模様。そんなことはあってもよい。いよいよ駄目な素地を見抜いて、それをめがけていのちがけでおひきうけくださってある弥陀であります。
弥陀いつも「直ちに来れ」と喚びたまうてあります。その「直ちに」とは何一つも用意はいらないということ。親の待つ前には土産も、着物もいらぬ、いまのすがたのままぞよ。欲も怒りも、愚痴も、捨ててではない。地獄行きのまま、いのち終わり次第、連れてかえるのお助けであります。この私が仏くさくなってからではない。見抜かれた私の素地のまんまが喚ばれておるのです。そして与えられたままのものから南無阿弥陀仏と口から出て下さるのです。
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