顕正新聞を読んで④ その4

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2009/11/01(日)


 現今の浄土真宗は、捨てよと教えられるこの自力を、努力する行為そのものと誤解しているから、「親鸞聖人に善の勧めはない」「自力は捨て物ではないか」「頭燃を灸うが如く努めてみても、雑毒雑修の善ではないか」「そんな善を勧める必要がどこにある」「善を勧めるのは大間違いだ」と、やりたい放題、したい放題、言いたい放題。外道よりもあさましい生きざまをさらしてきたから、親鸞聖人の教えは悪人製造の宗教だとそしられ、冒頭のような惨状にまで至らしめたのである。
 無気力で、消極的、退嬰的な「善を勧めぬ浄土真宗」は、かくて崩壊の一途を驀進しているのだが、当人たちは一向にその真因が分からず目が覚めない。捨てなければ助からぬ自力とは何か、まったく分かっていないところにあるのである。


まず、文章の問題からです。
この③には4つの文があります。
最初の文からA、B、C、Dとします。
Aの文の主部は「現今の浄土真宗は」です。「現今の浄土真宗」が主語です。
では述語・述部はどうかといいますと、「○○放題」と体言止めになっております。
Bの文の主部はありませんが、Aの続きでしょうから、やはり「現今の浄土真宗は」でしょう。述部は「~惨状に至らしめたのである」です。
Cの文は主部は“無気力で、消極的、退嬰的な「善を勧めぬ浄土真宗」は”で、基本的にA,Bと同じものを指しています。述部は2つあって、“崩壊の一途を驀進している”“一向にその真因が分からず目が覚めない”です。
Dの文は主部はありませんが、Cの続きでしょうから、主語は「崩壊の一途を驀進している真因」で、述部は文全体です。

何が言いたいのかというと、文章として体をなしていないということです。

次に内容です。
「現今の浄土真宗」を「善を勧めぬ浄土真宗」と定義して批判を展開しています。
具体的に言いますと、この文章Aを読んだ人は
a「親鸞聖人に善の勧めはない」
b「自力は捨て物ではないか」
c「頭燃を灸うが如く努めてみても、雑毒雑修の善ではないか」
d「そんな善を勧める必要がどこにある」
e「善を勧めるのは大間違いだ」
などが「現今の浄土真宗」の主張であり、「間違った教え」であると理解するでしょう。
そもそも「現今の浄土真宗」という曖昧な言葉が指している対象は何なのかが分かりません。
さらに「現今の浄土真宗」が上記5項目を主張しているという根拠が示されていません。
さらにこれらが「間違った教え」であるという根拠が示されていません。
つまり「誰が」「何を」主張し、その主張が正しいかどうかが全く論じられていません。
上記5項目については順番に見ていきましょう。
aは文自体の意味が分かりません。
たぶん「親鸞聖人は善を勧められなかった」とか「親鸞聖人の教えに善の勧めはない」ということなのでしょう。
これだと「何の為に」が意図的に抜かされていますので、意味のない文章です。
bは正しいです。つまり自力は捨て物です。
cも正しいです。つまり人間の善は雑毒の善です。
dはaと同じです。つまり「何の為に」が抜けています。
eもaと同じです。つまり「何の為に」が抜けています。
以上、いずれも批判としては意味をなしていないでしょう。
批判するなとは言いませんが、批判するならきちんとしないといけないと思います。

4つの文には
“やりたい放題、したい放題、言いたい放題。”
“外道よりもあさましい生きざまをさらしてきた”
“無気力で、消極的、退嬰的な”
“崩壊の一途を驀進している”
“当人たちは一向に~目が覚めない”
と、なかなか激しい言葉で誰かを批判していますが、相手が特定されていませんし、批判内容そのものもあまり意味のないことと思います。
私に言わせて頂くならば、阿弥陀仏に救われているかどうかが問題なのですが、それが抜けておりますよね。
これは「捨てなければ助からぬ自力とは何か、まったく分かっていない」からだと思います。
この③の部分は「現今の浄土真宗」「善を勧めぬ浄土真宗」についての記述ではなく、親鸞会についての記述であるようにも思えてなりません。
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