それほど重要なことではないのですが、恥ずかしいです。

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2009/11/01(日)
親鸞会の講師の人のブログで、鳥窠道林禅師のことを「うか」禅師と書かれていました。
これは間違いです。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
 鳥窠道林(ちょうか どうりん、741年 - 824年)は、中国・唐代の禅僧である。
 杭州富陽県(浙江省富陽市)の出身。円修禅師と諡された。白居易との交流で知られる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E7%AA%A0%E9%81%93%E6%9E%97

ウィキペディアが全面的に正しいというわけではないですが、鳥窠は「ちょうか」です。
なお鳥窠道林禅師は、中国禅宗の中でも牛頭法融を祖とする牛頭宗の流れをくむ人です。

また、白楽天(白居易)との問答では、七仏通誡偈を全文言ったのではなく、「諸悪莫作 衆善奉行」と、偈の前半を言ったとされています。
(このこともウィキペディアに書いてありますけどね)

なぜ、人名の読み間違いが起きたのかというと、大沼師の本がそうなっていたという都市伝説があります。
でもちゃんと調べれば、すぐ分かることなのです。
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タグ : 親鸞会

この記事へのコメント
あのブログを読むと、高森教学の間違いがよくわかりますね。
親鸞会所属時には気付きませんでしたけれど。
自分の真実の姿が知らされてから、仏教で教えられる真理が理解出来てから、阿弥陀仏に救われる。
自分の真実の姿を知らされるには、自分で善をしてみることが絶対必要な条件である。
阿弥陀仏の他力の救いにあうまでに、たくさん通らなければならない関門があるみたいで、親鸞会の皆さんは大変だと思いますね。
2009/11/01(日) 20:24 | URL | #-[ 編集]
しかし、親鸞会も虎を野に放ったみたいなものだな (笑

きちんと、まともな真宗の教義と親鸞会のヘンテコ教義を相対化して提示してくれてるしね。
脱会/除名された方々が、このような情報を公開してくれるのはありがたい事ですね。

最近の真宗坊主も、教えられた教義を鵜呑みにするだけで、十分に自己の内面で咀嚼出来ていない者も多いんだよね。
その意味では真宗の教義を親鸞会の異義と相対化することで真宗坊主の勉強にもなるかもね。
2009/11/01(日) 21:51 | URL | 林遊@なんまんだぶつ #n53L/O22[ 編集]
「顕正新聞を読んで」もそうですが、
親鸞聖人の教えを大事といいながら、教えの内容も言葉も杜撰極まりないですね。
会の中にいた時には気づきませんでしたが・・・
近藤先生いまさずば、今のように間違いに気付きも正しい教えにも会えませんでした。
ありがとうございます。
2009/11/01(日) 22:22 | URL | Rudel #tl.z6klY[ 編集]
Rudelさんへ
あわわ。
そういう言い方ははやめようじゃない。
御同朋御同行ですから。
2009/11/01(日) 22:43 | URL | 近藤智史 #-[ 編集]
例のブログの『因果の道理を説くと、救いから遠ざかる??(2)』を
『親鸞会講師の”仏法の救い”の疑問と蓮如上人の成仏のための教え』
というように思いながら以下のように読むと
親鸞会講師が御文章を読んでいるのか非常に疑わしく思えます。


●親鸞会講師の”仏法の救い”の疑問(99パーセントは廃悪修善)

>「仏教とは一言で言えばどんな教えか?」という白楽天の問いに対する鳥彙禅師の答えが、
>「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」でした。
>この話からも分かりますように、釈尊45年間の教えの99パーセントは廃悪修善なのです。
>もし、仏法の救いと善の勧め(廃悪修善)が無関係、あるいは反って遠ざけるものだとするならば、
>なぜ釈尊は45年間の大半かけて、このことを説かれたのか?という素朴な疑問が残ります。


●蓮如上人(如説修行・成仏)の回答(いづれも釈迦一代の説教)

それ、諸宗のこころまちまちにして、いづれも釈迦一代の説教なれば、まことにこれ殊勝の法なり。
もつとも如説にこれを修行せんひとは、成仏得道すべきことさらに疑なし。

※(神明三か条)当流のなかにおいて、諸法・諸宗を誹謗することしかるべからず。
いづれも釈迦一代の説教なれば、如説に修行せばその益あるべし。
さりながら末代われらごときの在家止住の身は、聖道諸宗の教におよばねば、それをわがたのまず信ぜぬばかりなり。


●親鸞会講師の自問自答(無善造悪の者)

>さらに鳥彙禅師は
>「三歳の童子もこれを知るが、八十の翁もこれを行うは難し」と言っています。
>これは、いくら頭で納得していても、納得した通り実行できない。つまり、悪を止めようとしても止められず、善を行おうとしても行えないということでしょう。
>なぜそういうことになるのか?
>それは私たちの本性が、無善造悪だからではありませんか。
>無善造悪の者に、廃悪修善を説いて、それが簡単に実行できる道理もありません。
>「八十の翁も行うこと難し」とは、そのことを意味しているのでしょう。


●蓮如上人(如説修行・成仏)の回答(末代このごろの衆生は、機根最劣)

しかるに末代このごろの衆生は、機根最劣にして如説に修行せん人まれなる時節なり。
ここに弥陀如来の他力本願といふは、今の世において、かかる時の衆生をむねとたすけすくはんがために、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじ」と、ちかごとをたてましまして、その願すでに成就して阿弥陀と成らせたまへるほとけなり。
末代今の時の衆生においては、このほとけの本願にすがりて弥陀をふかくたのみたてまつらずんば、成仏するといふことあるべからざるなり。


●親鸞会講師の自問自答

>(中略)
>だから、仏教における廃悪修善の教え導きがあってこそ、はじめて己の心に目が向くのではありませんか。
>このほかに、己の心に目を向けさせるどんな方法があるというのでしょう。
>(中略)
>もしこれ以上の方法があると言うなら、きっとその人は釈尊以上の先生なのでしょう。それこそ〃珍しき法門〃と思われます。

●蓮如上人のご忠告(それ当流門徒中)

このうへには後生のためになにをしりても所用なきところに、ちかごろもつてのほか、みな人のなにの不足ありてか、相伝もなきしらぬくせ法門をいひて人をもまどはし、また無上の法流をもけがさんこと、まことにもつてあさましき次第なり。よくよくおもひはからふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。


親鸞会の人には会の電話・ビデオ・書物でなくて御文章をもっともっと読んでもらいたいですね。
2009/11/02(月) 20:15 | URL | #-[ 編集]
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