◉ある人
親鸞会には信心決定している人が、少ないのではないか。①
◉親鸞学徒
じゃ、どこに信心決定した人が多くいる所があるのか。
堂々と言えるか。
[解説]
そんな所があれば、信行両座の諍論などは昔だけのことになるでしょう。
法然上人には三百八十余人のお弟子がありましたが、その中、信の座についたのは、親鸞聖人を含めて四名のみだったではありませんか。
智恵第一、勢至菩薩の化身といわれた法然上人からじかにご教導を頂き、親鸞聖人のような方を法友としていた人たちでも、弥陀の本願の真意を体得していた人の少なかったことに驚きます。
蓮如上人も大勢の参詣者を前にして、
「このうちに信を獲たる者幾人あるべきぞ、一人か二人か有るべきかな」(御一代記聞書)
と言われて、皆肝をつぶしたとあります。
獲信したつもりになっていた人たちばかりであったからでしょう。
釈尊は『大無量寿経』に
「易往而無人」
(弥陀の浄土へは往き易いが、往っている人が少ない)
とおっしゃっています。
それを親鸞聖人は、
「真実信心の人はありがたき故に実報土に生る人稀なり」(尊号尊像銘文)
と言われ、蓮如上人も、
「信心をとる人稀なれば浄土へは往き易くして人なし」(御文章)
と、真実の信心を獲得している人が少ないからだと教えられています。
「ここには信心決定した人がたくさんいるぞ」などと平気で口にするのは、法然上人や親鸞聖人、蓮如上人よりも勝れたお方か、人工的自力の信心で、他力真実の信心を知られない人でしょう。
【私の感想】
1.これは親鸞会に対する質問ではないのでしょうか?
「ある人」の質問は「親鸞会には信心決定している人が、少ないのではないか」というものですので、それを肯定するか否定するか、あるいは部分的に認めるかなどの答えが必要でしょう。
あくまでも親鸞会について聞いているのであって、他の団体・グループについての質問でありません。
2.信心決定した人は少なくなければならないのでしょうか?
信行両座の諍論、釈尊・親鸞聖人・蓮如上人の言葉は「真実信心を獲た人が少ない。だから早く信心決定してもらいたい」ということを示しているだけで、少なくていいとか少ない方がいいということではありません。
質問者が「はい○○会には信心決定したと言っている人がたくさんいますよ」と言うかもしれないので、最後の文を加えてあるのでしょうが、実際にその会には「私は信心決定した」と言っている人がたくさんいるかもしれないのに、会ったり話したりもしないで、根拠もなく批判するのはよろしくないと思います。
3.この答えは親鸞会には信心決定している人が少ないという言い訳を言っているのではないでしょうか?
4.これを読んだ会員はどう思うでしょうか。
「信心決定している人は少ないんだ。」
「講師の人たちも信心決定しているとは言っていないし、そのように思えない。私が信心決定していなくてもおかしいことではない。」
「私は信心決定していないけど、信心決定などそんなに簡単にできることではないんだ。」
などなど・・・
決してプラスにはならないでしょう。
5.最後の「法然上人や親鸞聖人、蓮如上人よりも勝れたお方か」という文言の意味が不明です。
知識が勝れているとたくさんの人が信心決定し、そうでなければ信心決定する人が少ないということなのでしょうか。
[まとめ]
このような問いと答えを学ぶより、どうすれば信心決定できるのかという会員の切実な問いに、会が答えることの方が大切です。
(「どうすれば」という心が自力だ・・・等という話はここではするものではないでしょう。それは次の問題です)
一人一人のしのぎですから、たとえば、ある会の構成員が100人いて、100人全員が信心決定していてもおかしくはありません。
もちろん土蔵秘事のように人間である知識が与えたり認定するようなものは論外です。
上記の信行両座の諍論でいえば、三百八十余人全員が信の座に入ったということがあってもおかしくないということを言ったまでですので、お間違いのないようにして下さい。