高森顕徹先生の独言 について 訂正したもの

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2009/11/06(金)
使われている言葉はそのままにして訂正すると、次のようになります。

 阿弥陀仏の浄土に往生するのは、弥陀の名号の独り働きだから、諸善や六度万行をやる必要がない。
“雑行雑修を捨てよ”とはこのことだと教えられている。
 後生の一大事は、名号不思議を聞信する一つで解決する。
 修善を往生の資助にしようとするから雑行と言われているのだ。

これだけでいいのです。
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この記事へのコメント
一つ質問させて頂きたいと思います。


弥陀の救いを求めている人(浄土門に入った人?)は、救われるためには、どうすればよいのでしょうか。
具体的な行をお尋ねしています。


未信の私を、いきなり真実弘願に転入させることはできないのでしょうから、阿弥陀仏は、何か権仮方便を用意して下さっていることと思います。

しかし、諸善や六度万行は行う必要がない、と言われます。

では、救われるためには、私は何をすればよいのでしょうか。


聞法と五正行でしょうか。
要門(定散二善)を正・助・雑に開かれたのですから、要門が廃すべきものならば、正助(五正行、お勤め)も廃すべきものになります。

しかし、そんな浄土真宗はあり得ないでしょう。


要門は廃して、真門の念仏に励むべきでしょうか。


しかし、村上速水さんの説が正しければ、化身土巻の内容は簡非として説かれたとのことなので、真門の念仏さえ称えないことになります。
(私は、村上説は容易には受け入れられません。)


聞法だけでよいのでしょうか。

聞法さえも必要ないのでしょうか。

それは、ないでしょうね。

「名号の独り働き」とは、方便なしに助かる、ということでしょうか。


近藤さんのブログを縁として、観経、観経疏、選択集、化身土文類等を、少し勉強してみましたが、どうもよく分かりません。

近藤さんの領解されているところを、分かり易く教えて頂きたく存じます。

よろしくお願い致します。
2009/11/08(日) 00:53 | URL | F #-[ 編集]
F様
いつぞやはお世話になりました。
阿弥陀仏に救われるためには、何かしなければならないと思うのが疑っている心ですが、それはすでに分かっておられると思います。
で、具体的にどうすればいいのかというご質問ですよね。
何か「行」をするということではなくて、阿弥陀仏の本願を聞くのです。
ですから、仰るとおり、聞法が大事なのです。聞法というとどこか法話に参詣することだけではなく、(だけではないと言っているのであって、法話に参詣することも大事ですよ)、お聖教を読んだり、勤行をしたりするのも聞法です。
お聖教では御文章が一番やさしくていいと思います。
称名念仏するのも聞法です。称名念仏は、私が称えるのですが、阿弥陀仏の仰せを聞かせて頂くことになります。
しかし、聴聞が大事であることは、「私が聞いた」功徳によって救われるのではありません。
(そういうこともご存知だとは思いますが)
あくまでも聞くも他力より聞くということです。

なお、Fさんの環境が許すなら、信心の沙汰は大いにすべきでしょう。
蓮如上人が、仏法は聴聞に極まると仰っているとともに、談合賛嘆に極まると仰っているのも大事だからです。
沙汰の場合は、蓮如上人が仰っているように、4~5人ほどがいいでしょうね。
1対1と言うと、なんか土蔵秘事みたいな印象を受けますが、勿論秘事ではなくて、1対1がいいですよね。
できれば、分かっている人が多い方がいいです。
(たとえば、1体2とか2対3とか)
2009/11/08(日) 05:39 | URL | 近藤智史 #-[ 編集]
Fさんへ
お聖教のことですが、漢語聖教は難しいですので、和語聖教がよろしいかと思いますよ。
七祖聖教を読む時は、親鸞聖人の教えられたところに立って読まねばなりません。

また、聖教の拝読も「これだけ拝読したら・・・」というのではありません。
(分かっておられると思いますが、ここは他の人も読んでいますので念のため)
弥陀一仏に帰するのです。
たのむ一念のところ肝要です。
2009/11/08(日) 05:49 | URL | 近藤智史 #-[ 編集]
近藤様

早速、ご返事いただき有難うございました。

また、先日も、定善、散善について御回答いただき、有難うございました。

お礼も申し上げず、失礼いたしました。

前回のも含め、まだよく咀嚼できていませんので、内容については改めて述べさせて頂きます。

とりあえず、お礼まで。
2009/11/08(日) 09:44 | URL | F #-[ 編集]
Fさんへ
いえいえ
分かりやすく説明できなくて、申し訳ないと思います。
今後とも、ご質問などありましたら、遠慮なくおっしゃって下さい。
2009/11/08(日) 22:53 | URL | 近藤智史 #-[ 編集]
この高森会長の文章を読むと自然と御文章(忠臣貞女・外典)が思い浮かびます。なんとなく似ているような感じ?なので思うところを書かせていただきました。


(高森会長)『修善を往生の資助にしようとするから雑行と言われているのだ。』
(蓮如上人)『すでに雑行となづけてきらへるそのこころはいかんぞなれば』

●御文章(忠臣貞女・外典)
そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへるそのこころはいかんぞなれば、
それ弥陀仏の誓ひましますやうは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなる罪ふかき機なりとも、すくひたまはんといへる大願なり。
『しかれば一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。このゆゑに人間においても、まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。
されば外典のことばにいはく、「忠臣は二君につかへず、貞女は二夫をならべず」(史記・意)といへり。阿弥陀如来は三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまはざるべきや。このいはれをもつてよくよくこころうべし。』


『しかれば・・・よくよくこころうべし。』の部分は会長の講演で最も多く聞いた根拠の1つです。その他の文章も含めて聞いたことは1度もありません。
当時自分の脳内では「師匠=高森会長」「弟子=講師または自分」と自動変換が行われ、「高森会長しか善知識はいない。高森会長のご教導に従うしかないのだ」という思いを重ねていたように思います。
親鸞会教学をよく理解している幹部講師からいえば「仏縁浅い奴の聞き損ない」なんだろうけど。
財施・法施(頂いた勝縁)の機会があるたびに会合や法話などで『仏教は後生の一大事に始まりその解決に終わる。善知識は高森先生ただ一人です。』と講師部員が繰り返し強調していた影響も少なくないと思います。
信じる自分も愚かですが、マインドコントロールは恐ろしい。自分も講師も誰一人「善知識は高森先生ただ一人」を確認していなのですから憐れです。


(高森会長)『阿弥陀仏の浄土に往生するのは、弥陀の名号の独り働きだから、諸善や六度万行をやる必要がない。』

●御文章(忠臣貞女・外典)
さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。


『後生の一大事は、名号不思議を聞信する一つで解決する。』

親鸞会で言う『後生の一大事』は『一切衆生必堕無間の一大事』ですが、これがおかしいことは以下のサイトで明らかになっています。
紅楳英顕著『派外からの異説について』
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-19.html
現役会員は是非理解できるまで読んでみてください。

中から抜粋してみますが、
されば、死出の山路のすえ三塗の大河を唯一人こそ行きなんずれ、これに
よりて、ただ深く願うべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。
(『御文章』1の11)
しかれば阿弥陀如来を何とようにたのみ、後生をばねがふべきぞというに
……(『御文章』5の10)

上記を親鸞会教義に合わせてみると
・ただ深く願うべきは(後生)無間地獄へ堕ちることなり
・(後生)無間地獄へ堕ちることをばねがふべきぞというに

無間地獄行きを願って、どうするの?


蓮如上人は「かの極楽往生をとぐべき」一大事と仰せです。

●御文章(忠臣貞女・外典)
これによりて、その阿弥陀如来をば、なにとたのみ、なにと信じて、かの極楽往生をとぐべきぞなれば、
なにのやうもなく、ただわが身は極悪深重のあさましきものなれば、地獄ならではおもむくべきかたもなき身なるを、かたじけなくも弥陀如来ひとりたすけんといふ誓願をおこしたまへりとふかく信じて、
一念帰命の信心をおこせば、まことに宿善の開発にもよほされて、仏智より他力の信心をあたへたまふがゆゑに、
仏心と凡心とひとつになるところをさして、信心獲得の行者とはいふなり。
このうへにはただねてもおきてもへだてなく念仏をとなへて、大悲弘誓の御恩をふかく報謝すべきばかりなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
  ↑
二帖目九通(忠臣貞女・外典)
二帖目十通(それ当流聖人・仏心凡心)
  ↓
『今度の一大事の往生極楽』

それ、当流親鸞聖人のすすめましますところの一義のこころといふは、まづ他力の信心をもつて肝要とせられたり。
この他力の信心といふことをくはしくしらずは、今度の一大事の往生極楽はまことにもつてかなふべからずと、経・釈ともにあきらかにみえたり。
さればその他力の信心のすがたを存知して、真実報土の往生をとげんとおもふについても、
いかやうにこころをももち、またいかやうに機をももちて、かの極楽の往生をばとぐべきやらん。
そのむねをくはしくしりはんべらず。ねんごろにをしへたまふべし。それを聴聞していよいよ堅固の信心をとらんとおもふなり。


紅楳英顕著『派外からの異説について』
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-19.html
には「宿善」論争のこともでています。

自分にとっても、現役会員にとっても、もっとも重要なのが以下の点だと思います。
(抜粋)
「破邪顕正や財施を獲信のための宿善として修せよ」とある文証は、未だに何等示されていない。

親鸞会は今「善の勧め」で外部への批判をしていますが、「何のための善の勧め」でしょうか?
ココ⇒「破邪顕正や財施を獲信のための宿善として」に焦点を置いてみてください。
じっくり丁寧に読まれることをお勧めします。

2009/11/09(月) 19:00 | URL | #-[ 編集]
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