何も言うことはございません。「一念多念証文」には「廻向とは本願の名号をもて、十方の衆生に与え給うみのりなり」と釈されてある。ひらたく言えば「下さる」ということである。
それ故に、名号とは「与えて下さる法」ということである。即ちこの私に渡し与えて下さる法である。
ここで一つ注意しておかねばならないことは、「与えるから受け取れ」というのではなく、「与える」という以外にはないのである。なぜならば、私どもには受け取る力さえないからである。これは何でもないことのようであるが、このことは大切なことがらである。このことが聞こえてないと、もらうことにのみ骨折ることになって、法義の方向を誤ってゆくことになる。
要するに如来の廻向は「与えるぞ」の一点張りである。しかもその「与えるぞ」とは、「摂取するぞ」ということである。だから他力廻向とは摂取廻向の意味である。
浄土真宗で一番大切と言ってもいいんじゃないかと思いますよ。
タグ : 加茂仰順
先月は駅前のファミレスで近藤先生と宮田先生にお世話になった
者です。
>与えるから受け取れ」というのではなく、「与える」という以外にはないのである。なぜならば、私どもには受け取る力さえないからである。
これをどう心得ればよいかの一点で、困り果てています。
正直にいえば、聞法することに意味を見出すことが出来なくなっています。
お聖教を読むにしても、理解しようとしてしか読むことができません。
しかしいくら理解を深めても名号を与えられることにならないとのことです。
私のお聖教を拝読していた意味は、私の救われていない原因がどこにあるのかを探し、その思い違いを直すことでした、が、「思い違い」は救われない原因ではないようです。
阿弥陀仏の本願を聞くことです。と言われますが、私が本願の解説・説法をきいても、私が何か思ったり理解したりするだけです。
このことが本当に大切なのでしょうか。
受け取る力もない私なら、「受け取る力がないものに与える」と
聞かせて頂いて何を思えばいいのでしょうか。
いくら話を聞いても、私の理解に変化があるだけで、救いと関係ないのなら、もう意味があるように思えません。
毎日機械的にお聖教を読む作業を繰り返していくことと、一生懸命理解を深めようと聞法に励むことになにか救いに差がありますでしょうか。
弥陀のお慈悲を聞いてみりゃ
きくより先のお助けよ
聞くに用事はさらにない
用事なければ聞くばかり
(お軽同行)
ですね。
信仰に段階がないとは言われますが、下から4行目のところで私の信仰は止まっています。
私の心は、『ホントに無常観が問題になってくる感じ』の前までの文章そのままです。
そのままというか私が書いた文章のような気がするほど、その通りです。
『ホントに無常観が・・・』の部分は、『ホントに』を省けばその通りの心境です。
それ以降の、『自力いっぱいもとめるぞ・・・』からは、私の信仰を超えていて、わかりません。
近藤先生のエントリーをお待ちしております。
全部分かったということでしょうね。
私のエントリーというのは、私の経験ということではありません。
そんなことを聞いてもダメです。
いままでこのブログに書いてきたことのほとんどは、直接獲信に関係することです。
しかし、このエントリーと次のエントリーにありますように、本願力回向の法義がもっとも大切であり、それしかないといってもよいでしょう。
先手の本願をそのまま聞かせて頂くのですよ。