引用元:
http://www.geocities.jp/recoverycult2005/shukyotocult.html
宗教カルトを経験して以来、宗教なんてどれもうさんくさいと思うようになった、と思う人は少なくないようです。その一方で、1つのカルトを出た後、また似たようなタイプのカルトに入り、そのパターンを繰り返す人も、やはり少なくないようです。カルトは人間の「信じる」力を破壊するので、入ってしまった人は何をどの程度、どんな風に信じたらいいのかという、微妙な調節感覚を失いがちなのです。
ここでは、「宗教もカルトも同じようなものだ」という極論から冷静に身を引いて考えるために、カルトではない宗教とカルトとの違いを示します。
宗教は個人の自立を尊重する。
カルトは服従を強いる。
宗教は個々人を助け、その人の信仰的な求めを充たそうとする。
カルトは信仰的な求めを搾取する。
宗教は問いや自立した批判的な考え方を許し、また奨励しもする。
カルトは問いや自立した批判的な思考をさせない。
宗教は心理上のことと信仰上のことを統合する。
カルトは信者を「カルトの中でのよい自分」と「過去の悪い自分」に分裂させる。
宗教の改宗は一個人のアイデンティティに関わる内的プロセスの展開を伴う。
カルトの改宗は、一個人のアイデンティティに顧慮することない外的力に、知らないうちに投降してしまう。
宗教は金銭を倫理的抑制に従いつつ、崇高な目的を果たすための手段の1つとしてみなす。
カルトは金銭を、目的として、また権力を手に入れ、リーダーたちの利己的な目的を果たすための手段としてみなす。
宗教は、信者と宗教家とのセックスは非倫理的であると見なす。
カルトはしばしば、信者をリーダーたちの性的欲求のはけ口とする。
宗教は批判する人に丁寧に応答する。
カルトはしばしば、物理的あるいは法的脅迫で批判する人々を脅す。
宗教は家族、家庭を大切にする。
カルトは家族、家庭を敵と見なす。
宗教はある人が入信しようとする時には、よく考えてから決断するよう勧める。
カルトはほとんど情報を与えないまま、即断するように求める。
どうですか?違いが把握できましたか?
あなたが今後、宗教に関わる時、指標にすることをお勧めします。
参考文献:
志村 真 編訳 「カルト・カウンセリング問題資料集Ⅰ」より
リチャード・L・ダウハゥアー著
「牧師/神父(宗教家)のための指針」
タグ : カルト
近藤さんはそのような活動をされるご予定はございますか?
私どもは「自信教人信」を基本としております。
つまり、蓮如上人も「教化する人、まず信心をよく決定して…」とか「自信教人信と候時は、まず我信心決定して…」とかおっしゃっていますように、信心決定されることが、「まず」大事なのであり、「その上」での「教人信」です。
信心決定した人がそれぞれの考えで布教活動をするかもしれません。(それも各自の自由ですが)
その際、会の名を背負う場合は、社会通念に従うようお話します。
会としては、ご指摘のような勧誘活動をする予定はございません。
「1つのカルトを出た後、また似たようなタイプのカルトに入り、そのパターンを繰り返す人も、やはり少なくない」のと同様、1つのカルトを出た後、似たようなタイプのカルトを作る者も少なくないようですので、あのような質問をいたしました。
私は前の記事にもありましたがカルトに特徴的なものの一つとして代表とかトップを盲目的に崇拝する組織構造が結果的に巧みに作られてしまうことがあると思います(意図したものであってもそうでなくても)。そして一旦作られたあとはそれを維持しようとカルト化し、構成員が自ら望んでそれを維持しようしてしまっていつの間にかそれが目的になってしまうのだと思います。
近藤先生は弥陀の使いと仰有られ、御同行、御同朋の精神をもっておられるのだと拝察いたします。しかし、やはり聞かせていただこうと思うならば「知識、先生」と尊敬の念をもって臨む人もあると思います。先生と私は平等だ、なんて恐れ多いと。ましてや難信の法、先生だけが頼りです、という気持ちにもなるかも知れません。恩も感ずれば、崇拝の念が生まれることもあるのではないでしょうか。誰も最初から、私は偉いという態度ではなかったと思うのです。
上にありました和やかな雰囲気でというのは素晴らしいと思います。そうでなければ心を出すこともできないと思います。私は上の人が恐くて仕方なくて何も言えなかったです。上下関係はないのでしょうか。教人信として人を導いていかれるお立場としてそのあたりをどうお考えになりますか。
個人的に直接お聞きしても良かったのですが、どうせなら他の方にも知っていただきたいと思い、こちらに質問させていただきました。