ところがまた、その安心をしたい心から悩む場合がありますが、その心持ちをうち割ってみれば、安心できたらお助けにあずかりうるという気分があるわけです。安心できだらお助けと思う心は、帯をしめて、着物を着るようなもので、順序を誤っているのです。私たちは着物を着て帯をしめるのですから、弥陀のお助けが聞こえたところに、安心となるのです。さらに言えば、お助けに安心させてもらうのです。安心したい、落ち着きたい、喜びたいの思いがさきに立つのではなく、お取り次ぎによってお助けを、お助けと聞かしてもらうところに、安心したいの思いに用事が無くなって、およびごえのままに安心させられ、落ち着かせてもらうのです。ここのところをお軽同行は、「弥陀の仰せを聞いてみりゃ 聞くより先のお助けよ 何の用事もさらにない 用事なければ聞くばかり 」と述べています。
ここで私たちの機ざまについて触れておかねばなりません。トンボがガラス障子に当たり、ちょっと横になれば出られるものを、出たい出たい一杯でガラスにぶち当たっています。そのうち尻尾がちぎれ、足がちぎれて落ちてしまいます。どうもこの機ではと、どうもどうもで長い間おしつまって、抜けられんことをもがいてまいりました。せっかく尊いおみのりを聞きながら、その身にならん、そうは思えんという気持ちが起きてきて、自分の心にぐずぐずしています。この心が万劫の仇です。このたびこの心にうちとられるか、うちとられずにすむか。この心がどうにかなったらお助けにあずかるかのように思い、なれないことをもがきます。六連島のお軽もはじめは、「晴れようにかかって晴れられん。晴らしてやるのがもらわれん」というてなげいていますのもこのことです。一文菓子を買うようなつもりであってはなりません。今聞いて頂けん法なら、50年命を棒に振って聞いても頂けんものは頂けません。
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