聴聞 加茂仰順師『真宗の信心』(探究社)より

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2009/11/10(火)
 これについて「ご本願のお手元は疑うているとは思わないが、何やら心がしっかりとしない。これは今落ちるということが知れないからではないのか」ということをよく耳にすることがあります。この心持ちは、落ちるすがたになってみようとしているのです。しかし死んだ時には必ず落ちますが、死なぬ先から落ちると心を押してみても、落ちる気にはなれません。今落ちると言うても、心の底は今落ちるとは思われないものです。それはあたかも病人が医師の仕事をするのと変わりません。これを言うてみれば、診察して重い病気か軽い病気かを見定めて薬を与えられるのが医師の役目です。そのさしずにしたがって薬の飲むのが病人です。それであるのに薬を飲むことはほかにして、わが手をにぎって軽いか重いか、治るか治らないかと脈ばかりみていて、病気の治るはずがないのと同じことです。だから自分で脈をみるような骨折りは止めてしまうことです。落ちると思うても、思わなくても落ちることは必定です。ところが、有り難いことには、落ちるよりほかないこの身が如来の正客であると仰せられるのでありますから、落ちるこの身のなりを助けるぞよのおまことが聞こえたところに安心となります。

 ところがまた、その安心をしたい心から悩む場合がありますが、その心持ちをうち割ってみれば、安心できたらお助けにあずかりうるという気分があるわけです。安心できだらお助けと思う心は、帯をしめて、着物を着るようなもので、順序を誤っているのです。私たちは着物を着て帯をしめるのですから、弥陀のお助けが聞こえたところに、安心となるのです。さらに言えば、お助けに安心させてもらうのです。安心したい、落ち着きたい、喜びたいの思いがさきに立つのではなく、お取り次ぎによってお助けを、お助けと聞かしてもらうところに、安心したいの思いに用事が無くなって、およびごえのままに安心させられ、落ち着かせてもらうのです。ここのところをお軽同行は、「弥陀の仰せを聞いてみりゃ 聞くより先のお助けよ 何の用事もさらにない 用事なければ聞くばかり 」と述べています。

 ここで私たちの機ざまについて触れておかねばなりません。トンボがガラス障子に当たり、ちょっと横になれば出られるものを、出たい出たい一杯でガラスにぶち当たっています。そのうち尻尾がちぎれ、足がちぎれて落ちてしまいます。どうもこの機ではと、どうもどうもで長い間おしつまって、抜けられんことをもがいてまいりました。せっかく尊いおみのりを聞きながら、その身にならん、そうは思えんという気持ちが起きてきて、自分の心にぐずぐずしています。この心が万劫の仇です。このたびこの心にうちとられるか、うちとられずにすむか。この心がどうにかなったらお助けにあずかるかのように思い、なれないことをもがきます。六連島のお軽もはじめは、「晴れようにかかって晴れられん。晴らしてやるのがもらわれん」というてなげいていますのもこのことです。一文菓子を買うようなつもりであってはなりません。今聞いて頂けん法なら、50年命を棒に振って聞いても頂けんものは頂けません。
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