善巧方便と権仮方便

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2009/11/12(木)
善巧方便権仮方便については、これまで幾度も述べてきました。

要門考(ここでは真実と方便の関係のみ)
観無量寿経 覚書 その7
方便
方便といふこと 3
方便といふこと 4

まとめの意味で、木村世雄氏の論文 『歎異抄』における真実と方便の関係 より引きます。
(浄土真宗の方便義がよくまとめられているということで、木村氏独自の考えではありません)

・・・つまり方便には《善巧方便》と《権仮方便》の二種類があるというのである。
善巧方便
 仏・菩薩が衆生をさとりに導くために、衆生の素質や能力に応じて巧みに化する大悲の具現としての手段、方法、巧妙の智用。
権仮方便
 真実の法に入らしめるために仮に設けた法門のこと。方便願、方便の行信、方便化身土というようなものがこれに相当する。この方便は、一度真実に入ったならば不要となり廃されるため暫用還廃(暫く用いて還りて廃す)の法といわれる。

と説明される。

 前者の意味での方便とは娑婆世界の衆生を証果へといざなう方法という意味であり<方便智>あるいは<権智>とも称する。要するに如来の智慧の働きを土台にして巧みな教化方法のことである。善巧方便はまた真実を知ったからといって捨て去ってよいというものではない。
 対する権仮方便は親鸞の「化身土文類」の土台でもある。権仮方便は真実を知りえないものを真実に入らしめるために一時的に用いる方便であり、真実に触れたならばそれを廃し去る方便を意味する。

 伝統的な宗学の解釈では「随自意の法門」と「随他意の法門」とに分けて善巧方便権仮方便の立場を区別化される。

 「随自意の法門」とは善巧方便のことである。仏の自らの意にかなって用いられる教化の方法であるからそのように称される。それは大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を済度されるという意味で、阿弥陀仏を「方便法身」というときの方便がそれである。『唯信鈔文意』において二種法身が語られる方便はこの善巧方便に該当する。
 法性法身自身が法性法身とはいかなる法身であるのかを巧みに表現するために、方便法身として「形をあらはして」説明されるのが善巧方便である。法性法身と方便法身は決して別物ではなく、ただ法性と対した時に便宜的に方便と称されているだけで、方便法身は法性法身の世界に達するまでの階梯といった意味ではない。法性法身は全性修起して方便法身を全うじるものである。

 対して「随他意の法門」とは権仮方便のことであり、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受け取れないから、その機(すなわち阿弥陀仏自身から見た「他」のことで、すなわち衆生のこと)に応じて仮にしばらく誘引のために用いられる教えをいう。機が真実の法門に入ったならば、権化の法門は不要となり還りて廃せられる。このように暫く用いるが後には還って廃するような方便を権仮方便もしくは「随他意の法門」という。それは具体的には第十九願(要門)・第二十願(真門)の世界のことを指している。
『浄土和讃』「大経讃」には、

 聖道権仮の方便に
 衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる
 悲願の一乗帰命せよ

とある。
また『愚禿鈔』巻下には

 上よりこのかた一切の定散の諸善ことごとく雑行と名づく、六種の正に対して六種の雑あるべし。雑行の言は人・天・菩薩等の解行雑するがゆゑに雑といふなり。もとよりこのかた浄土の業因にあらず、これを発願の行と名づく、また回心の行と名づく、ゆゑに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり。おほよそ聖道・浄土、正雑、定散、みなこれ回心の行なりと、知るべし。

とし、ここでは定散二善の聖道行を「回心の行」と名づけることによって、遂には第十八願の信心の世界へと導かれていく雑行であるとされている。

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