救われるとは

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2009/11/19(木)
『親鸞の世界 -信の領解-』(加茂仰順師)より

金銭のことで困っているところへ他から貸してもらったときや、海にはまっているところを引きあげてもらうというような世間の救いと同じように真宗の救いを聞いておれば間違いです。これでは第十八願の思召ではありません。つまり助かりたいの腹一ぱいのところへ、お助けを聞くのですから、ありがたい思いの出るのは当然です。だからこうしたことからすれば、聞いてさようさようとうなずくのを押えて「助けたまえ」の思いだとしたり、凡夫の上から出たものを「信」とするようなあやまりをいたすことになってゆくわけです。いわば買い手と売り手が一致して手が打てたのですから、ここではこれを「にらめっこの安心」と申しておきます。
「無有出離」と読み破られたこの私という屍にはさようと手を打つ力はないはずです。屍の思い心を信じゃとか「たすけたまえ」の思いであるとしてはとてもだめなことです。私の思いが役に立つくらいなら、「無有出離」と見抜かれたはずはありません。ともかくも如来の願力が無有出離のこの私におはたらきになるまま、私はいま助けられるのです。如来に喚ばれるまんま、そのおよび声に救われるのです。如来の救いのはたらきにうちはからわれるのです。

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タグ : 加茂仰順

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