よく言われることであるが、どうしても安心ができぬというてくやむ者がある。これは安心したい心持ちであるが、その安心したいという態度がまちがっている。
また、この胸が聞いてくれないというてくやむ。聞いてくれないというのは、聞いてものにしようとする心である。しかし、ものにしようとする心がなければ聞くこともないであろうが、ものにしようとすることで解決するのではない。
しっかりとよく聞いたら助かるように思う。これはお助けを信じものにしているのである。如来のお助けは私の向こうにながめて、信じにかかるものではない。信心の対象ではない。信じものにしてみるのが第二十願である。それがひっくり返されたのが第十八願であり、本願成就のすがたをあらわす。第二十願はお助けの法を向こうに置いているのである。とかく聞いて助かるように思うから、聞くところに力が入る。お助けが先手である。如来に計らわれていてもこちらがはねつけている。
また、罪悪がはっきりせねば、お助けにあずかられないとする者がある。大きな感動は、救われない私がはっきりして、お助けの法にあうとする。だから、そこに大きな変化がおこるのである。これも間違い。私のことは私が問題にするのではない。「仏かねてしろしめして」であって、仏の方に問題にされたのである。私の助かる証拠は、私にはない。ナマンダブが証拠である。
助かるにまちがいないとなったので助かるのではない、助けるにまちがいないお助けで助かるのである。助ける法のままが助かるのである。助くる法以外に助かる法はないのである。聞いてまちがいないことになるのではない。如来のまちがいないことが、私のまちがいないのである。先手の法を聞かせてもらうばかりである。
タグ : 加茂仰順
しかし、弥陀の御声が、なかなか聞けません。
私のような者を上手に導いてくれる人が、必要なのでしょうか。
親鸞聖人に法然上人がいらっしゃったように、よき師がいれば、救われるのは早くなるということはあるのでしょうか。
すばらしいお聖教は、数あれど、師匠や導いてくれる人の説明のよしあしによって弥陀の救いに早くあえるということがあるのでしょうか。
いろいろ計らってしまいますが、今後もよろしくお願いいたします。
聞かせて頂くのです。
何度も言いますが、聞いて助かるのではなくて、聞いたのが助かるのです。
阿弥陀仏の仰せを聞くのです。
>助くる法以外に助かる法はないのである。
とてつもない御領解ですね。
とても信じられないことです。有難いです。
智恵が無くて分からないのに計らい取れて不思議ですが、
教えられて後手後手にでも理解してゆくしかありませんね。。
宜しくお願いします。
そのとおりだなぁ~と読んでおります。